第38話「世界は、見られたとおりになる」
「壊れてない」
リナが呟いた。
目の前には、半分崩れた建物がある。
ノイズとの戦いで崩壊した、街の診療所だった。
「何が?」
アルトが尋ねる。
「この建物よ。壊れてない」
「いや、壊れてるだろ」
「違う。壊れてないの」
リナは建物を見つめた。
その瞬間。
ゴゴゴゴゴ……。
崩れた壁が持ち上がった。
割れた窓ガラスが宙を舞い、元の位置へ戻る。
折れた梁が伸び、瓦礫が床から浮き上がる。
数秒後。
診療所は、戦闘が始まる前の姿に戻っていた。
ゲンダが口を開けた。
「おいおい……」
セナが壁を触る。
「傷がない。完全に戻ってる」
リナは自分の手を見た。
「私が……見ただけなのに」
アルトは彼女の目を見た。
「見たものを、現実にしたのか」
「そんなつもりじゃなかった」
「でも、起きた」
アルトは診療所の壁に手を当てた。
波を調べる。
「これは修復じゃない」
「どう違うの?」
「壊れた建物を直したんじゃない。壊れていない状態に、世界を書き換えたんだ」
リナが息を呑む。
「そんなことができるの?」
「君がやった」
そのとき、リナの背後から声がした。
「それは違う」
全員が振り返った。
診療所の入口に、一人の男が立っていた。
見たことのない男だった。
白い服。
裸足。
年齢は二十代後半ほど。
男はアルトを見ていた。
「君がやったんじゃない。彼女が、君たちの世界をそう定義したんだ」
アルトは男を睨んだ。
「誰だ?」
男は笑った。
「君が知らない人間だよ」
その瞬間。
セナが叫んだ。
「誰かいる!」
彼女は男を見ていた。
「この人、診察したことがある……!」
男は首を傾げた。
「そうだね。君には三年前に会っている」
「三年前?」
セナの顔が青ざめる。
「そんな患者はいないわ」
「いたよ。君は僕の傷を縫った。左の脇腹。縫合が少し雑だった」
セナは自分の手を見つめた。
「……思い出せない」
男はアルトに視線を戻した。
「僕は、君の前の世界を知っている」
アルトの表情が変わった。
「何だと?」
「君が魔王だったことも。神々と戦ったことも。世界の外側に線を見つけたことも」
「お前は何者だ」
「君が最初に知りたかったものだよ」
男は言った。
「世界の外側から来た人間だ」
「信用できないな」
アルトは男から目を離さなかった。
「そうだろうね」
「証拠を出せ」
「君が前の世界で使っていた能力の名前は?」
「鳴き声」
「違う」
男は即答した。
「君がそう呼んでいただけだ」
アルトの眉が動く。
「君の能力は、音を出す能力じゃない。波を操る能力でもない」
男はアルトの胸を指差した。
「君は、世界に変化を起こす能力を持っていた」
「同じことだ」
「違う。波は、そのための手段にすぎない」
アルトは黙った。
男は続ける。
「君は波を使って、物質を動かし、熱を生み、光を曲げ、関係を切った。君が世界を理解するために選んだ方法が、波だった」
「……」
「だから君は、世界の外側にある一本の線を見つけた」
男は空を見上げた。
「あれは道ではない」
「何?」
「観測線だ」
リナが口を挟んだ。
「観測線?」
「世界の内側と外側をつなぐための線。君が見つけたのは、出口ではなく、こちらを見ている目の通り道だった」
アルトは拳を握った。
「なら、僕は最初から誘導されていたのか」
「いや」
男は首を振った。
「君が自分の意思で追いかけたことに、意味がある」
「何の意味がある?」
「君は、観測されることを拒まなかった。自分から観測線を追い、境界を越えた。君は、こちら側に来るために必要な条件を満たしたんだ」
「誰がそんな条件を決めた?」
「君だよ」
男が笑った。
「君自身が、そういう存在になった」
「もういい」
アルトが一歩前へ出た。
「お前が何を知っていようと関係ない。僕は僕の意思でここにいる」
「そうかな」
男が指を鳴らした。
パチン。
アルトの背後に、もう一人のアルトが現れた。
同じ顔。
同じ身体。
同じ服。
ただし、目だけが違った。
こちらのアルトより、ずっと落ち着いている。
「やあ」
もう一人のアルトが言った。
「久しぶり」
リナが息を呑む。
「もう一人……?」
「観測されたアルトだ」
白い服の男が説明した。
「君が見てきた自分。君が記憶している自分。君が選んできた行動。それらを組み合わせて作られた存在だ」
もう一人のアルトが手を上げた。
「試してみようか」
アルトの身体が動いた。
「キュイイイイイッ!」
波を放つ。
しかし、もう一人のアルトも同じ波を放った。
二つの波が衝突する。
空気が歪む。
地面が割れる。
互いの波が互いを打ち消し、周囲に衝撃が広がった。
「なるほど」
もう一人のアルトが言った。
「君は、こうやって戦うんだね」
「黙れ!」
アルトは地面に弾性波を流した。
地中を伝わった波が、相手の足元から突き上げる。
しかし、もう一人のアルトは一歩も動かなかった。
地面の波が、彼の身体を通り抜ける。
「同じ手は通じないよ」
「なら!」
アルトは空気中の音波を一点に集めた。
高密度の圧力波。
もう一人のアルトが同じ動きをする。
二つの波が正面衝突した。
その瞬間、アルトは別の波を放った。
光だ。
相手の背後に回り込み、目を焼く。
しかし、もう一人のアルトは目を閉じたまま、正確にアルトの位置を捉えた。
「君の戦い方は、全部知っている」
「だったら、知らないことを見せてやる!」
アルトは自分の周囲の波をすべて止めた。
音も、光も、振動も。
何も伝わらない空間。
もう一人のアルトが笑った。
「それも知っている」
彼は同じように波を止めた。
二人の間に、完全な静寂が生まれた。
そして、もう一人のアルトが言った。
「君は、波を止めることで相手を無力化する。でも、僕は違う」
彼が手を広げる。
「僕は、君が波を止めたという事実を利用する」
アルトの足元が崩れた。
波を止めたことで、地面の振動が伝わらなくなった。
足元の状態を観測できない。
地面が崩れていることに気づくのが遅れた。
アルトは落下した。
「アルト!」
リナが叫ぶ。
「やめて!」
リナが二人の間に割って入った。
「もう一人のアルトを消して!」
白い服の男は首を振った。
「できないよ」
「どうして!」
「彼は彼女が観測した存在ではない。君が観測したアルトの記録から作られた存在だ」
「私が?」
「そう。君は彼を見ている。君が彼を認識する限り、彼は存在する」
リナは歯を食いしばった。
「じゃあ、見なければいい」
「やってみるといい」
リナは目を閉じた。
もう一人のアルトを見ない。
その存在を認めない。
「いない」
彼女は呟いた。
「そこには誰もいない」
もう一人のアルトの輪郭が揺らいだ。
「消える……?」
セナが呟く。
しかし、次の瞬間。
リナの背後に、別の人影が現れた。
「……ノイズ?」
黒い服。
細い身体。
あの男だった。
アルトが地面から立ち上がる。
「ノイズ!」
男は振り返った。
「よう」
「お前は……」
「俺は死んだ」
ノイズは自分の胸を指差した。
「だが、俺の記録は残っている」
「ふざけるな!」
「怒るなよ。俺だって、こんな形で戻りたくなかった」
ノイズはリナを見た。
「お前が俺を見たから、俺はここにいる」
リナは震えていた。
「あなたは……本物なの?」
「違う」
ノイズは即答した。
「俺は、お前たちが知っている俺の記録だ」
「じゃあ、何をしに来たの?」
「お前を殺しに来た」
ノイズの手が動いた。
リナの首に向かって伸びる。
アルトが飛び込んだ。
「触るな!」
波を放つ。
だが、ノイズの手は止まらない。
アルトはその腕をつかんだ。
「お前は、そんなことをする男じゃない!」
ノイズはアルトを見た。
「そうだな」
そして、笑った。
「だから俺は本物じゃない」
彼の腕が砕けた。
黒い破片が空中に散る。
「くそっ!」
アルトが波を放つ。
ノイズの身体が崩れていく。
だが、崩れた破片は地面に落ちず、空中で集まり始めた。
「アルト!」
リナが叫んだ。
「そいつは私が見ている限り消えない!」
「なら、目を閉じろ!」
「閉じてる!」
「何だと?」
「閉じてるのに見えるのよ!」
リナの頬に涙が流れた。
「私が見ているんじゃない。私に見せられているの!」
「リナ!」
アルトが叫ぶ。
「何が見える!」
「ノイズ!」
「それ以外だ!」
「もう一人のあなた!」
「それ以外!」
「分からない!」
「なら、分かるまで見ろ!」
「無茶言わないで!」
そのとき、ゲンダが叫んだ。
「おい! 俺を見ろ!」
全員が振り返る。
ゲンダは自分の胸を叩いた。
「俺は誰だ!」
「ゲンダさん!」
リナが答える。
「そうだ! 俺はゲンダだ!」
彼はカイを指差した。
「こいつは誰だ!」
「カイ!」
「セナは!」
「セナ!」
「なら、俺たちを見ろ!」
ゲンダは叫んだ。
「お前が何を見せられていようと、俺たちが誰なのかは俺たちが決める!」
リナの目が見開かれた。
セナも声を上げる。
「私はセナ! 医者よ!」
カイが続ける。
「俺はカイだ。能力がなくても、俺は俺だ」
アルトはノイズを押さえながら叫んだ。
「僕はアルトだ! 誰かに観測されたから僕になったんじゃない!」
リナは周囲を見渡した。
そして、笑った。
「……そうね」
彼女はゴーグルを外した。
「私が見たものが世界になるなら」
レンズを地面に叩きつける。
「私が見るものくらい、私が決める!」
その瞬間。
ノイズの姿が消えた。
もう一人のアルトも消えた。
白い服の男の表情が変わった。
「何をした?」
リナは男を見た。
「あなたを見た」
「それが?」
「あなたは、誰かの記録を使っている。私たちの記憶を使って、私たちを再現している」
「そうだ」
「でも、あなた自身は?」
男は答えなかった。
リナが一歩前へ出る。
「あなたは、誰に見られているの?」
男の身体が揺らいだ。
「やめろ」
「あなたの記録は?」
「やめなさい」
「あなたの名前は?」
男の顔に、初めて恐怖が浮かんだ。
「私は……」
彼の身体が透け始める。
「私は……」
そして、消えた。
街に静寂が戻った。
アルトは息を整えた。
「リナ、今のは……」
「分からない。でも、あの男は自分自身を観測できなかった」
「自分が何者なのか分からなかった?」
「違う。自分が何者なのかを、誰かに決めてもらわないと存在できなかったんだと思う」
アルトは空を見た。
「なら、あいつを作った何かも同じかもしれない」
そのとき。
「……あれ?」
セナが声を上げた。
「どうした?」
カイが尋ねる。
「ゲンダさん、さっき何て言った?」
「俺か?」
「あなたの名前」
「ゲンダだ」
「違う。あなたの名前じゃない」
セナは額を押さえた。
「あなたの名前が……思い出せない」
ゲンダが笑った。
「何を言ってる。俺はゲンダだ」
「でも、あなたの名前を知っていたはずなのに……」
セナの声が震えた。
「あなたの顔も、声も、知っている。でも、どうして知っているのか分からない」
ゲンダの表情が変わった。
「おい……」
カイが口を開いた。
「俺もだ」
「カイ?」
「俺は何をしていた?」
彼は自分の手を見た。
「俺は、何のためにここにいる?」
アルトが駆け寄る。
「やめろ!」
波を広げる。
しかし、何も見つからない。
彼らの身体は正常だ。
記憶も、神経も、脳も正常。
失われているのは、彼らが自分自身を成立させるための関係だった。
「名前と記憶を切り離されている……」
アルトは呟いた。
「存在そのものを消すんじゃない。存在の意味を消している」
リナが顔を上げた。
「それって……」
「このまま進めば、僕たちは自分が誰なのか分からなくなる」
その瞬間。
ゲンダがアルトの肩をつかんだ。
「おい、若造」
「何?」
「俺が誰だか分からなくなっても、お前は俺を覚えておけ」
「ゲンダさん……」
「俺が忘れても、お前が覚えていればいい」
ゲンダは笑った。
「人間ってのは、自分の記憶だけでできてるわけじゃないだろ」
アルトは答えられなかった。
その夜。
アルトとリナは、街の外れにいた。
ノイズの墓標はない。
彼の遺体は、仲間たちが埋葬した。
だが、アルトは墓の前に立つことができなかった。
「ねえ」
リナが言った。
「あなたが最初に追いかけていた線」
「ああ」
「見つけたら、どうするつもりだったの?」
「外側に何があるのか知りたかった」
「それだけ?」
「それだけだ」
「帰りたかったんじゃないの?」
アルトは首を振った。
「帰る場所を探していたわけじゃない。知らないものを知りたかった」
リナは空を見上げた。
「なら、今度こそ見に行きましょう」
「どこへ?」
「世界の外側」
アルトは彼女を見た。
「危険だ」
「今さら?」
「僕はもう、君を巻き込みたくない」
「もう巻き込まれてる」
リナは笑った。
「それに、私も知りたい。誰が世界を観測しているのか」
そのとき、アルトの胸に波が走った。
ドクン。
彼は空を見上げた。
夜空に、一本の線が浮かんでいた。
あの線だ。
神界の外側に続いていた、あの一本の線。
「見つけた……」
アルトが呟く。
だが、今回は違った。
線は空の向こうへ伸びているのではない。
こちらへ向かって伸びていた。
地上へ。
街へ。
そして、アルトの足元へ。
「リナ、下がれ」
「何?」
アルトが地面を見た。
線の先端が、地面に突き刺さっている。
その場所から、声が聞こえた。
『観測者アルト』
『あなたは、外側を知りたがっていた』
『だから、見せてあげよう』
地面が裂けた。
そこにあったのは、暗闇ではなかった。
無数の窓だった。
それぞれの窓の向こうに、別の世界が見える。
そして、そのすべての世界に、アルトがいた。
魔王にならなかったアルト。
神々に従ったアルト。
この世界に来なかったアルト。
そして。
まだ何も知らず、前の世界で奴隷として働いていたアルト。
「……何だ、これは」
『あなたが観測しなかった世界です』
アルトは拳を握った。
「僕の知らない世界を、見せているのか」
『いいえ』
声が答えた。
『あなたが選ばなかった世界です』
一つの窓が大きくなる。
そこには、見覚えのある光景があった。
アルトが奴隷として働いていた場所。
そして、その隣に立つ人物。
彼は、アルトの顔をしていた。
しかし、奴隷ではない。
自由な服を着て、笑っている。
「お前は……」
そのアルトが、こちらを見た。
そして言った。
「ようやく来たね」
アルトは窓に近づいた。
「お前は誰だ」
向こう側のアルトは答えた。
「僕は、君が世界の外側を追いかけなかった場合の君だ」
「……」
「君が魔王にならず、神々と戦わず、ただ普通に生きていた世界の君」
「そんな世界があるのか」
「あるよ」
向こう側のアルトは笑った。
「そして、僕たちは君を待っていた」
「なぜ?」
「君が、こちら側に来たからだ」
アルトは窓に手を当てた。
その瞬間、向こう側のアルトも手を当てた。
二つの手の間に、薄い境界がある。
「君たちは何者だ」
「僕たちは、観測されなかった世界の住人だ」
「なぜ僕を待っていた?」
向こう側のアルトは笑みを消した。
「君が来なければ、僕たちは存在できなかった」
「どういう意味だ?」
「君が世界の外側を観測したことで、僕たちは初めて存在を認識された」
「……」
「君は、自分の世界を広げたつもりだったんだろう?」
向こう側のアルトは、窓を叩いた。
「でも、君が世界を広げた瞬間、僕たちの世界が狭くなった」
「何を言っている?」
「君が僕たちを観測した。だから僕たちは、君の世界に取り込まれ始めている」
そのとき、背後から声がした。
「アルト!」
リナだった。
彼女の身体が、少しずつ透けている。
「リナ!」
「私、何かおかしい!」
アルトは彼女に駆け寄った。
しかし、リナの身体に触れた瞬間、手がすり抜けた。
「そんな……!」
向こう側のアルトが言った。
「彼女は、君の世界の人間だ」
「何が言いたい!」
「君が僕たちを観測したから、彼女の世界が削られている」
「やめろ!」
「君は、外側を知りたかったんだろう?」
向こう側のアルトは笑った。
「なら、最後まで見ろ」
窓の向こうに、巨大な影が現れた。
それは人間の形をしていなかった。
無数の線が絡まり合い、無数の窓を抱えた巨大な何か。
その中心に、一つの目があった。
『観測対象の拡張を確認』
『世界間の境界を解除します』
アルトの胸が鳴った。
ドクン。
そして、リナの姿が消えた。
「リナ!!」
アルトは手を伸ばした。
何もない。
彼女がいた場所には、ゴーグルだけが落ちていた。
アルトはそれを拾い上げた。
そのレンズに、文字が浮かんでいる。
『観測者:リナ』
『状態:未確定』
アルトは空を見上げた。
「……ふざけるな」
彼の声が震えた。
「僕の知りたいものを見せるために、仲間を消すな」
窓の向こうのアルトが答えた。
「君が見たいものを選んだんだ」
アルトは笑った。
怒りで、笑った。
「違う」
拳を握る。
「僕が見たいものは、僕が決める」
彼は窓に手を当てた。
「そして、僕が守るものも、僕が決める」
波が広がる。
窓の向こうへ。
無数の世界へ。
そして、その奥にいる巨大な目へ。
「キュイイイイイイイイイイッ!!」
その瞬間。
すべての窓が、一斉に閉じた。
暗闇の中で、声が響く。
『警告』
『観測者アルトが、観測系統に干渉しています』
『観測者の排除を開始します』
アルトは笑った。
「やっと、こっちを見たな」
彼の背後に、無数の足音が響いた。
振り返る。
そこには、もう一人のアルトが立っていた。
一人ではない。
十人。
百人。
千人。
すべて、違う人生を選んだアルトだった。
その先頭に立つ男が、口を開いた。
「君を止めに来た」
アルトはゴーグルを握りしめた。
「いいだろう」
そして、笑った。
「世界の外側に行く前に、まずは自分自身を片付けるか」
無数のアルトが、一斉に動いた。
世界の外側には、答えがあるとは限らない。
だが、答えを見に行くことを諦める理由にもならない。




