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第51話 過去に置いてきたもの


夜明け前。


アルトは、一人で丘に座っていた。


街にはまだ明かりが少ない。


遠くから、修理を続ける人々の声が聞こえてくる。


彼は手を見つめていた。


波を操る力。


死を与える力。


そして、時間という概念。


どれも、かつての自分にはなかったものだ。


いや、正確には違う。


波を操る力は、最初から持っていた。


ただ、それを知らなかった。


「……俺は、いつからこうなったんだろうな」


自分に問いかける。


その問いに答えるように、風が吹いた。


アルトは目を閉じた。


そして、過去を思い出した。


最初に思い出したのは、奴隷だった頃のことだった。


薄暗い小屋。


鎖につながれた手足。


粗末な食事。


毎日、決められた時間に起き、決められた仕事をし、決められた場所で眠る。


能力鑑定の結果は、Eランク。


「鳴き声」


その名前を聞いたとき、周囲の人間は笑った。


「なんだそりゃ」


「役にも立たねえ能力だな」


「家畜の方がよっぽど使える」


アルトは何も言わなかった。


言い返す意味がなかった。


彼らは自分を人間として扱っていなかった。


ある日、監視役が彼を殴った。


「おい、返事をしろ!」


アルトは顔を上げた。


その瞬間、喉から声が出た。


「キュイイイイイッ!」


監視役の耳が裂けた。


周囲の金属が震え、壁に亀裂が走った。


誰も理解できなかった。


アルト自身も、何が起きたのか分からなかった。


ただ、初めて自分の力を知った。


波。


音だけではない。


振動も、光も、あらゆる伝播も。


世界は、無数の波でできていた。


その後、アルトは奴隷たちを解放した。


主人を倒し、支配者を倒し、魔王を倒した。


そして、自分が魔王になった。


次に思い出したのは、魔王だった頃の自分だ。


玉座に座り、世界を見下ろしていた。


人間も魔族も、同じように管理した。


争いを減らし、無駄な犠牲をなくし、効率よく世界を動かす。


それは、かつて自分を奴隷にした者たちと同じことをしているのではないか。


そんな疑問を持ったこともあった。


だが、アルトは考えた。


人間は愚かだ。


争いを繰り返し、同じ過ちを犯す。


ならば、誰かが管理する必要がある。


その役目を、自分が引き受ければいい。


自分なら間違えない。


そう信じていた。


そして神々と戦った。


神々は世界を管理していた。


人間の生も、死も、運命も。


アルトはその仕組みを壊した。


自由を取り戻すためだったのか。


それとも、自分の方が正しく管理できると考えていたのか。


今となっては、分からない。


アルトは目を開いた。


空が少し明るくなっている。


「……変わったな」


自分のことを考えていた。


奴隷だった頃。


魔王だった頃。


神々と戦った頃。


どの時代にも、自分なりの正しさがあった。


そして、その正しさを信じて行動してきた。


だが、今は違う。


死を司る存在になり、時間を知った。


自分の行動が、世界にどんな変化をもたらすのか。


以前よりも、考えるようになった。


「アルト?」


背後から声がした。


リナだった。


「こんな時間から何してるの?」


「昔のことを考えていた」


「昔?」


「ああ。俺が奴隷だった頃のこと。魔王だった頃のこと」


リナは隣に座った。


「どんな気分?」


「よく分からない」


「後悔してる?」


アルトは少し考えた。


「後悔していることもある。だが、戻ってやり直したいとは思わない」


「どうして?」


「戻ってしまえば、今の俺がいなくなる」


リナは頷いた。


「そうだね」


「俺は、過去を消したいわけじゃない」


アルトは遠くの街を見た。


「過去があったから、今の俺がいる」


「うん」


「だが、過去に縛られるつもりもない」


リナは笑った。


「それでいいんじゃない?」


その日の昼。


アルトたちは、街の外れにある古い建物を訪れていた。


そこは、楽園の時代に使われていた記録保管施設だった。


時間神の管理下にあった人々の記録が、まだ残されているらしい。


「ここに何があるんだ?」


ゲンダが尋ねた。


「人々の記録だよ」


リナが答える。


「生まれた日、働いた日、病気になった日、誰と暮らしたか。そういう記録」


「全部残ってるのか?」


「残っているものもあるみたい」


セナは棚に並んだ記録板を見た。


「人の人生を、全部記録していたのね」


「そうだな」


アルトは記録板を手に取った。


そこには、一人の男の生涯が記されていた。


生まれた日。


初めて歩いた日。


初めて仕事をした日。


結婚した日。


子供が生まれた日。


そして、何百年も同じ日が繰り返されている。


最後の欄には、こう記されていた。


『本人の希望により、時間の進行を停止』


「本人の希望……?」


アルトが呟く。


リナが記録を覗き込んだ。


「これ、本当に本人が望んだのかな」


「どういうことだ?」


「時間神が管理していたんでしょ。だったら、本人が何を望んだかなんて、どうやって確認したの?」


ゲンダが記録板を受け取った。


「そもそも、選択肢がなかったんじゃねえか」


「そうね」


セナが頷く。


「選べない状況での同意は、本当の意思とは言えないわ」


アルトは記録板を見つめた。


そこには、人生が記録されていた。


だが、その人生は本人のものだったのだろうか。


「……時間を奪うというのは、こういうことか」


「そうだね」


リナが言った。


「時間を奪うって、ただ寿命を短くすることじゃない。自分で何かを決める機会まで奪うことなんだ」


アルトは記録板を棚に戻した。


施設の奥に、一枚の大きな記録板があった。


そこには、時間神が管理していた人々の記録とは別に、神々自身の記録が残されていた。


「これは……」


カイが近づいた。


記録板には、神々の名前と、彼らが管理していた領域が記されている。


その中に、時間神の名前があった。


そして、その上位にいた白い存在の記録も。


ただし、その名前は消されていた。


代わりに、ひとつの文字だけが残されていた。


『順序』


「順序……」


アルトが呟いた。


「時間神の上にいた存在は、名前すら持たなかったのか?」


リナが記録板を調べる。


「名前が消されたんじゃないかな」


「誰に?」


「分からない。でも、ここにはまだ記録がある」


リナは指先で文字をなぞった。


その瞬間、記録板が光った。


一瞬だけ、別の文字が浮かび上がる。


『始祖神』


そして、その下に記されていた。


『すべての順序の起点』


アルトは顔を上げた。


「始祖神が、時間神のさらに上にいたのか」


「そういうことになるね」


ゲンダが腕を組んだ。


「結局、全部あいつにつながってるってことか」


「まだ分からない」


アルトは記録板を見つめた。


「だが、少なくとも、始祖神は時間神の存在を知っていた」


セナが静かに言った。


「そして、私たちが時間に触れたことも知っているでしょうね」


アルトは頷いた。


「そうだな」


夕方。


アルトは再び丘にいた。


過去を思い出した。


自分が何をしてきたのか。


何を失い、何を得たのか。


そして、これから何をするのか。


過去は変わらない。


だが、過去の意味は変わることがある。


奴隷だった頃の自分は、ただ弱かったわけではない。


魔王だった頃の自分は、ただ間違っていたわけではない。


神々と戦った頃の自分は、ただ自由を求めていたわけでもない。


すべてが、今につながっている。


「アルト!」


ゲンダの声がした。


「飯だぞ!」


「今行く」


アルトは立ち上がった。


今日が終わる。


明日が来る。


そして、過去は過去として残る。


アルトは歩き出した。


もう、過去に戻ろうとは思わなかった。


その先にあるものを、自分の足で確かめるために。


遠い空の向こう。


始祖神の領域で、ひとつの光が瞬いた。


「順序に触れたか」


誰かが呟く。


「ならば、そろそろ始めよう」


その声は、静かだった。


だが、その言葉の後、世界のどこかで小さな変化が起きた。


誰も気づかなかった。


ただ、アルトだけが、ほんの一瞬、時間の流れに違和感を覚えた。

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