第49話 時間を越える者
何もなかった。
空も、大地も、光もない。
アルトの意識だけが、そこに残っていた。
時間がない。
そう考えた瞬間、ひとつの疑問が生まれた。
時間がないとは、どういうことだ。
何も変化しないことか。
過去も未来もないことか。
それとも、過去と未来を区別するものがないことか。
アルトは考えた。
波は変化を伝える。
死は変化を終わらせる。
ならば時間とは何なのか。
「お前はまだ理解していない」
白い存在の声がした。
「時間とは、私が定めるものだ。お前が何を考えようと、何をしようと、その順序は変わらない」
「……違う」
「何?」
「お前が定めているのは、時間じゃない」
アルトの意識に、わずかな揺らぎが生まれた。
「時間の中で起こることだ」
白い存在は黙っていた。
「お前は、過去と未来を並べ替える。起きたことをなかったことにする。未来を固定する。だが、それは時間そのものじゃない」
「では、時間とは何だ」
「知らない」
アルトは正直に答えた。
「だから、知る」
その瞬間。
何もない空間に、ひとつの点が生まれた。
小さな光だった。
光は、そこに現れた。
それだけだった。
しかし、アルトは気づいた。
光が現れる前と、現れた後。
そこには違いがある。
違いが生まれた。
そして、その違いには順序がある。
「……そうか」
アルトは、その順序を見つめた。
光が生まれる。
光が広がる。
光が消える。
その一連の変化は、波であり、死でもある。
だが、それらを成立させている前後関係は、波でも死でもなかった。
時間。
時間とは、変化が存在するための順序。
少なくとも、今のアルトにはそう見えた。
「時間は、流れているんじゃない」
アルトが呟く。
「変化と変化の間に、順序があるんだ」
白い存在の表情が、初めて変わった。
「その理解で、私に届くと思うか」
「届くかどうかは、やってみなきゃ分からない」
アルトの意識が、ひとつの方向へ向かった。
その瞬間、彼の身体が戻った。
手がある。
足がある。
胸がある。
心臓が動いている。
だが、まだ仲間たちはいない。
アルトは目を開いた。
そこは、崩壊した楽園だった。
白い存在が目の前に立っている。
「戻ってきたか」
「お前が戻したんじゃない」
「では、どうやって?」
「俺が、戻った」
アルトは一歩踏み出した。
白い存在が指を動かす。
世界が巻き戻る。
アルトの身体が、再び砕ける。
だが、今度は違った。
砕けた身体が、砕ける前の状態に戻される。
その瞬間、アルトは自分の身体を動かした。
巻き戻しの途中で、別の変化を起こしたのだ。
白い存在の目が細くなる。
「何をした」
「お前が定めた順序の中に、別の順序を作った」
アルトは手を握った。
「お前は、ひとつの時間の流れを支配している。だが、変化はひとつじゃない」
アルトの周囲に波が生まれた。
「波は、変化を伝える」
波が地面を走る。
「死は、変化を終わらせる」
黒い波が重なる。
「そして時間は、その変化が起こる順序だ」
白い存在が手を上げた。
「ならば、その順序を消す」
空間が歪む。
アルトの身体が、過去へ引き戻される。
しかし、アルトは消えなかった。
自分が過去へ戻されるという変化と、その変化に抗うという変化。
二つの順序が、同時に存在していた。
「時間は一本じゃない」
アルトが言った。
「お前が一本に決めていただけだ」
白い存在の背後に、無数の光が現れた。
それぞれが異なる未来を示している。
だが、白い存在が手を振ると、光は次々と消えた。
「可能性など、いくらでも消せる」
「そうだな」
アルトは頷いた。
「でも、消すには順序が必要だ」
アルトの足元から波が広がる。
「お前が未来を消す。その前に、俺が別の未来を作る。その未来が消される前に、さらに別の未来が生まれる」
「無意味だ。すべて私が消す」
「なら、消し続けろ」
アルトの身体が光った。
「俺も、変化を続ける」
白い存在が初めて後退した。
アルトはその隙を逃さなかった。
波を放つ。
しかし、今度の波は白い存在へ向かって進まなかった。
白い存在の周囲に広がり、そこに存在する時間の順序を探っていた。
波が触れた場所に、無数の前後関係が浮かび上がる。
白い存在が過去へ戻る順序。
未来を固定する順序。
可能性を消す順序。
それらはすべて、白い存在が選んだものだった。
「見つけた」
アルトの目が光る。
「お前にも、順序がある」
「何をするつもりだ」
「お前が時間を定める。その行為にも、前と後がある」
アルトは両手を広げた。
「なら、その順序に終わりを与える」
黒い波が生まれた。
終末波。
しかし、これまでのものとは違う。
死を与える対象は、白い存在の肉体ではない。
時間を支配するという行為、その成立条件だった。
白い存在が手を振る。
アルトの攻撃が巻き戻される。
しかし、巻き戻された攻撃の前後関係を、アルトはすでに捉えていた。
波が重なる。
干渉が起きる。
白い存在が定めた順序と、アルトが作り出した順序が衝突した。
「馬鹿な……!」
初めて、白い存在の身体に亀裂が走った。
「私の時間が……!」
「お前の時間じゃない」
アルトは静かに言った。
「世界の時間だ」
黒い波が、白い存在を包み込んだ。
白い存在は抵抗した。
過去へ戻ろうとする。
未来へ逃れようとする。
あらゆる順序を組み替えようとする。
だが、どの順序にも終わりがあった。
「やめろ……!」
「お前は、時間を所有しようとした」
「私は世界を守っていた!」
「違う」
アルトは一歩近づいた。
「お前は世界の変化を、自分の都合で止めていただけだ」
白い存在の身体が崩れ始める。
「時間がなければ、世界は……!」
「世界は変わる」
アルトの声が響いた。
「始まり、続き、終わる。そしてまた始まる」
黒い波が収束した。
「それが循環だ」
白い存在の身体が消えた。
最後に、その声だけが残った。
「お前は……時間を得たつもりか……」
アルトは答えなかった。
「時間は、お前のものにはならない……」
その言葉を最後に、白い存在は消滅した。
時間を支配する者は、終わった。
静寂が訪れた。
アルトは周囲を見回した。
崩壊した楽園。
砕けた塔。
止まっていた時計。
そして、地面に倒れている仲間たち。
「……みんな」
アルトは駆け寄った。
最初にゲンダの肩に触れる。
身体は冷たい。
セナの胸に手を当てる。
鼓動はない。
カイも、リナも。
誰も生きていなかった。
アルトは目を閉じた。
時間を理解した。
だが、死者を生き返らせることができるとは限らない。
むしろ、それをしてしまえば、死という終わりを否定することになる。
「……そうだな」
アルトは呟いた。
「死は、死だ」
そのとき。
小さな音がした。
カチ。
時計の針が動いた。
カチ。
もう一度。
アルトは顔を上げた。
止まっていた楽園の時計が、再び動き始めていた。
その音に続いて、地面の奥から振動が伝わってくる。
風が吹いた。
空気が流れた。
世界が、再び動き始めた。
そして。
「……アルト?」
声がした。
振り返る。
セナが、目を開けていた。
「セナ!」
アルトが駆け寄る。
セナは苦しそうに息を吸った。
「私……死んだはず……」
「そうだ」
「じゃあ、どうして……?」
アルトは答えなかった。
その横で、ゲンダが咳き込んだ。
「げほっ……! なんだ、ここは……!」
カイも目を開ける。
リナは地面に落ちたゴーグルを拾い、ゆっくりと立ち上がった。
「……見えた」
「何が?」
アルトが尋ねる。
リナは空を見上げた。
「私たちが消えた未来。でも、それだけじゃなかった。私たちが戻ってくる未来も、どこかにあった」
アルトは仲間たちを見た。
「俺が戻したのか?」
セナが首を振る。
「違うわ。私たちは、まだ死ぬべき時ではなかった。それだけよ」
アルトはセナを見つめた。
「時間を巻き戻したわけじゃないのか」
「分からない。でも、あなたが死を否定したわけじゃない。それは分かる」
ゲンダが身体を起こした。
「おい、難しい話は後にしろ。まずはこの場所をどうにかしようぜ」
「そうだな」
カイが周囲を見渡す。
「境界が消えてる。崩壊は止まったのか?」
リナが答えた。
「ううん。止まってはいないよ。世界が、また動き始めたの」
アルトは空を見上げた。
雲が流れている。
風が吹いている。
光が移動している。
すべてが、前へ進んでいた。
彼は自分の手を見つめた。
波を操る力。
死を与える力。
そして、今、時間というものを知った。
時間を支配する力を得たわけではない。
時間を止められるようになったわけでもない。
ただ、世界の変化には順序があり、その順序はひとつではないと知った。
「アルト」
リナが声をかけた。
「あなた、何か変わった?」
「少しな」
「どんなふうに?」
アルトは答えた。
「今まで俺は、波を操っていた。死を与えていた。だが、どちらも時間の中で起きていた」
「うん」
「俺は時間を知らなかった」
アルトは空を見上げた。
「まだ、何も分かっていない」
ゲンダが笑った。
「また面倒なことを始める気かよ」
「そうだな」
「勘弁してくれよ」
仲間たちの声が戻ってくる。
その声を聞きながら、アルトは静かに歩き始めた。
永遠の楽園は、もう存在しない。
人々は老い、傷つき、やがて死ぬ。
だが、明日を選ぶことができる。
その明日が終われば、また次の日が来る。
終わりがあるから、始まりがある。
そして、そのすべてに時間がある。
アルトはまだ、時間を手に入れてはいなかった。
だが、時間という次元の存在を知った。
それだけで、世界の見え方は変わっていた。
遠い空の向こう。
神々の領域のさらに奥で、何かが目を覚ました。
時間神が消えたことを、誰かが知ったのだ。
そして、その存在は静かに呟いた。
「時間に触れたか」
その声は、どこか懐かしい響きを持っていた。
「ならば、次は……」
声が途切れる。
その先に何があるのか。
まだ、誰にも分からなかった。




