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第50話 明日が来る


楽園が崩壊してから、三日が経った。


空には雲が流れ、風が吹いていた。


人々は、久しぶりに自分の足で歩いていた。


誰かに決められた道ではない。


誰かに与えられた仕事でもない。


自分で考え、自分で選び、自分の意思で動いていた。


だが、自由になった世界は、決して優しくはなかった。


「先生! こっちの子が熱を出しています!」


セナが振り返る。


「分かった。すぐに行くわ!」


楽園の住民たちは、時間を取り戻した。


それは、老いも病も、再び訪れるということだった。


長い間、同じ姿のまま生きてきた老人たちの身体は、急速に衰えていた。


子供たちは成長し始めた。


止まっていた傷が痛み出し、病気が表面化した。


何百年も生きてきた人々の中には、もう立ち上がることさえできない者もいた。


「……こんなはずじゃなかった」


老人が、ベッドの上で呟いた。


「神々がいた頃は、何も心配することはなかった。食べ物も、住む場所も、病気も……すべて与えられていた」


セナは、老人の手を握った。


「今は違います。これからは、あなた自身の時間です」


「自分の時間……か」


老人は窓の外を見た。


そこでは、小さな女の子が花を摘んでいた。


「先生。私は、あとどれくらい生きられる?」


セナはすぐには答えなかった。


「分かりません。でも、今できることを一緒に考えましょう」


老人は静かに目を閉じた。


「そうか……。自分で考えるのか」


その言葉には、少しだけ笑みが混じっていた。


アルトは、街の外れにある丘にいた。


眼下には、復興を始めた街が広がっている。


ゲンダは壊れた水路を修理していた。


「おい! そこの板を持ってくれ!」


住民たちが集まり、彼の指示に従っている。


「違う違う! そこじゃねえ。こっちだ!」


「ゲンダさん、これでいいですか?」


「おう! 上出来だ!」


ゲンダは笑った。


以前なら、神々がすべてを管理していた。


建物も、水路も、食料の配給も。


人々はただ与えられるものを受け取っていた。


だが今は違う。


壊れたものを、自分たちで直している。


カイは街の一角に境界を作り、崩れかけた建物を一時的に隔離していた。


「この先は危険だ。修理が終わるまで入るなよ」


「ありがとうございます!」


「礼はいい。早く安全な場所を確保しろ」


リナは、住民たちの様子を観察していた。


「ねえ、アルト」


丘に上がってきた彼女が声をかける。


「みんな、変わったね」


「そうだな」


「前は、みんな同じ顔をしていた。笑っていても、泣いていても、何を考えているのか分からなかった」


リナは街を見下ろした。


「今は、みんな違う」


「違うことが、そんなにいいか?」


「いいよ」


リナは即答した。


「だって、違うから選べるんだもん」


アルトは答えなかった。


その日の夕方。


街の広場に、小さな墓が作られていた。


楽園の時代に亡くなった者たちの墓だった。


彼らは、時間を取り戻した後、身体が耐えられずに命を落とした。


その中には、長い間、同じ場所で花びらを拾い続けていた少年の母親もいた。


少年は墓の前に座っていた。


手には、一輪の花がある。


アルトは少し離れた場所から、その様子を見ていた。


「お母さんは、もう起きないの?」


少年が尋ねた。


アルトは近づいた。


「そうだ」


「時間が戻ったから?」


「ああ」


「じゃあ、時間を戻せばいいんじゃないの?」


アルトは黙った。


少年は続けた。


「お母さんが元気だった頃に戻せば、また一緒に暮らせるよね」


アルトは少年の目を見た。


時間を巻き戻すこと。


それ自体は、もはや不可能ではないかもしれない。


彼は時間の順序に触れた。


複数の順序が存在することも知った。


だが、目の前の少年の母親を戻すことは、別の問題だった。


「……戻すことはできない」


「どうして?」


「戻せば、今ここにいるお前も消えてしまうかもしれない」


「それでもいい」


少年は花を握りしめた。


「お母さんに会いたい」


アルトは、何も言えなかった。


少年の願いは正しい。


母親に会いたい。


一緒に暮らしたい。


それを否定する理由などない。


だが、時間は戻らない。


少なくとも、今のアルトには、そうすることが正しいとは思えなかった。


「……ごめんな」


少年は俯いた。


「ううん。いいよ」


彼は墓に花を置いた。


「お母さんがいなくなったのは悲しいけど、明日は僕が花を持ってくる」


アルトは少年を見つめた。


「明日も?」


「うん。毎日持ってくる」


少年は立ち上がった。


「お母さんは、花が好きだったから」


その言葉を聞いて、アルトは空を見上げた。


夕日が沈んでいく。


今日が終わる。


そして、明日が来る。


夜。


アルトは一人で街を歩いていた。


セナが診療所から出てきた。


「アルト」


「セナか」


「眠れないの?」


「眠る必要がない」


「そういう意味じゃないわ」


セナは隣に並んだ。


「時間について考えているんでしょう?」


「ああ」


アルトは空を見上げた。


「俺は時間を理解したつもりだった。変化の順序。過去と未来。複数の可能性」


「うん」


「でも、あの少年の母親は戻せなかった」


「戻さなかったんでしょう?」


アルトはセナを見た。


「同じことだ」


「違うわ」


セナは静かに言った。


「戻せるかどうかと、戻すべきかどうかは別よ」


アルトは黙っていた。


「私たちは、死を否定してはいけない。でも、死を受け入れることと、悲しまないことは違う」


セナは診療所の窓を見た。


中では、病気の子供が眠っている。


「私は医者よ。命を救うために働く。でも、すべての命を救えるわけじゃない。だからといって、救えなかった命に意味がなかったとは思わない」


「……そうだな」


「あなたは死そのものになった。でも、死を理解することと、死を経験することは違うのかもしれない」


アルトは自分の手を見た。


「俺は、死を与えることができる」


「ええ」


「だが、失ったものを取り戻すことはできない」


「そうね」


セナは少しだけ笑った。


「だから、人は今を大切にするんじゃない?」


アルトは答えなかった。


翌朝。


街に鐘の音が響いた。


朝日が昇る。


子供たちが走り出す。


老人が窓を開ける。


ゲンダが水路の修理を再開し、カイは危険区域の境界を確認する。


リナは街の広場で、住民たちの様子を眺めていた。


「アルト!」


彼女が手を振る。


「見て!」


昨日まで花を拾っていた少年が、広場を走っていた。


その手には、小さな花束がある。


「お母さんに持っていくんだって!」


アルトは頷いた。


少年は墓へ向かって走っていく。


その背中を見ながら、アルトは考えた。


昨日は戻らない。


母親は戻らない。


だが、少年には今日がある。


そして、明日が来る。


「時間とは、残酷なものだな」


アルトが呟く。


リナが隣に立った。


「そう?」


「ああ。失ったものは戻らない」


「でも、戻らないからこそ、進めるんじゃない?」


アルトは彼女を見た。


リナは空を見上げた。


「もし昨日に戻れるなら、みんな昨日のままでいたがるかもしれない。でも、そうしたら今日がなくなっちゃう」


「……そうだな」


アルトは再び街を見下ろした。


人々は、失ったものを抱えながら生きている。


悲しみも、喜びも、後悔も、希望も。


それらすべてが、時間の中にあった。


アルトは初めて、時間を恐ろしいものだと思った。


死は、終わりを与える。


だが時間は、終わったものを過去に置き去りにする。


それでも人は歩く。


戻れないと知りながら、前へ進む。


「……俺は、まだ何も知らないな」


アルトは言った。


「何を?」


「時間のことだ」


リナは笑った。


「じゃあ、これから知っていけばいいよ」


アルトは頷いた。


そのとき、遠くの空に小さな光が見えた。


一瞬だけ、星のように輝き、消える。


アルトはそれを見つめた。


神々の領域の奥。


時間神が消えたことで、何かが動き始めている。


だが、今はまだ追わなかった。


今日には今日の仕事がある。


街では、ゲンダが大声を上げていた。


「おーい! 誰か手伝ってくれ! この水路、もう一人いねえと持ち上がらねえ!」


「今行く!」


カイが走り出す。


セナは診療所へ戻っていく。


リナはアルトを見た。


「行こうよ」


「ああ」


アルトは歩き出した。


今日が始まる。


そして、明日が来る。


それは、誰にも所有できない時間だった。

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