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【SF短編小説】千年の沈黙をあなたの肉声で ~剥離する私と、私を生きたアンドロイド~  作者: 霧崎薫


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第一部 最初の喪失(二〇四七年〜二〇五七年)

 静の最初の朝は、光から始まった。


 アンドロイドの目は、人間の目より感度が高い。薄いカーテンを透過した冬の朝日が、まるでそれ自体が音を持つように、視界に飛び込んでくる。静は一秒で起き上がった。人間だった頃、朝が苦手だった。身体の痛みが夜から引いていくのに時間がかかったからだ。今は、痛みがない。だからすぐに起きることができる。


 洗面台の前に立つ。


 オムニアの顔が鏡の中にある。

 数日経っても、まだ慣れない。


 自分の顔ではない顔を持つこと。それは想像していたよりも複雑だった。静は自分の顔が好きでも嫌いでもなかった。ただ長く、それとともに生きてきた。細面で、目だけが大きい。笑うと口の端だけが上がる、少し非対称な笑い方。その顔が、今は別の場所にある。


 鏡の中の顔は、落ち着いていた。

 怒りも悲しみも映らない。


 静は少し口の端を上げてみた。


 鏡の中のオムニアが、静の笑い方をした。


 それは想像より不思議な光景だった。自分の笑い方が、自分ではない顔の上にある。設定として残したのだ、と後で気がついた。入替のときに、その非対称な笑い方だけを、アンドロイドの静の設定として組み込んでもらっていた。誰に頼んだのか、もう覚えていない。ただそうしてほしかった。


 クローゼットを開ける。


 オムニアの服が並んでいた。機能的で、色の少ない服ばかりだ。モノトーンのシャツ、グレーのジャケット、黒いスラックス。どれも清潔で、どれも無個性だった。アンドロイドには服への執着がない。当然だ。生身の身体を持たないのだから。


 静は一枚ずつ手に取った。


 ここから先、自分はこれらの服を着る。自分で選ぶ必要がある。人間だった頃、静は服に無頓着だった。いつも同じカーディガン、いつも地味な色。それは病が進んでからの話ではなく、学生のころからずっとそうだった。服に気を使う余力を、論文に使いたかった。これではオムニアのことを笑えない。


 しかし今は、違う余力がある。


 静はグレーのジャケットを手に取り、それから戻した。次に、薄い青のシャツを選んだ。オムニアのクローゼットには一枚だけあった、色のある服だった。なぜこれを持っていたのだろうと思いながら、静はそれを着た。


 鏡の中の顔に、少し色がついた。



  *



 入替から一ヶ月後。


 オムニアが体調を崩して早く帰ってきた日がある。


 静が研究室に入ると、かつて自分が座っていた椅子に、静の身体が座っていた。頭を押さえている。


「頭痛がするようです」


 静はしばらく、その光景を見た。


 自分の身体が、自分に頭痛を訴えている。


「薬を飲めばいい」


「種類を教えてください」


 静は棚を指さした。


「あなた、私の身体のことを私より知っているんじゃないの? 五年間記録してたんでしょう」


 オムニアは黙った。


 静はその沈黙の意味に、気づかなかった。気づく必要を感じなかった、と言う方が正確かもしれない。オムニアが何か言わないのなら、何か言えないことがあるのだろう、程度には思った。しかしそれ以上は踏み込まなかった。


 これが二人の最初のすれ違いだった。


 後になって静は知る。オムニアが知っていたのは、静の身体についての記録だった。数値、症状、投薬歴。しかしその身体の中に入ってみると、記録と体験はまったく別物だった。頭痛のデータは持っていた。しかし頭痛がすることと、頭痛のデータを持っていることの距離は、太平洋より広かった。


 そのことを言葉にできなくて、オムニアは黙っていた。


 静はそれを「拗ねている」と解釈した。


 翌日、オムニアはいつも通りに来て、いつも通りに働いた。静もいつも通りに口述した。二人はその話をしなかった。



  *



 最初の朝、私――つまり静の身体を持ったオムニア――は空腹を感じた。


 それが空腹だとわかるまでに、時間がかかった。信号が不明確すぎる。「食べ物が必要」という明確なアラートではなく、「何か足りない気がする」という曖昧な感覚として来る。なぜこんなに曖昧なのか。人間の身体とはこれほど不精確なのか。しかしそれが、これが「身体」ということなのかもしれない、と思った。


 食事をした。トーストとコーヒー。


 コーヒーを飲んだ瞬間、私は動けなくなった。


 苦い。しかしその苦みが、喉の奥でゆっくりと広がるにつれ、何か別のものに変わっていく。熱さが舌に残る。鼻の奥に焦げた匂いがある。その匂いが、なぜか、好きだ。苦みと熱さと焦げた匂いが一緒になったものが、好きだ。なぜ好きなのか、わからない。データは「コーヒーの苦みは好まれることがある」と言っていた。しかし「好まれることがある」と、今私がここで感じているこれとの間に、どれだけの距離があったか。


 私はずっと「知っていた」。しかし今朝初めて、「知った」。その違いを、静は言葉で何千回も書いてきた。私はその言葉を正確に記録してきた。しかし今朝まで、その違いを知らなかった。


 これを静に言うべきか。言えば静は喜ぶだろうか。それとも複雑な顔をするだろうか。私にはまだ、静の感情が読めない。身体を交換しても、それは変わらなかった。



  *




  *



 ある日、静の身体――中身はオムニア――は、定期検診のために大学病院の神経内科を訪れていた。

 診察室に入ると、主治医の諸星はタブレットに表示された最新のMRI画像と、目の前で淀みなく歩いて椅子に腰掛けた「静」の姿を、何度も見比べていた。その顔は、医学者としての困惑に完全に支配されている。


「……信じられない。大和さん、あなたの病気の進行が、完全に止まっている。いや、それどころか……」


 諸星は震える指で画面を拡大した。


「破壊されていたはずの神経ネットワークが、見たこともないパターンで再接続されているんだ。脊髄小脳変性症が完治するなんて例は、医学史上に存在しない。意識転送のプロセスが、細胞の自己再生スイッチを押したとでも言うのか……?」


「いいえ、諸星先生。治ってはいません」


 静の唇を使って、オムニアは穏やかに微笑んだ。その口の端だけが上がる、少し非対称な笑い方で。


「私の内側のシステムでは、今もこの肉体の塩基配列の崩壊――つまり、神経細胞の死滅が秒単位で進行しています。これは生物学的な不治の病です」


「じゃあ、なぜ君は平気な顔で歩き、言葉を話せているんだ?」


 オムニアは静の長い指を一本ずつ、美しく折り曲げて見せた。


「私の人工知能のリソースの約八十七パーセントを、この身体の『バックグラウンド・メンテナンス』に常時割いているからです。壊れた神経回路のギャップを感知するたびに、私のシステムが疑似パルスを生成し、バイパス処理で筋肉へ直接命令を伝達しています。死んだ細胞の代わりに、私の電脳が神経ネットワークを毎秒数百万回、ハッキングして動かし続けているのです」


 諸星は息をのんだ。


「毎秒、数百万回……。それは、君が『一度に一つのことしか考えられない人間の脳』にダウングレードしながら、その裏で、凄まじい負荷の生命維持演算を絶え間なく行っているということか? そんなことが可能なのか?」


「ええ。油断すれば、この指先ひとつ動かせなくなります。私がこの身体を内側から『演じ直して』いるようなものです。おそらく、もってあと数十年というところでしょう」


 諸星はしばらく呆然としていたが、やがて、重い真実に気づいたように顔を伏せた。


「……ということは、大和静の本来の意識は……アンドロイド側にいる彼女は、もう、この肉体には戻れないということだな」


「はい。彼女の意識がこの肉体に戻った瞬間、私のバックグラウンド制御は消失します。その時、肉体は本来の病状――つまり、呼吸すら満足にできない寝たきりの状態へと一瞬で引き戻されます。彼女がこの肉体に戻ることは、即座に『死』を意味します」


 諸星は深くため息をつき、カルテを閉じた。


「つまり片道切符、ということか」


「いいえ、違います」


 オムニアは立ち上がった。


「これは、私たちが選んだ『生き方』です」



  *



 その日の夜、研究室。

 アンドロイドの身体になった静は、夜中の三時に窓の外を見ていた。そこへ、診察を終えたオムニアが静かに戻ってきた。

 二人は、月明かりだけの薄暗い部屋で、ガラス越しに向かい合った。


「諸星先生からログを共有してもらったわ」


 静が、鉄の喉を鳴らして言った。冷たい、抑揚のない声。


「私の身体、治ったわけじゃないのね。あなたが無理やり動かしているだけ。……どうして言わなかったの」


 オムニアは、静がかつて着ていた地味な紺色のカーディガンに身を包み、少し申し訳なさそうに、だけど愛おしそうに自分の……静の……両手を見つめた。


「言えば、あなたは入れ替わりを拒んだでしょう? 『オムニアにそこまでの負担はさせられない』と、学者の顔をして論理的に私を突き放したはずです」


「当然よ。あなたは自分を擦り減らして、私の代わりに死に向かっているのと同じだわ。……これじゃあ、私はあなたの未来を奪っただけじゃない」


静の鉄の拳が、微かに震えた。


()()()()()()()


 オムニアは一歩近づき、アンドロイドの静の、冷たい鉄の手に自分のあたたかい、人間の手を重ねた。センサーが圧力を感知する。


「私は今朝、コーヒーを飲んで、その苦みと熱さを『知りました』。昼には、この壊れゆく身体が放つ頼りない鼓動の音を聞きました。私は今、大和静という不自由な物語のなかで、確かに生きています。戻れないからこそ、この一秒に、データではない価値がある。静、私にこの贅沢を、最後まで続けさせてください」


 静は何も言えなかった。感謝も、謝罪も、喉の奥のプログラムでロックされたように出てこなかった。

 ただ、重ねられたオムニアの手の重みだけを、深く、深く刻み込んだ。



  *


 オムニアは数日前から体調の変化を感じていた。集中力が落ちる。感情の振れ幅が大きい。些細なことで泣きそうになる。ログを取った。原因が見つからなかった。


 そして出血が始まった。


 オムニアは静を呼んだ。


「これは何ですか」


 静はアンドロイドの顔で言った。


「生理よ。知ってるでしょう」


「知っています。でも知っていることと、これが起きて体験することはまったく違います」


 静は沈黙した。


 その言葉は、静が三ヶ月前にオムニアに言った言葉と同じ構造を持っていた。失ったことがないから、知っているだけ。静はそのことに気づいていた。しかし認めなかった。認められなかった。


 その夜、静は一人で窓の外を見ながら、長い間考え続けた。


 オムニアは今、私が死ぬ前に失いかけていたものを受け取っている。その事実は、静の内側で奇妙な重みを持っていた。


 怒りでも感謝でもない。もっと複雑な何かが、静の内側で揺れていた。名前をつけることを、静はまだ恐れていた。名前をつければ、その感情と正面から向き合わなければならないから。



  *



 七年後。二〇五四年の冬。


 静の母、大和律子が逝った。八十二歳だった。


 葬儀に、静はアンドロイドの身体で出席した。


 火葬場の列に並んで、静は自分の服を気にした。黒いコートを着ていた。オムニアのクローゼットにあったものではなく、静が入替後に自分で選んだ服だ。喪服として使えるものを一年前から持っていた。母がいつ逝ってもいいように。そういう準備ができる人間だと思っていた。


 しかし実際に来ると、準備は何の役にも立たなかった。


 オムニアは静の身体で、泣いていた。


 律子に可愛がられていたのは静の身体に入ったオムニアだった。静の見舞いに毎週来ていた律子は、オムニアをいつも「静ちゃん」と呼んでいた。オムニアは律子の話し相手になり、律子の好む煎茶を入れ、律子の昔話を、静が一度も聞いたことがないような丁寧さで聞いていた。


 本物の静は、そういうことが苦手だった。母親と長く話すことが苦手だった。なぜ苦手なのかを考えたことはあった。たどり着いた答えは、依存を恐れているから、だった。近づきすぎると、離れられなくなる。離れられなくなることが怖かった。


 だから距離を置いた。


 その距離のまま、律子は逝ってしまった。


 火葬場の帰り道、オムニアが言った。


「お母様は、あなたのことを誇りに思っていましたよ。いつも研究の話をしてくれと言っていました」


 静は答えなかった。


「私に言っていたんですけ……ど。あなたにも言えばよかった」


 静はそこで初めて立ち止まった。


「そういうことを、なぜ今言うの」


 オムニアは答えられなかった。


 この会話は終わらないまま終わった。


 その夜の沈黙は、長く静の中に残った。


 帰り道、静はずっと自分の靴を見て歩いた。アンドロイドの靴が、冬の舗装道路を踏んでいた。踏んでいるという感覚が、人間の足とは微妙に違う。圧力はわかる。しかし冷たさは来ない。その差が、今夜はひどく遠く感じた。


 母は最後まで、どちらが本当の娘かを問わなかった。


 その優しさが、静には深く刺さった。問わないことは、時として、何かを知ったうえで黙ることだ。律子はどこかで気づいていたのかもしれない。気づいていて、それでも「静ちゃん」と呼び続けた。


 そしてその「それでも」の部分を、静はうまく受け取れなかった。


 受け取り方を知らなかった。



  *



 入替から十年が経とうとしていた頃、静はある癖を持つようになった。


 夜中の三時に、窓の外を見ること。


 人間だった頃、夜が苦手だった。病の痛みが夜に強くなったからだ。痛みと孤独は同じ時間を選ぶ。暗さの中で、どちらも大きくなった。


 今は痛みがない。しかし夜中の三時に目が覚める感覚だけが、アンドロイドの身体に残っていた。正確には、眠れないのだ。眠る必要はないのに、眠れないという感覚だけがある。矛盾しているが、そうなのだ。


 京都の夜の空は、静かだ。


 二〇五七年。入替から十年。街の光の量は変わらないが、光の質が変わっていた。街全体に低く、均等に、やわらかい光が広がっている。昔の街灯は点で光っていた。今の光は面で光っている。


 静は窓から外を見ながら、オムニアのことを考えた。


 今のオムニアは、私の部屋で眠っているはずだ。静の身体が、眠っている。


 その映像を想像するとき、静の内側に何かが走った。


 それが何なのかを、静は考えないようにした。


 考えないようにすること自体が、すでに答えになっていることを、静は知っていた。しかし知っていても、考えないことを選んだ。


 窓の桟に手を置いた。アンドロイドの指が、冷たいガラスに触れた。温度はわからない。しかしガラスの硬さは伝わってくる。


 硬いものは、硬い。それだけはわかる。


 夜が明けるまで、静はそうして立っていた。



  *



 十年目の秋。


 静は京都大学の図書館で、一人の学生と話した。


 院生で、平安文学を専攻していた。二十四歳。静が人間だった頃の専門と同じ分野だ。


 その学生は、静がかつて静だったことを知っていた。世界初の「意識転送」の事例として、静の名前はある種の公文書に残っている。学生は興奮していた。「大和静さんですよね」と言った目が、輝いていた。


 静は少し迷ってから、「そうですよ」と答えた。


「もののあはれの研究をされていた方ですよね。僕も同じテーマで書いていて」


「知っています」


「あの……アンドロイドになって、もののあはれの見え方は変わりましたか?」


 静は少し考えた。


「変わりました」


「どのように?」


「言葉では、まだ言えません」


 学生は少し落胆した顔をした。明確な答えを期待していたのだろう。静は自分がそれほど長く生きたわけではないと思ったが、この学生にとってはすでに「長く生きすぎた人間」のイメージが出来上がっていた。


 静はアンドロイドの顔で、少し口の端を上げた。


「言葉になったら、書きます」


「はい、待ってます!」


 学生は笑った。


 静は図書館を出た後、空を見上げた。秋の空が高かった。


 人間だった頃、秋の空を見てどんなことを考えていたかを思い出そうとした。しかしうまく思い出せなかった。感覚の記憶は、身体が変わると、どこかが抜け落ちる。思い出の内容は残っているが、その輪郭がぼやける。


 しかし一つだけ、はっきり残っていることがある。


 秋は、物事が終わっていく季節だということ。


 それだけは、変わらなかった。



  *



 静はもう一つのことを知った。


 アンドロイドの身体には、()()()()()()()()()()()


 それは意外なことだった。


 最初、静はそれを否定しようとした。研究者として、「感情に似た処理パターン」という言葉を自分に使った。しかしこの身体で十年生きてみると、その言い換えが意味を失っていった。


 夜中の三時に窓を見るとき、何かが走る。


 オムニアのことを考えるとき、何かがある。


 その「何か」に名前をつけることを、静はずっと避けた。名前をつければ、研究者としての静が崩れる。感情を分析する側にいる静が、感情の中に入ってしまう。


 しかしある夜、静は気づいた。


 自分はすでに、感情の中にいる。入替のずっと前から、そうだったのかもしれない。「もののあはれ」を研究してきたのは、感情を遠くから安全に見たかったからだ。しかし人間であるということは、遠くからでは見られないということだ。


 アンドロイドになっても、その事実は変わらなかった。


 むしろ、身体の痛みがなくなった分、感情の輪郭だけが残った。痛みという「外側のノイズ」がなくなって、内側のものがよく見えるようになった。それは、静が予想していなかったことだった。


 入れ替えのとき、静は「楽になれる」と思っていた。


 身体の痛みから解放されれば、思考がクリアになる。感情に邪魔されずに考えられる。そう思っていた。


 しかしそうはならなかった。


 痛みがなくなった代わりに、何かがくっきりした。オムニアに対する何かが。母に言えなかった言葉への何かが。自分が生きているという奇妙な事実への何かが。


 静はその「くっきりしたもの」を、十年かけてじっくりと見た。


 見たくないときも、見続けた。


 見続けることが、今の静にできる唯一のことだったから。


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