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第48話 時間の彼方にいる者


楽園の空が、割れた。


青かった空の向こうに、黒い空間が覗いている。


地面には亀裂が走り、海は空へ向かって逆流していた。


「崩壊が始まっている……!」


リナが叫んだ。


「住民を避難させる! カイ、境界を作ってくれ!」


ゲンダの声に、カイがうなずく。


「分かってる!」


カイが両手を広げた。


空間に巨大な境界が生まれる。崩れ落ちる建物と人々の間に壁ができ、瓦礫の流れがそこで遮断された。


ゲンダは地面に手をついた。


「こいつは建物の崩壊だけじゃねえ。空間そのものが引き裂かれてる!」


彼の視界に、世界を支えていた無数の構造線が浮かぶ。


その一本が、突然切れた。


「ぐっ!」


ゲンダの身体が地面に叩きつけられる。


「ゲンダ!」


セナが駆け寄った。


「大丈夫だ。まだ支えられる……!」


「無理をしないで!」


セナの手から淡い光が広がり、ゲンダの傷ついた身体をつなぎ止める。


アルトは空を見上げていた。


崩壊の中心。


そこに、何かが立っている。


人の姿をしていた。


長い白髪。白い衣。年齢も性別も感じさせない顔。


その足元には影がない。


いや、影だけではない。


風も、音も、光の揺らぎも、そいつの周囲では何かがおかしかった。


「お前が、時の統治者を殺した者か」


声がした。


耳から聞こえたのではない。


言葉が、最初からそこにあった。


アルトは一歩前に出た。


「そうだ。お前は何者だ」


「時の統治者は、私の下位存在だ」


「なら、お前も神か」


「神という呼称は、人間が理解できる範囲での分類にすぎない」


そいつは、ゆっくりと手を上げた。


「私は、時の管理者たちが管理する時間の、さらに外側にいる」


リナが目を見開いた。


「時間の外側……?」


「お前たちが過去と呼ぶもの。現在と呼ぶもの。未来と呼ぶもの。それらを区別しているものだ」


アルトは眉をひそめた。


「時間を操るのか」


「違う」


白い存在は、わずかに首を傾けた。


「時間が存在する順序を、私が定めている」


次の瞬間。


空が消えた。


いや、空が消えたという結果だけが残った。


リナが見上げていた青空も、崩れかけた建物も、空へ逆流していた海も、すべてが一瞬で別の状態に変わった。


周囲は、何事もなかったかのような楽園に戻っていた。


「……戻った?」


カイが呟く。


「違う!」


リナが叫んだ。


「戻ったんじゃない。今の崩壊が、起きなかったことになってる!」


「理解が早いな、観測者」


白い存在がリナを見る。


「ならば、これはどうだ」


リナの姿が揺らいだ。


「え……?」


彼女の身体が薄くなる。


「リナ!」


アルトが駆け寄ろうとした。


しかし、リナは消えなかった。


代わりに、彼女がそこにいるという事実が、少しずつ失われていく。


「待って……私、ここに……!」


リナのゴーグルが落ちた。


アルトが手を伸ばす。


指先が触れる寸前、リナの姿が戻った。


だが、彼女は膝をついていた。


「はあっ……はあっ……!」


「何をした!」


アルトが叫ぶ。


「彼女が存在する未来を、ひとつずつ取り除いただけだ」


「ふざけるな!」


アルトが腕を振る。


空気が震えた。


音波が走り、地面を伝う弾性波が白い存在へ向かう。さらに電磁波を重ね、複数の波を異なる位相で衝突させた。


複雑な干渉が生まれる。


空間そのものが震えた。


しかし。


白い存在は動かなかった。


波が届く直前、消えた。


正確には、波が届くという未来が消された。


「……!」


アルトはすぐに別の波を放つ。


今度は地面を伝わる波を先行させ、空間の変化を読み取る。


だが、地面の振動も届かなかった。


「波は、変化を伝えるものだ」


白い存在が言った。


「だが、伝わる前に変化の順序を変えれば、何も届かない」


アルトの目が細くなる。


「なら、届くまでの過程をなくせばいい」


アルトの周囲に黒い波が集まった。


終末波。


対象の存在に終わりを与える、死の波だ。


「死ね」


黒い波が放たれた。


白い存在の胸に届く。


その瞬間、白い存在の身体が崩れ始めた。


しかし、次の瞬間には元に戻っていた。


「な……」


「死という結果は受け取った」


白い存在は、自分の胸を見下ろした。


「だが、私が死ぬという順序は成立しない」


「どういうことだ」


「お前は、死を与えることができる。しかし、死に至るまでの順序を決めることはできない」


アルトは歯を食いしばった。


「時間神の上位存在……ということか」


「その理解で構わない」


白い存在が指を鳴らした。


その瞬間、ゲンダの身体が吹き飛んだ。


「があっ!」


彼の腕が、肩から不自然にねじれた。


「ゲンダ!」


セナが駆け寄る。


「待って!」


ゲンダの傷口に手を当て、生命の流れをつなぐ。


しかし、傷は塞がらなかった。


「そんな……!」


セナの能力が届いている。


生命はつながっている。


それなのに、傷ついたという結果そのものが、さらに前へ押し戻されていく。


「セナ、離れろ!」


ゲンダが叫ぶ。


遅かった。


セナの手が白く染まった。


彼女の身体から、生命の流れが逆向きに引き抜かれていく。


「セナ!」


アルトが波を放つ。


だが、波が彼女に届くより先に、セナの身体は床に崩れ落ちた。


彼女は、動かなかった。


「セナ……?」


カイが駆け寄る。


その足元に、白い線が走った。


「境界を作るな」


白い存在が言った。


「境界とは、二つの状態を区別するものだ。だが、区別される前に戻せば、境界は存在できない」


カイが両手を広げる。


「黙れ!」


巨大な境界が、白い存在を包み込んだ。


内側と外側。


生と死。


始まりと終わり。


あらゆる状態を隔てる境界が、幾重にも重なっていく。


しかし。


白い存在が一歩踏み出した。


境界が消えた。


作られた順序が、逆転した。


カイの身体が硬直する。


「俺の……能力が……」


白い存在の手が、カイの胸に触れた。


その瞬間、カイの身体から光が消えた。


彼はゆっくりと倒れた。


「カイ!」


アルトが叫ぶ。


リナは地面を這い、ゴーグルに手を伸ばしていた。


「見なきゃ……見て、選ばなきゃ……」


彼女の目が、白い存在を捉える。


無数の未来が見えた。


勝利する未来。


敗北する未来。


逃げる未来。


全員が生き残る未来。


そのすべてが、次々と消えていく。


「どうして……!」


リナの目から涙がこぼれた。


「選べる未来が、ない……!」


「未来は選ぶものではない」


白い存在が言った。


「私が許したものだけが、未来になる」


リナの身体が崩れた。


彼女のゴーグルが、地面に落ちる。


アルトは立ち尽くしていた。


仲間が、全員倒れている。


ゲンダは動かない。


セナも、カイも。


リナも。


「……お前」


アルトの声が低くなる。


「何をした」


「彼らが倒れる順序を決めただけだ」


「戻せ」


「なぜ?」


「戻せと言っている!」


「お前は死を司る者なのだろう。ならば理解できるはずだ。彼らは死んだ。それだけのことだ」


アルトの周囲で空気が震え始めた。


「俺は……死だ」


「そうだ」


「なら、お前にも死を与えられる」


「試すがいい」


アルトは両手を広げた。


世界中の波が集まる。


地面の振動、空気の音、光、電磁波。


目に見えない無数の波が、ひとつの場所へ収束していく。


アルトの身体が黒く染まった。


「終末共鳴!」


すべての波が重なり、世界を震わせた。


白い存在の周囲に、黒い輪が生まれる。


その輪が収縮する。


存在そのものに終わりを与える。


だが。


白い存在は、わずかに目を閉じた。


「遅い」


黒い輪が消えた。


アルトの身体が、元の状態に戻されていく。


傷が消える。


放った波が戻る。


終末共鳴を発動する前の状態へ。


「……くそっ!」


アルトは再び波を放とうとした。


しかし、腕が動かなかった。


自分の身体が、動かそうとする前の状態に戻されている。


何度も。


何度も。


何度も。


動かそうとする。


戻される。


動かそうとする。


戻される。


その繰り返しの中で、アルトは気づいた。


自分の能力が封じられているのではない。


自分の行動が、成立する順序そのものを奪われている。


「お前は……」


白い存在が近づいてくる。


「波を操り、死を得た。ずいぶん遠くまで来たな」


アルトは睨みつけた。


「だが、お前はまだ、時間の中にいる」


「時間……?」


「お前が波を放つ前。死を与える前。仲間を救おうとする前。すべてに前後がある」


白い存在がアルトの額に指を当てた。


「その順序を定めているものに、お前はまだ触れていない」


世界が白くなった。


音が消える。


光が消える。


地面も、空も、何もかもが消えていく。


アルトは最後に、倒れた仲間たちを見た。


手を伸ばす。


届かない。


「……俺は」


声が出なかった。


「俺は、まだ……」


白い存在が告げた。


「お前たちは、ここで終わる」


アルトの身体が砕けた。


死が訪れた。


だが、その死さえも、白い存在の前ではひとつの順序にすぎなかった。


そして、その順序は閉じられた。


どれほどの時間が経ったのか。


いや。


時間が経ったのかどうかさえ、分からなかった。


アルトは、何もない場所にいた。


身体はない。


波もない。


死もない。


仲間たちの気配もない。


ただ、意識だけが残っていた。


彼は思い出そうとした。


リナの声。


ゲンダの笑い声。


セナの手。


カイの境界。


思い出すことはできた。


しかし、それらが過去にあったのか、これから起こることなのか、区別がつかなかった。


「……なんだ、ここは」


返事はない。


アルトは自分の存在を確かめた。


自分はここにいる。


そう思った。


だが、次の瞬間には、その「ここ」がどこなのか分からなくなった。


過去も未来もない。


始まりも終わりもない。


変化すらない。


アルトは初めて、波を発生させることができなかった。


波とは変化だ。


しかし、変化が起こる前後がなければ、波は成立しない。


死も同じだった。


生があり、死がある。


その順序がなければ、死は存在できない。


「……時間」


アルトは呟いた。


その言葉だけが、何もない空間に残った。


遠くで、白い存在の声がした。


「気づいたか」


アルトは顔を上げた。


「お前が奪ったものは、波でも死でもない」


「そうだ」


「俺たちが生きていた順序だ」


白い存在は答えなかった。


アルトは拳を握ろうとした。


まだ、身体は戻らない。


それでも、意識の奥に小さな違和感が生まれていた。


波を操る。


死を与える。


その次にあるもの。


「時間……」


アルトはもう一度、その言葉を口にした。


「俺は、まだ時間を知らない」


白い存在の姿が、遠ざかっていく。


「知ったところで、何も変わらない」


「そうかな」


アルトの声に、わずかな力が戻った。


「お前が時間を定めているなら……」


言葉はそこで途切れた。


まだ答えはない。


ただ、アルトは初めて、自分の知らない次元の存在を認めた。


そして、その次元に手を伸ばそうとしていた。


時間。


それは、まだ彼のものではなかった。

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