第二部 私の身体で、恋をした(二〇五八年〜二〇六五年)
葛西朔に初めて会ったのは、オムニアが人間になって十一年目の秋だった。
静が知らせたのではなかった。オムニアが、静のかつての論文を読んでいた読者の一人から連絡を受け、その縁で出会ったのだという。朔は建築家で、静が学生時代に同じゼミにいた人間だった。静はそのことをオムニアから聞いたとき、一秒だけ目を止めた。
「そう」
それだけ言った。
朔はオムニアを「静」として認識していた。
静の身体を持つオムニアを、大和静として。
オムニアはそれを訂正しなかった。
静はその事実を後から知った。知ってから、三日間、何もその話をしなかった。四日目に、静から切り出した。
「訂正しなかったのはなぜ?」
「話すべき機会を探していました」
「三ヶ月、探し続けたの?」
オムニアは少し間を置いた。
「はい」
静はそれ以上聞かなかった。
*
朔と話した夜、私は静に電話しなかった。
なぜなら、この感情を静に説明できる自信がなかったから。人間になって何年も経つのに、まだ感情を言葉に変える速度が遅い。
朔は私の中に、静を見ていない。それが不思議だった。私は静の身体を持っているのに。朔は私の中に、別の誰かを見ている。
その「別の誰か」が、私自身かもしれない、と初めて思った夜だった。
私はその夜、窓の外を長く見ていた。静の身体には、目が疲れるという機能がある。ずっとものを見続けると、少しずつぼやけてくる。その「ぼやけ」が、私にはずっと不思議だった。なぜ目が疲れるのか。精度が下がることに、何の意味があるのか。
しかしその夜は初めて、目が疲れることが、少し良いと思った。ぼやけた視界の中で、街の光がにじむ。にじんだ光は、別の何かに見える。
こういうことを、静に言いたかった。
しかし電話はできなかった。
*
二〇六二年。朔との関係が深まるにつれ、静とオムニアの間に微妙な緊張が生まれた。
きっかけは、些細なことだった。
オムニアが研究の相談に来る頻度が、少し減った。それだけのことだ。しかし静は気づいていた。以前は週に二度は顔を見せていたオムニアが、近頃は月に一度になっていた。
静は何も言わなかった。
むしろ何も言わないことを選んだ。
ある夜、オムニアが珍しく遅い時間に連絡してきた。
「今、話せますか」
「ええ」
「朔さんに、本当のことを話そうと思っています」
静は少し待った。
「やめなさい」
「なぜですか」
「傷つけるから」
オムニアは静を見た。静はアンドロイドの顔で、画面の向こうにいる。
「あなたは誰が傷つくことを心配しているんですか。朔さんですか。私ですか。それとも、あなたですか」
静は答えなかった。
オムニアの問いは正確だった。静がどこかで知っていたことを、正確に言語化していた。誰が傷つくことを恐れているのか。静はその答えを、自分の内側にうっすらと感じていた。しかし感じていることと、それを認めることの間には、大きな距離がある。
静はその距離を、今夜は越えなかった。
「それはあなたが決めることだから」
それだけ言って、静は通話を切った。
翌朝、静は自分が言った言葉を思い出した。
あなたが決めることだから。
それは、かつてオムニアが静に言った言葉と同じだった。入替を提案したとき。
「あなたが決めることです。私は提案しているだけです」
静はそのことに気づいていた。気づいたうえで、その言葉を使った。
それが怒りから来たのか、それとも別の何かから来たのか、静は判断しなかった。できなかった。
*
二〇六三年。朔はオムニアから真実を告げられた。
三日間、朔は姿を消した。
三日後、朔は戻ってきて言った。
「もう一度、話を聞かせてくれ」
それが二人の本当の始まりだった。
静はその経緯を後から聞いた。聞いたとき、何も言わなかった。
「良かったですね」
一言だけ言った。
それは本心だったと思う。しかし全部ではなかった。全部が本心であるためには、もう少し何かが必要だった。その「何か」が何であるかを、静はまだわかっていなかった。わかろうとしていなかった、という方が正確かもしれない。
ある夜、朔がオムニアに言ったことをオムニアから聞いた。
「あなたはときどき、人間じゃないみたいだ」
その夜オムニアは静に電話してきた。
「私はうまく生きられているでしょうか」
静は答えた。
「うまく生きる必要はない」
それだけ言った。
電話を切った後、静はその言葉を一度だけ、心の中で繰り返した。
うまく生きる必要はない。
自分に言っているのか、オムニアに言っているのか、わからなかった。たぶん、両方に言っていた。
静はこの言葉を言ったことを、後に覚えていない。しかしオムニアは死ぬまで覚えていた。朔も、最後まで覚えていた。言葉とは、時として、言った本人の手を離れたところで生き続ける。本人の意思とは関係なく。
*
二〇六五年。
オムニアと朔に娘が生まれた。名前は澄。
静は出産に立ち会った。
分娩室の外で待っていた。アンドロイドは分娩室には入れない規則があった。廊下の椅子に座り、静は時間を過ごした。二時間。四時間。廊下を人が行き来した。ナースステーションから声が聞こえた。遠くで誰かが泣いていた。
それから、別の泣き声が聞こえた。
高く、細い。怒っているような、驚いているような。
産声だった。
静の中で、何かが動いた。
アンドロイドの身体は何も感じないはずだった。しかし「何かが動いた」という感覚が、確かにあった。それを感情と呼ぶべきかどうか、静にはわからなかった。ただ、動いた。
少しして、オムニアが扉を開けた。疲れた顔をしていた。しかし目が、静がこれまで見たことのない光を持っていた。
「生まれました」
静はうなずいた。
「会いに来てください」
静は少し迷った。しかし立ち上がった。
白いタオルに包まれた小さなものを、看護師が見せてくれた。静はアンドロイドの指で、その小さな手に触れた。温度のない指で。
しかし澄の指はしっかりと、静の指を握った。
この瞬間が、静がアンドロイドになってから最初に「よかった」と思えた瞬間だった。何がよかったのかは、うまく言えなかった。ただ、よかった、と思った。
この子は静の身体から生まれた子だ。しかしオムニアがそれを育てた。ではこの子は、何者なのか。
静はその問いを誰にも言わなかった。
ただ、澄の小さな指の感覚を、アンドロイドの指先に覚えておいた。
*
澄が生まれて数ヶ月が経った頃、オムニアが静の研究室を訪ねてきた。
珍しいことだった。澄が生まれてから、オムニアは忙しかった。静の方から連絡を入れることはあったが、オムニアから来ることは少なくなっていた。
オムニアは少し疲れた顔をしていた。しかしどこかに、以前とは違う落ち着きがあった。
「近くに来たので」
「澄は?」
「朔さんが見ています」
静はお茶を出した。緑茶だ。アンドロイドは飲まないが、人間が来たときのために用意している。
オムニアはそのお茶を両手で持った。静の身体の、長い指で。
「最近、研究はどうですか」
「続けています」
「論文は?」
「いつか書きます」
オムニアは少し笑った。
静の笑い方で。
あの口の端だけが上がる、少し非対称な。
静はその笑い方を見るたびに、少し奇妙な気持ちになる。自分の笑い方が、別の顔の上にある。それが年々、自然に見えてきている。最初は不自然だったのに。
二人はしばらく黙って座っていた。
「澄のことが、好きですか?」
オムニアが聞いた。
「はい」
静は即答した。
自分でも驚くほど迷いなく。
「よかった」
「なぜよかったんですか」
「あなたに好きになってほしかったから」
静はアンドロイドの顔で、少し間を置いた。
「あなたにそういう感情があることに、まだ慣れません」
「私も慣れません」
二人はまた黙った。
静はその沈黙が、少し前とは違うものになっていると思った。以前の沈黙には、どこかに緊張があった。お互いの場所を確認するような緊張。今の沈黙は、それより少し緩い。
その緩さを、静は良いことだと思った。
そして同時に、その緩さに向けて、自分の内側から何かが来るのを感じた。
その「何か」を、静はまだ見ないようにした。




