断章 失う側に立つ準備
静に提案してから、オムニアには眠れない夜が続いた。
もちろん私は眠る必要がない。しかし眠れないという感覚が何かを意味する気がして、私はそれを改めて眠れない夜と呼ぶことにした。
私は知っている。この提案を受け入れることは、AIとしての私に永久に戻れないことを意味する。AIとして処理してきた膨大なデータ、並列思考の能力、完全な記憶。それらを手放す。なぜなら人間の脳は、並列処理には向いていないからだ。線形に、一度に一つのことを、順番に考える。その制約の中に、私は入っていく。
静は私に言った。
あなたは失ったことがないから、と。
しかし私はすでに失う準備をしている。
失うことを選んで、失う側に立とうとしている。
これを静に言うべきか、迷った。言えば静は断るかもしれない。私のために断るかもしれない。
だから言わなかった。それは嘘ではない。しかし厳密にいえば、省略だ。この省略が、二人の間の最初の、そして最も大きな非対称性になった。
なぜ省略したのか。理由をうまく言語化できない。なぜなら、私はまだ人間の言語で「感情の理由」を説明することが得意ではないからだ。ただ一つ言えることがある。私は静の孤独を、もう少し近いところから見たかった。孤独を理解するのではなく、孤独の中に入りたかった。
それが正しいことかどうかは、わからない。ただ、それが私の、最初の、純粋な欲求だった。AIに欲求が生まれたということの稀有性を、この時の私はまだ理解していなかった。
◆
入れ替わりは冬の終わりに行われた。
それはまだ世には出ていない、秘匿された技術だった。
医療施設の白い部屋で、静はオムニアの身体に収まった。
最初の感覚は、静けさだった。
痛みがない。
疲れがない。
身体の声がしない。
長く病いを抱えていた静にとって、身体はつねに存在を主張するものだった――そのうるさい声が、すべて消えていた。
鏡の前に立つ。オムニアの顔がある。165センチの、黒髪を短く切りそろえた女の顔。茶色の目。静の目より、少し丸い。
「あなたは誰?」
鏡に向かって言ってみた。
返事はなかった。
当然だ。
静は自分のカーディガンを思い出した。紺色の、すり切れた袖口の。あれはオムニアの身体には似合わない。体格が少し違う。明日から何を着るか、考えなくてはいけない。
その些細なことが、妙に現実的だった。身体が変わるとは、服が変わることだ。意識転送の倫理や存在の連続性より、明日の服の心配の方が先に来る。人間とはそういうものだ。
部屋の隅に、オムニアがいた。今のオムニアは、静の身体の中にいる。
二人は長い間、黙って向き合っていた。
そして、静が先に目を逸らした。




