第40話「助けてはいけなかった」
トン。
トン。
トン。
地下から返ってきた三回の振動。
アルトは地面に手を触れたまま、目を閉じていた。
「間違いない。リナだ」
「場所は?」
ゲンダが尋ねる。
「この真下じゃない。もっと遠い。地下を伝わって、ここまで届いている」
「どうやって追う?」
「振動が返ってくる方向を探す。カイ、境界を作れるか?」
「今は無理だ。能力は失ったままだ」
「分かった。ゲンダ、地下の配管や通路に詳しいよね」
「この辺りならな。だが、振動だけで場所が分かるのか?」
「分かるようにする」
アルトは地面に手を置いた。
小さな振動を送り込む。
地中へ。
壁へ。
水道管へ。
異なる経路を通った振動が、次々と戻ってくる。
アルトはそれを聞き分けていた。
「こっちだ」
「何が聞こえる?」
セナが尋ねる。
「空洞がある。そこから、三回ずつ振動が返ってくる」
「リナが叩いているの?」
「いや。あの振動は、リナが残したものだ。何度も繰り返し再生されている」
アルトは立ち上がった。
「急ごう。リナは待っているわけじゃない」
地下へ続く通路は、古い排水設備の奥にあった。
ゲンダが錆びた扉をこじ開ける。
その向こうには、壁も床も天井もない空間が広がっていた。
いや、正確には、壁も床も天井もあった。
ただし、どれも同じ景色だった。
正面に扉がある。
右にも扉がある。
左にも扉がある。
天井にも扉がある。
そして、そのすべての向こう側に、同じ部屋が見えていた。
「なんだ、ここは……」
ゲンダが呟く。
「観測空間だ」
アルトは一歩踏み出した。
その瞬間、無数の扉が一斉に開いた。
扉の向こうには、無数のアルトがいた。
笑っているアルト。
怒っているアルト。
傷だらけのアルト。
王冠をかぶったアルト。
そして、誰かに首を刎ねられているアルト。
「どれが本物だ?」
カイが尋ねる。
「全部、僕だ」
「冗談だろ」
「冗談じゃない」
アルトは歩き続けた。
「ここにいるのは、僕が選ばなかった可能性だ」
その先に、一人の少女が立っていた。
短い茶色の髪。
作業着。
そして、見慣れたゴーグル。
「リナ!」
アルトが駆け寄る。
「来ちゃったんだ」
リナは困ったように笑った。
「迎えに来たよ」
「帰れないよ」
「帰れる」
「帰っちゃだめ」
アルトは彼女の腕をつかもうとした。
しかし、指先が触れる直前、リナの姿が揺らいだ。
「アルト。お願いだから、話を聞いて」
「話は帰ってから聞く」
「帰ったら、世界が終わるよ」
アルトの手が止まった。
「私、ここに来てからずっと見ていたの」
リナは周囲の扉を見渡した。
「この世界の外側。あなたが追いかけていた線の向こう側」
「何があった?」
「世界が一つじゃなかった」
リナが右手を上げる。
一つの扉に、別の景色が映った。
そこには、アルトがいた。
奴隷として鎖につながれている。
別の扉には、魔王にならなかったアルト。
さらに別の扉には、神々に従い、世界の管理者になったアルト。
「これは全部、別の世界?」
セナが尋ねた。
「そう。選択が違った世界。ほんの少しの違いから、大きく分かれた世界。私たちの知らない歴史を持つ世界」
「つまり、並行世界か」
カイが言う。
「そう呼んでもいいと思う」
リナはアルトを見た。
「そして、あなたが神々の管理機構を壊したことで、世界を一つに固定していた仕組みが壊れた」
アルトは黙っていた。
「神々は、世界を一つに保つために、無数の可能性を管理していた。あなたはその仕組みを壊した。だから、可能性が溢れ出した」
「それで、観測システムが動き始めたのか」
「うん。世界をもう一度、一つに固定するために」
ゲンダが割って入る。
「待て。固定するって、どういうことだ?」
リナは答えた。
「一つを選ぶの。選ばれた世界だけを残して、ほかの世界を消す」
沈黙が落ちた。
「消すって……」
セナが言葉を失う。
「そこにいる人たちも?」
「全部。人も、街も、歴史も。そこに生きている人たちにとっては、それが唯一の世界なのに」
ゲンダが拳を握る。
「ふざけるな。誰がそんなことを決めるんだ」
「観測システム」
リナは答えた。
「そして、そのシステムが必要としているのが、アルトと私」
アルトはようやく口を開いた。
「僕が波を操り、君が世界を観測する」
「そう。あなたの能力なら、無数の世界をつなげられる。私の能力なら、その中から一つを確定できる」
「二人が揃えば、世界を一つに戻せる」
「そういうこと」
「だから、僕を呼び寄せたのか」
「違うよ。あなたが自分で来たことも、あなたが神々を倒したことも、システムは利用したんだと思う」
リナは目を伏せた。
「でも、もうすぐ完成する。世界を一つにする準備が」
「だったら、止めればいい」
アルトは言った。
「観測システムを壊す」
「もう遅い」
「遅くない」
「アルト!」
リナの声が響いた。
「私がここにいるから、今の世界は保たれているの!」
彼女の足元から、光の線が広がっていた。
線は空間全体に張り巡らされ、無数の扉をつないでいる。
「私が観測し続けているから、この世界はここに存在できている。私が観測者として残っている限り、世界は崩れない」
「なら、一緒に帰ろう。僕が代わりに何とかする」
「できないよ」
「どうして?」
「私がここを離れたら、観測が止まるから」
リナは笑った。
「この世界が消える」
ゲンダが叫ぶ。
「だったら、ここに残ればいいだろ! 無理に連れて帰る必要はない!」
「それもできない」
「何でだ!」
「観測システムが、もう私を維持できなくなっているから」
リナの身体が透け始めた。
「私がここにいられる時間は、もう残っていない」
セナが駆け寄る。
「待って。身体を診せて!」
リナの手を取ろうとする。
だが、触れられない。
「脈がない……いや、身体そのものが……」
セナは手を引いた。
「こんなの、患者じゃない」
「ごめんね」
リナが謝る。
「私、みんなに会いたかった」
カイが一歩前に出た。
「アルト。どうする?」
アルトはリナを見ていた。
彼女を連れて帰れば、世界が消える。
彼女を残せば、いずれ彼女自身が消える。
どちらも救いではなかった。
「リナ」
「なに?」
「君は、どうしたい?」
リナは少しだけ驚いた顔をした。
「私?」
「ああ。君はどうしたいんだ」
「……世界を一つにしたくない」
「理由は?」
「どの世界にも、そこで生きている人がいるから。私が一つを選んだら、選ばれなかった人たちはどうなるの?」
アルトは頷いた。
「分かった」
「アルト、待って」
「君を連れて帰る」
「だから、それをしたら――」
「世界が消えるんだろう」
「うん」
「それでもいい」
ゲンダが振り返った。
「おい、アルト!」
セナも叫ぶ。
「本気なの?」
アルトは二人を見た。
「この世界を残すために、リナをここに閉じ込める。それは僕がかつてやっていたことと同じだ」
「だが、世界がなくなるんだぞ!」
「分かっている」
アルトはリナに手を伸ばした。
「僕はもう、誰かを管理して自由を奪う側には戻らない」
リナは目を見開いた。
「……本当にいいの?」
「君を助けに来たんだ」
アルトは彼女の手を握った。
今度は、指先がすり抜けなかった。
その瞬間。
空間全体が震えた。
無数の扉が、内側から砕け始める。
『観測者の離脱を確認』
声が響いた。
『世界の固定を解除します』
「始まったな」
アルトはリナの手を握ったまま、仲間たちを振り返った。
「走れ!」
全員が出口へ向かう。
しかし、出口はもうなかった。
床が消えた。
壁が消えた。
その向こうに、別の世界が見える。
ゲンダが手を伸ばす。
「セナ!」
セナの身体が傾く。
カイが彼女をつかんだ。
「こっちだ!」
アルトは周囲に波を放った。
空間を支える波。
崩壊を伝える波。
すべてを読み取り、つなぎ直す。
だが、つなぎ直した先から、また世界が剥がれていく。
「くそっ!」
アルトが叫ぶ。
『世界の固定を解除します』
「黙れ!」
アルトは両手を広げた。
「波を止める必要はない。世界を一つに戻す必要もない!」
彼は、無数の世界をつなぐ線を切った。
一本ずつ。
一本ずつ。
すべての世界を一つにまとめようとする関係だけを断ち切る。
しかし、最後の一本だけが残った。
その線の先に、無数の世界がぶら下がっている。
そして、その線はアルト自身につながっていた。
「アルト!」
リナが叫ぶ。
「それを切ったら、あなたも――」
「分かっている!」
アルトは線をつかんだ。
その瞬間、無数のアルトたちが現れた。
魔王のアルト。
奴隷のアルト。
神々に従うアルト。
すべてが一斉に口を開く。
「やめろ」
「こちらを選べ」
「この世界を残せ」
「お前の世界だけでいい」
「お前が生きていればいい」
アルトは目を閉じた。
「僕は、選ばない」
そして、アルトが最後の線を断ち切った。
世界と世界をつないでいた、最後の関係。
それが消えた瞬間、無数の光が一斉に遠ざかっていった。
それぞれの光の中に、それぞれの世界がある。
もう、どれか一つに統一されることはない。
「……これで、よかったんだよね」
リナが呟いた。
「わからない」
アルトは正直に答えた。
「でも、誰かに決められるよりはいい」
ゲンダが周囲を見回した。
「で、これからどうする?」
「まずは、あの世界を――」
アルトが一つの光を指そうとした。
そのときだった。
すべての光が、同時に消えた。
「え?」
リナの声。
星も、地面も、空もない。
ゲンダが足元を確かめる。そこには何もなかった。
それなのに、彼らは落ちていなかった。
「アルト、何か見えるか?」
セナの問いに、アルトは首を横に振った。
見えない。
聞こえない。
波がない。
いや、違う。
波が存在しないのではない。
波が生まれる前なのだ。
アルトは、自分の手を見つめた。
自分の身体を構成する物質も、空間も、時間さえも、まだ存在していない。
「……ここは」
その瞬間。
一点に、小さな光が生まれた。
あまりにも小さく、あまりにも強い光。
光が膨張する。
空間が生まれる。
時間が動き出す。
あらゆる方向へ、世界が広がっていく。
アルトは理解した。
「宇宙の……始まり?」
リナが息を呑む。
その光の中心から、声が聞こえた。
「遅かったな」
全員が振り向く。
そこには、誰もいない。
声だけが続いた。
「お前たちが来なければ、この宇宙は始まらなかった」
アルトは、光の中心を見つめた。
「……お前は誰だ?」
返事はなかった。
代わりに、宇宙がもう一度、大きく膨張した。




