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C++(カフェインプラスプラス)  作者: 雲居 残月
第三章 アンダーグラウンド

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3-2 水底

 夜になった。葉月は切りのよいところで仕事を切り上げ、会社を出ることにした。葉月はノートパソコンを鞄に入れて、ビルの階段を下りた。

 周囲はまだ、ほのかに明るい。今日はゆっくりと作業を進められそうだ。マンションへの道をたどっていると、メールの着信音が鳴った。誰だろう。会社の人間なら社内システムを利用して連絡してくる。緊急の用事ならメールではなく電話を使う。

 鞄からスマートフォンを出して確認する。送信者名を見て、首をひねる。吉野恵美子。誰だろうかと記憶をたどる。とりあえず、中身を確認しようと思い、届いたメールを開いた。


 ――お久し振りです、浅村くん。中学校のときの同級生の、高田恵美子です。今は結婚して姓が変わり、吉野恵美子になっています。

 今日、浅村くんの会社の福原さんという人が来ました。そして、浅村くんが最近休みがちだと言って、いろいろと聞いてきました。大丈夫ですか? 病気ですか?

 メールアドレスは、カフェインプラスという会社の名刺をもらったので、ウェブサイトを見て、CTO宛のものに送ってみました。浅村くん、CTOなんだってね。すごいね。


 全身に鳥肌が立った。福原が、自分のことを高田に聞いた。葉月は足を止めて、福原がなにを探っていたのか考える。

 高田に聞いたのは、中学時代の話だけのはずだ。高校以降の、引きこもっていた時期の話は聞くことはできない。

 情報を引き出すために高田にメールを返すか。いや、高田は返信があったことを福原に伝える可能性がある。どうするか迷ったあと無視することに決めた。

 あごに痛みが走った。歯を噛みしめていたようだ。息をゆっくり吸い、吐き出す。呼吸を整えて、全身の力を抜く。

 ストレスがかかったときや集中しているときに、あごに力をこめる癖がある。そのせいで歯にひびが入り、昔割れてしまった。奥歯の何本かは抜いてインプラントにしている。その手術以降、意識してあごをゆるめるようにしている。しかし急なストレスがかかると忘れてしまう。

 服が汗で肌に貼りついていた。不快さを感じながら、ふたたび歩き始める。足取りは重い。いつもの倍以上の時間がかかった。日が落ちて辺りが暗くなっていく。街灯に照らされ、ビルの続く町並みが浮かび上がってきた。

 肩の鞄をかけ直す。まだ熱のこもった空気の中をかきわけるように歩いていく。葉月は家へと続く暗い道をたどりながら過去のことを考える。母親のこと。家庭のこと。当時はそれが当たり前だと思っていた。物心がついて、自分が異常な環境に置かれていることに初めて気がついた。

 葉月は、自身の来歴と家族のことを考え始めた。


 二十五年ほど前のことである。浅村葉月は、浅村永治と恵子夫妻の長男として生まれた。永治は教師をしていた。恵子は市役所勤務だった。恋愛結婚ではない。お見合いによってできた家庭だった。

 永治は目立たない男だった。印象に残らない凡庸な顔。体型は小柄で痩せ気味。対して恵子は人目を引く容姿をしていた。小さく整った顔。細身でしなやかな肢体。二人が並ぶと、ネズミとシャム猫が並んでいるようだった。

 葉月が誕生したのは、父親が三十一歳、母親が二十九歳のときである。真夏の暑い日に生を受けた。誕生月から葉月と名づけられた。

 恵子は男児であることに落胆した。彼女は女児を望んでいた。いや、男という生き物を嫌悪していた。それなのに、なぜ結婚して子を成したのか。理解するまでに子供時代の葉月は長い時間がかかった。永治は体面のために利用された生贄だった。

 葉月が生まれたことで家庭は徐々にひずみを大きくしていった。永治は妻の恵子の異常さを徐々に知っていった。

 初めに永治がおかしいと思ったのは、赤ん坊の服だった。淡い桃色のものが多かった。

「なあ、恵子。どうして女の子みたいな色ばかりなんだ?」

「本当は女の子が欲しかったの。小さいうちだけよ」

 安定した職、愛らしい赤ん坊、美しい妻。言いたいことはあったが我慢した。そうしたわがままを許せるほど、永治は幸福に包まれていた。

 保育園に子供を通わせるようになり問題はいくぶん改善した。外出時は男物を着せる。家にいるときだけ女物を与える。生まれた直後だから執着を持っているのだ。恵子は仕事のかたわら家事を完璧にこなした。永治に不満はなかった。たった一つの瑕疵。その程度は目をつむろうと考えた。

 永治と恵子は、良好な夫婦として関係を続ける。しかし葉月が小学校に上がる前に一悶着あった。前年の夏、永治の父母が来て、一緒にショッピングモールに行った。ランドセルの予約。複数ある色の中から恵子は桃色を選んだ。これはまずいのではないかと思い、永治は他の色をすすめた。そして薄紫色に落ち着いた。

 帰宅後、夫婦で話し合い、子育ての方針について意見した。無理やり女の子として育てようとするのは、どうかと思う。恵子は冷たい目で夫を見た。漆黒のような両目。どうにか回っていた家庭の歯車は、そのとき大きく狂い始めた。恵子という重力が、空間をゆがめだした。

 葉月はうっすらと覚えている。小学校二年生のときに、父が警察に捕まった。妻への暴力。それに加えて子供への虐待。葉月は、母に言われたとおりに受け答えをした。家では母が絶対者だった。父は無実であることを訴えたが、誰にも聞き入れられなかった。

 永治が逮捕されたのは証拠があったからだ。葉月は小学校一年生のときに病院に担ぎ込まれた。右の睾丸の破裂。風呂場での事故だと医師には説明があった。その傷は、実は夫が蹴り飛ばしたせいだと恵子は証言した。葉月もそのとおりだと大人たちに答えた。本当は母が握り潰した。しかし怖くて誰にも言えなかった。言えばもう片方も潰されると思ったからだ。

 裁判の結果、永治は懲役刑になる。永治は控訴しなかった。彼は絶望していた。浅村家は、母一人子一人の家庭になった。

 それ以降、葉月の女装を妨げる者はいなくなる。体面をつくろうために外出時は男物を与えられたが、夜は恵子の人形としてワンピースやフリルのついた服を着せられた。

 疑うことは悪だと教えられて二重生活を続ける。しかし敏感な子供たちは葉月の違いに気づいた。時折のぞかせる女の子のような振る舞いに、クラスの友人たちは攻撃の理由を見つけた。

 自身の境遇に疑問を持ち始めたのは、小学五年生に上がりノートパソコンを手に入れてからだ。STEM教育――科学、技術、工学、数学の能力を育む教育、その一環として小学校高学年の親たちが子供にコンピューターを買い与える。葉月の家でも同じことがおこなわれた。

 親が情報技術に詳しくない場合、子供は短時間で親の能力を追い越してしまう。スカートをはいた姿で、葉月はネットを渡り歩くようになった。

 葉月は多くの事例を調べ、自分の置かれた環境を客観視しようとした。それとともに、母の世界と現実世界との矛盾を、どうにかして解決しようと努力した。

 自分は虐待されているのではないか。しかし優しい母がそんなことをするはずがない。父が刑務所に入っているのが原因なのか。だが父に攻撃されたことはない。けれども母は、父が葉月を痛めつけたと言っていた。

 自身の境遇に結論をつけられないまま葉月は中学校に上がる。そして友人たちの変化を気にし始めた。周りの男子たちは背が高くなり、骨格がたくましくなり声が変わる。同じ目線だった友人たちが見上げるほどの身長になっていく。

 しかし葉月の姿はほとんど変わらなかった。自分に変化が訪れないのはなぜか。睾丸を一つ失っているせいではないのか。絶対者である母が言うように自分は女なのだろうか。

 あるいは父がいれば気づいたかもしれない。もともと背が低く、華奢な体型の家系なのだと。自分は母に欺かれているのだと。

「ねえ、葉月。新しいお洋服を買ったの」

 日曜日の午後。外出から帰ると母が待っていた。母はひらひらのスカートを見せてきた。

 賃貸マンションの玄関。コンクリートで覆われた堅牢な箱。父は刑務所の中。父の両親は恵子との関係を断っていた。葉月は洋服を受け取り、自室に行って着替える。居間に行き、姿見の前に立ち、自分の姿を母に見せた。

「よく似合うわ」

 美しい母は、心からの笑みを浮かべる。

「まるで姉妹のよう」

 母は横に並んでうっとりとする。

「ねえ、お母さん。髪を切りたいんだけど」

 自分を女のように見せている部品。おそるおそる言うと、部屋の空気が凍った。

「駄目よ」

 それ以上踏みこめば母は叫びだし、隣家のテレビの音が大きくなる。それに、残った睾丸を潰されるかもしれない。母は櫛を持って来た。葉月は笑顔を見せる。母が望む姿。ビニール製の着せ替え人形。感情を殺し、なすがままになっていれば、日常は平穏に過ぎていく。

 高校に進学した。周囲との体格差はさらに大きくなる。内にこもりがちな葉月は、かっこうの攻撃対象になる。教室で何度も突き飛ばされた。帰宅途中に荷物を奪われた。体育の時間に着替えを盗まれて裸で放置されたこともある。

 一年生の二学期以降、出席と欠席を繰り返しながら学校に通った。母は葉月の苦境を無視した。男の姿をしているときの葉月は、存在しないと思っているようだった。そうした生活を一年ほど送ったあと、玄関から出られなくなった。葉月は籠の中で、母の愛玩動物になることを選んだ。

 引きこもり生活が始まる。恵子は市役所で働いている。出勤から帰宅までの時間を葉月は自由に使えた。自分が住んでいる場所は牢獄だと思った。小さな窓が一つだけついている密室。窓の外に広がるのは青空の下の海。葉月にとっての海は、インターネットだった。そこに泳ぎだし、深い底へと潜っていく。水底の中には、自由があるような気がした。


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