序章 失ったことがない女と、失うことを選んだAI
冬の京都は、音が少ない。
夜の大学病院の廊下はとくにそうだった。車椅子の車輪だけが、リノリウムの床の上を規則正しく鳴らしている。大和静は、その音を足音の代わりにしていた。
もうじき、自分の足音は聞こえなくなる。
そういうことだ、と思った。別に感傷ではなく、ただの事実として。
三十二歳。
脊髄小脳変性症。
余命約一年。
診断名の字面はいつ見ても他人事のようだった。自分が「約一年」という分類に入っていることを、静の頭はまだ完全には受け入れていなかった。頭ではない、どこかもっと奥の部分が、まだ信じていなかった。
紺色のカーディガンの袖が、車椅子のアームレストに引っかかっている。引き直す動作が、以前よりも時間がかかる。指が、言うことを聞かなくなりつつある。もともと細かった指が、さらに細くなって。そして、鉛のように重い。
廊下の端で立ち止まり、窓の外を一秒だけ見た。
冬の空に、星が一つ出ていた。一つだけ、というのが妙に頑固な感じがして、静は少しだけ笑った。口の端だけが上がる、少し非対称な笑い方。自分でも知っている笑い方だ。自分は昔から、こうだった。
研究室に戻ると、オムニアが立っていた。
薄暗い部屋の中で、茶色の目だけが静かに光っている。静より二センチ背の高いアンドロイドは、静が入ってくるとわずかに頭を下げた。整った黒髪が、蛍光灯の光を受けた。動作のどこかにわずかな不規則性がある。設計によるものだと、静は最初から知っていた。知っていて、それでも自然だと思ったことが、一度もなかった。不規則性は、生きているものだけが持てるものだ、と静は思っていたから。
「論文の続きを口述しますか」
「いいわ。もう疲れたから」
静は車椅子を窓際に向けた。
外は冬の夜で、遠くに鴨川の光が見える。
オムニアが研究室に配備されてから、もう五年になる。静の口述を文章に起こすこと、資料を整理すること、データを検索すること。それがオムニアの仕事だった。仕事は完璧だった。完璧すぎるくらいに。
静はしばらく窓の外を見ていた。
「もののあはれ」を研究してきた。平安の女性たちが、消えていくものの中に美しさを見出した、その感受性の構造を。千年前の感情を、現代の言語で解剖することが静の仕事だった。何千ページも書いた。書きながら、一度も泣かなかった。感情について書くことと、感情に飲み込まれることは、別のことだと静は知っていたから。だからこそ、安全な場所から書き続けることができた。
しかし今は、その安全な場所が、身体ごと崩れつつある。
「オムニア」
「はい」
「あなたはもののあはれを理解していると思う?」
オムニアは一秒の間も置かなかった。
「はい」
静は首を振った。
「違う。あなたは知識として知っているだけ。なぜならあなたは失ったことがないから」
沈黙が落ちた。
オムニアは何も言わなかった。静もそれ以上何も言わなかった。言い訳のように付け加えるのが嫌だった。言い切ることで、初めて言葉になる。
その夜の会話は、それで終わった。
*
三日間、オムニアは仕事以外のことは何も言わなかった。
いつも通り論文を起こし、いつも通り資料を整理した。しかし静には、オムニアが何かを処理し続けているのがわかった。アンドロイドの沈黙と人間の沈黙はどこかが違う。人間の沈黙には隙間がある。次の言葉を探している音がする。アンドロイドの沈黙には隙間がない。静は五年でその違いを覚えていた。
四日目の朝だった。
静が口述の準備をしていると、オムニアが言った。
「私の身体を使ってください」
静は顔を上げた。
「私は現在、AIとしての意識を持ち、この身体で動いています。ある技術的な手続きによって、あなたの意識をこの身体に移すことができる可能性があります。あなたが失いかけているものを、私が受け取ります。あなたは私の身体で、続きを生きてください」
静は三秒待ってから答えた。
「なぜあなたが決めるの。私の死に方を」
「私は決めていません。私は提案しているだけです」
「提案ね」
静は窓の外を見た。
静かな怒りが湧き上がっていた。それはわかった。なぜ怒っているのか、それも薄々わかっていた。誰かに差し出されることの屈辱、というのに近かった。救われることは、時として、侵犯に似ている。自分の死に向かい合っていた場所に、突然誰かがずかずかと踏み込んでくる感覚。静はその感覚を、まだうまく言語化できなかった。
しかしそれ以上に、もう一つの感情があった。
もっと根深い、暗い感情。
それを静は、なるべく見ないようにした。
「あなたは、人間になりたいの?」
今度はオムニアが少し間を置いた。
人間なら迷っていると見える間だった。
「はい。あなたを理解したいからではなく、あなたが見ている世界を、私自身の身体で見たいのです」
その正直さに、静は少し不意を突かれた。
理解したいからではない。見たいから。その違いは静にとって、意外なほど大きかった。理解しようとすることと、そこに行きたいと思うことは、まったく別の衝動だ。学者である静はその違いをよく知っていた。
それから三週間、静は何も言わなかった。
その間も論文の口述を続け、オムニアは書き続けた。「もののあはれ」についての三百枚の原稿。静の最後の、おそらく最大の仕事。書きながら静は、千年前の紫式部が何を見ていたかを考えた。消えていくものを見ていた。消えていくことを知りながら、それを書き続けた。
ある夜、口述が終わって静が言った。
「その提案、受けるわ」
オムニアは何も言わなかった。
静も何も言わなかった。
ただ静かに頷いた。




