アリサ2
それはエドガーが村へと出発した当日。
アリサはぎこちない笑顔を浮かべていた。
「……いってらっしゃい、エド」
狩りに出かけるエドガーの背中を見送るアリサ。
エドガーは数分で視界からいなくなった。
「エド、大丈夫かしら……。今回は数日帰ってこないみたいだし心配だわ……」
アリサはボソッとそうつぶやき、切なそうに目に細める。
正直なところ、心配より寂しさの方が勝っていた。
***
――数日エドがこの研究所からいなくなる。
そうエドから聞かされて、とうとう今日が来てしまった。
アリサは不安だった。
(エド、いなくなっちゃうの?)
想像しただけで胸がきゅっと締め付けられるようだった。
エドガーは、アリサにとってこの世界における唯一の家族と言ってもいい存在だ。
元の自分の家族は自分を化け物のように扱い、師匠はアリサの方が大切だと思ってはいなかった。
……師匠の死後はまた別だが。
その大切な人。最愛の人。
ずっと、できれば、エドガーの方が受け入れてくれるなら、一生を共に歩んでいきたい……!そう思っている人。
(そんな私の全てと言ってもいい大切な人が私の側からいなくなる――)
形容し難い不安。
でも、そんな私の押し潰されそうな不安をもしエドが知ってしまったら、彼は優しいから、きっと私と一緒にいてくれるだろう。私を甘やかしてしまうだろう。
今後も絶対に離れないでいてくれるだろう。
アリサは思う。
(――それではダメだ)
私が一方的に依存するような関係なんて、いずれ崩壊する。
私はエドと共に生き、その隣に立つため――そのためにエドにふさわしい女にならなくては。
そう思い、アリサは気合を入れ直す。
「よし、大丈夫、大丈夫よ、アリサ。エドなんていなくても、数日くらい乗り越えてやるんだから!」
そう言うアリサだったが。
……その視線は、気を抜くとすぐにエドガーが行ってしまった方を向いていた。
全く大丈夫ではなかった。
***
そして夜。
アリサは家事をとことんやりつくすことでなんとか半日を切り抜けた。
「ふぅ、さっぱりしたわね……。さぁもう寝ちゃいましょう」
一人風呂から上がったアリサは、髪を拭きながら、寝室へと向かう。
「……ぅっ」
ベッドで一人横になりながら、ひしひしと寂しさを感じるアリサ。
涙が零れそうだ。
仕方なく、アリサは自分の作ったエドガーのぬいぐるみに顔を埋める。
ちなみにそれらはエドの着ていたTシャツをそのまま衣装として使っていた――そのことをエドガーはもちろん知らないが。
アリサは普段から使い過ぎてエドの香りが薄くなっていることに気付く。
「もうこの子達も衣装替えしなきゃね……」
ぽつり、と愛しさを込めた眼差しで手元のぬいぐるみを見つめるアリサ。
もしその言葉をエドガーが聞いていたなら、その肌が泡立っていたに違いない。
だがそうやってエドガーのぬいぐるみを抱き締めたその瞬間、アリサの頭に悪魔的な発想がよぎってしまう……!
「い、今エドいないのよね?な、なら……」
――折角だし、ぬいぐるみじゃなくて、私がエドの服着ちゃえばいいじゃない!
天才か、と脳内アリサが喝采をおくる。
その考えがひらめいた瞬間、アリサは腕を通しかけていた寝間着を脱ぎ、そっとエドの部屋に忍び込む。
――静かに進む。音を立てず。
エドガーはいない。だから何も心配することはない。
だが、なぜか生まれるこの圧倒的な緊張感。アリサは自分の体温がどんどんと高まっていくのを感じた。
暗闇と静寂がエドガーの部屋を支配している。
「は、早く選ばなくちゃ……」
何となく灯りをつける気にはならず、暗闇の中、アリサはタンスを漁り始めた。
その光景をエドガーが見つけたならば、驚きを通り越して発狂した後気絶することはまず間違いない。
「むふ、むふふ」
アリサはタンスの中に潜る。
(凄い!エドが普段来ているTシャツ、ズボン、ジャージ……!もちろん下着も……!)
アリサにとって、そこは宝の宝庫だった。
さんざん吟味に吟味を重ねた挙句、アリサは今晩エドガーから借りるものを決定した。
アリサより少し大きめの上下のジャージに、ぶかぶかのTシャツ、そして……下着。
ここはオーソドックスにいくべきね、と考えるアリサ。
オーソドックスの意味が不明である。
「……んしょ……」
その場でそそくさと着替えるアリサ。
アリサの顔は焦り、未知への興味、そして羞恥で彩られていた。
全身に『エド』を完全装備し、そわそわするアリサ。
エドに隠れて悪いことをしている、という胸を焦がすような罪悪感、そしてそこから生まれる謎の興奮。
全身がエドの匂いで包まれたアリサは、かつてないほどテンションが上がっていた。
「う、うぁぁ……アリサはなんていけない子なの……!ごめんなさいエド……!」
そんな言葉とは裏腹に、アリサの眼は既に焦点を失い、口元はだらしなく緩み切っていた。
――まだまだ!この程度ではアリサの攻撃は止まらない!
次にアリサが狙いを定めるのは……!
「――ベッドね」
もうすでに罪悪感の壁を乗り越えてしまったアリサに迷いはない。
エドガーからは寝辛いと退去を命じられてしまった、「エドのベッド」。
そこに久しぶりに飛び込んだ。
(――ッ!?堪らない……!)
飛び込んだ瞬間アリサを包む安心できるあの人の温もり。
それはまさにエドガーであり、それ以上でもそれ以下でもないと後日アリサは証言している。
――誰に?そんなものは不明である。
エドガーがそれを聞いたら十日は寝込みそうなことを、今のアリサは考えていた。
それを堪能すると、ぎゅぅ、と掛け布団を強く抱き締める。
「ふぁぁ……エドぉ……」
そうしてアリサは眠りについた。
一日目。
アリサは無事乗り越えることが出来た。
***
次の日。
余りにも昨夜興奮しすぎて眠れなかったからか。
それとも世話をするエドガーがいなかったからか。
アリサは珍しく寝坊した。
昨夜の勢いは何処へ行ったのか。
――彼女の表情にはには興奮の残滓すらない。
(――ここで、私一人)
起きた直後のアリサの頭には、その一文が走った。
――ご飯を作る気にもなれない。
自分が食べるために料理を習得したわけではない。エドガーのために料理は習得したのだ。
自分だけなら飢えさえしなければどうでもいい。
――掃除をする気にもなれない。
自分が清潔な環境にいるために掃除をしていたわけではない。
私の全てはエドのため。
私の存在意義はエドのためにあったのに――そのエドは、今、いない。
その空虚さをどう埋めればいいのか。
いや、埋めることなんてできるのか。
今まで感じた中で、最も深く強烈な絶望でアリサの心は蹂躙される。
2日目にして早くも。
アリサの眼からも、涙があふれていた。
「エド、エド……!早く帰ってきて……!お願い……なんでもするから……」
エドガーのTシャツを握りしめ、すすり泣くアリサ。
研究所の窓をいつの間にか雨が叩いていた。
その日は一歩もアリサはエドガーの部屋を出なかった。
***
3日目。
アリサはエドガーのベッドで目が覚める。
家はエドガーが来る前と同じ静寂で包まれていた。
「エド……」
アリサは何とか体を起こし、顔を洗う。
鏡に映る自分の顔は、数日前では考えられないほど、生気が失われていた。
その後、アリサは夢遊病者のようにふらふらと玄関の外へと向かう。
研究所の前でエドガーのジャージを着たまま、体操座りをした。
アリサはエドガーが行った方向を虚ろな目で見つめていた。
「エド……」
アリサは自分にしか聞こえないような小さな声で呟く。
「エド……早く帰ってきて……」
膝に顔を埋める。
「はやくかえってきてよぉ……えどがぁ」
そのままエドガーのジャージを涙で濡らしていく。
「エドガーエドガーエドガーエドガーエドガーエドガーエドガーエドエドエドエドエドエドエドエドガーエドガーエドガーエドガーエドガーエドガーエドガーエドガーエドガーエドガーエドガーエドガーエドガーエドガーエドガーエドエドエドエドエドエドエドエドガーエドガーエドガーエドガーエドガーエドガーエドガーエドガー」
アリサの口から呪詛のように最愛の人の名前が連呼される。
虚ろな目をしたアリサはエドガーの帰りをその体勢のまま待っていた。
――そしてその思いが報われたのか。
夕方。
森の向こうから誰かがこちらにやって来るのが見えた。
それは、愛しい人。
大切な人。
私になくてはならない人。
その人影に気づいたアリサは玄関から飛び出し、その人の元へ向かう。
――エド。
よかった。
――エド。
帰ってきてくれた。
――エドガー。
「――エドガぁぁぁぁぁぁ!」
勢いよく飛びついてきたアリサを受け止めながらエドガーは申し訳なさそうに笑い、こう言った。
「ただいま、アリサ」




