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第37話「見てはいけないもの」


「次は、私なのね」


リナの右手は、胸に向かってゆっくりと動いていた。


アルトが押さえている。


だが、力を込めても止まらない。


「セナ! 何とかできないか!」


「神経に異常はない! 筋肉も正常よ! なのに、本人の意思と関係なく動いている!」


「じゃあ、腕を切り落とすか?」


ゲンダが低く言った。


「駄目よ!」


セナが叫ぶ。


「腕だけの問題じゃない。今は右手だけだけど、次に何が起きるか分からない!」


リナは自分の腕を見つめていた。


「……アルト。手を離して」


「駄目だ」


「いいから」


「嫌だ」


「私の手を見て」


アルトがリナの顔を見る。


「あなたが押さえている間、私の手はずっと同じ方向に動こうとしている。でも、少しずつ力の向きが変わってる」


「それが?」


「誰かが私を動かしているんじゃない。私の身体が、何かに反応している」


リナは歯を食いしばった。


「私の身体を使って、何かを測っているんだわ」


アルトの表情が変わった。


「測定器か」


「そう。私が観測対象になったんじゃない。私自身が、観測するための装置にされた」


その瞬間、リナの右手が止まった。


彼女の目が見開かれる。


「……見える」


「何が?」


「あなたの後ろ」


アルトが振り返る。


誰もいない。


「何もないぞ」


「違う。あなたの後ろに、あなたがいる」


「は?」


「もう一人のアルトが、こっちを見てる」


リナの瞳が揺れた。


「それから……」


彼女は息を呑んだ。


「ノイズもいる」


アルトの手が緩んだ。


「どこだ」


「あなたの後ろ。少し離れたところに立ってる」


「リナ。ノイズは死んだ」


「分かってる」


「死んだんだ」


「分かってるってば!」


リナが叫んだ。


その目から涙が落ちた。


「私だって分かってる。でも、見えるのよ!」


「全員、目を閉じろ」


アルトが言った。


「どうして?」


「リナが見ているものを、僕も観測する」


「駄目よ」


リナが首を振った。


「見ないで」


「何か分かるかもしれない」


「違うの。見たら、そっちに行ってしまう」


「そっち?」


リナは答えなかった。


彼女の視線は、アルトの背後に固定されている。


「ノイズが……歩いてくる」


アルトの身体が硬直した。


「やめろ」


「あなたの横を通って……私のところへ」


「やめろ!」


「アルト」


リナが彼の顔を見た。


「ノイズが、何か言ってる」


「何を?」


「聞こえない」


「もっとよく見ろ!」


「違う!」


リナがアルトの胸を突いた。


「見れば見るほど、あれが本物に見えてくるの!」


静寂。


リナは震える手で、自分のゴーグルを外した。


「……これを使う」


「ゴーグル?」


「私の目で見ているものが、私の脳に直接送り込まれているなら、目を使わずに観測すればいい」


彼女はゴーグルのレンズを外した。


内側に取り付けられた小さな金属板を取り出す。


「これは境界異常を調べるための振動検出器。視覚に頼らず、物体の振動から位置を割り出すために作ったものよ」


「それで何ができる?」


「私が見ているものが、本当にそこにあるのか調べる」


リナは金属板を地面に置いた。


ゲンダが工具袋から細い金属棒を取り出す。


「これを使え」


「ありがとう」


リナは金属棒を床に当てた。


コン。


小さな音が響く。


「アルト。今、私の後ろに何かいる?」


「いない」


「ノイズは?」


「いない」


「じゃあ、振動を調べる」


リナは目を閉じた。


金属棒を伝わる振動に集中する。


コン。


コン。


コン。


やがて、彼女の眉間に皺が寄った。


「……おかしい」


「何が?」


「振動が返ってこない」


「何もないからじゃないのか?」


ゲンダが尋ねる。


「違う。ここには壁がある。床もある。人もいる。なのに、私が見ている方向だけ、振動が戻ってこない」


アルトが金属板に触れた。


波を広げる。


そして、息を呑んだ。


「これは……」


「何か分かった?」


「リナ。君が見ている方向には、何もないんじゃない」


アルトはゆっくりと顔を上げた。


「波が、そこから戻ってこないようにされている」


「つまり、あそこに何かあるのね」


リナが言った。


「そうだ。そこだけ、観測できない」


「見えない場所?」


「違う。見えるけど、波が返ってこない。光も音も、僕たちがそこに向けて送った情報も、戻ってこない」


ノイズの能力を思い出した。


音を消す。


届くはずのものを、届かなくする。


だが、今の現象はそれとは違う。


ノイズは波が届かないという結果を作っていた。


こちらは、波が届いたかどうかすら分からない。


「リナ。そこを見ないでくれ」


「もう見てない」


「いや、目を閉じても見えているんだろ」


「……うん」


「なら、僕が切る」


アルトは手を伸ばした。


しかし、何も切れなかった。


「どうしたの?」


「関係がない」


「え?」


「僕たちと、あそこをつなぐ関係が見つからない。切る対象がないんだ」


アルトは初めて、自分の能力が届かない場所を前にしていた。


「なら、作ればいい」


リナが言った。


「何を?」


「関係よ。あそこに何かがあるなら、そこにつながる関係を新しく作る」


「どうやって?」


「あなたが考えて」


「簡単に言うな!」


「あなたならできるでしょ!」


リナが笑った。


ほんの一瞬だけ、いつもの顔に戻った。


その瞬間。


彼女の右手が動いた。


今度は胸ではない。


アルトの胸に向かって伸びていく。


「アルト、避けて!」


リナ自身が叫んだ。


だが、手は止まらない。


彼女の指先がアルトの胸に触れた。


ドクン。


アルトの心臓が鳴った。


そして、リナの口が開いた。


『観測者、確認』


『対象の位置を確定』


『接続を開始します』


アルトの視界が白く染まった。


そこは、街だった。


しかし、誰もいない。


建物はある。


道路もある。


空もある。


ただ、すべてが完全に静止していた。


アルトは自分の手を見た。


動く。


身体は動かせる。


「ここは……」


声が返ってこない。


彼は地面に手をついた。


波を広げる。


何もない。


いや、何も返ってこない。


「誰かいるのか!」


返事はない。


そのとき、目の前に人影が現れた。


黒い服。


細い身体。


見覚えのある立ち姿。


「ノイズ……?」


男が振り返った。


顔も、声も、間違いない。


「よう」


アルトは駆け寄ろうとした。


だが、ノイズが手を上げた。


「来るな」


「ノイズ!」


「俺はノイズじゃない」


アルトの足が止まる。


男は自分の胸を指差した。


「俺の身体は死んだ。ここにいるのは、お前が観測した俺の記録だ」


「記録……?」


「お前が覚えている俺の姿、声、行動。そいつを組み合わせて作ったものだ」


「それでも、君はノイズだろ」


「違う」


男は笑わなかった。


「俺なら、お前にそんなことは言わない」


アルトは言葉を失った。


「お前は、死んだ俺を取り戻したいんだろう」


「……」


「だから、俺の姿を見て、俺の声を聞いて、俺が生きていると思いたい」


ノイズの姿をした何かが、一歩近づいた。


「俺を見ろ。お前が望む限り、俺はここにいる」


アルトは拳を握った。


「お前は誰だ」


『観測結果を表示しています』


声が響いた。


『記録された人物の再現は可能です』


『ただし、再現された人物の意思は保証されません』


「ふざけるな」


『観測者アルト。あなたは、何を知りたいのですか』


アルトは顔を上げた。


「お前の正体だ」


『それは必要な情報ではありません』


「なら、何が必要だ」


『あなたがこの世界に来た理由です』


アルトの表情が変わった。


『あなたは世界の外側を見ようとした』


『境界の向こうに何があるのかを知ろうとした』


『そのために、あなたは神々の管理機構を破壊した』


『そして、世界の外へ続く線を追い、境界を越えた』


「そうだ」


『なぜですか』


「知りたかったからだ」


『何を』


「この世界の外に何があるのか」


『なぜ』


「……」


アルトは答えなかった。


『あなたは、知ることを望んだ』


『ならば、知ればよい』


目の前に、巨大な光景が広がった。


無数の世界。


無数の境界。


無数のアルト。


魔王になったアルト。


神々と戦うアルト。


この世界に落ちたアルト。


そして、まだ見たことのないアルト。


『あなたが選ばなかった可能性です』


「これは……」


『あなたが観測しなかった世界です』


アルトは目を細めた。


「違う」


『何が違うのですか』


「これは可能性じゃない。僕の記憶を使って作った映像だ」


『正確です』


「そして、僕が見たものを並べているだけだ」


『正確です』


アルトは一歩前に出た。


「お前は、僕が見たものしか作れない」


『……』


「僕が知らないものは、再現できない」


『観測者アルト。あなたは、何を求めていますか』


「お前が何者なのかを知りたい」


『そのためには、あなたの観測が必要です』


「違う」


アルトはノイズの姿をしたものを見た。


「僕が見たいものを見せるんじゃない。お前が何なのかを見せろ」


現実。


リナは倒れていた。


セナが彼女の身体を支えている。


「アルト! 戻ってきて!」


返事はない。


アルトの目は開いている。


だが、何も見ていない。


カイが近づいた。


「どうなっている?」


「分からない。でも、アルトの意識がどこかに引き込まれている」


セナが答える。


ゲンダがアルトの肩を揺さぶる。


「おい! 聞こえるか!」


反応はない。


リナの右手が、アルトの胸に触れたまま動かない。


「リナも危ない」


セナが言った。


「何とかできないのか?」


ゲンダが尋ねる。


「できることがない。心臓も呼吸も正常なのに、二人とも戻ってこない」


カイはアルトとリナを見た。


「俺の能力が残っていれば、二人の間に境界を作れたかもしれない」


「もう、あなたの能力はないんでしょう」


「そうだ」


カイは拳を握った。


「何もできない」


そのとき、ゲンダが床を叩いた。


「何もできないなら、できることを探せ!」


彼は工場から持ってきた金属棒を床に並べた。


「リナは振動を調べていた。なら、これでいいんじゃないか?」


「何をするつもり?」


「床に振動を流す。二人の身体に何か反応が出るかもしれん」


「危険よ!」


「何もしないよりマシだ!」


ゲンダは金属棒を叩いた。


コン。


コン。


コン。


その音が、床を伝わる。


アルトの指が、わずかに動いた。


「反応した!」


セナが叫ぶ。


ゲンダはもう一度叩いた。


コン。


コン。


コン。


今度はリナの指が動いた。


「続けて!」


ゲンダは力を込めた。


コン、コン、コン。


しかし、次の瞬間。


金属棒が弾け飛んだ。


「何だ!?」


床が大きく揺れた。


アルトの身体が浮き上がる。


リナの手が離れる。


二人の胸が、同時に大きく跳ねた。


ドクン。


静止した街。


アルトの目の前に、巨大な黒い空間が現れた。


そこには何もない。


建物も、人も、光もない。


ただ、黒い空間の中心に、小さな点が一つだけ浮かんでいる。


『観測者アルト』


声がした。


『あなたは、私を観測できません』


「なぜだ」


『私は、あなたが観測するための対象ではないからです』


「じゃあ、何なんだ」


『あなたが観測するという行為そのものです』


アルトは黙った。


『あなたは、世界を観測していると思っていた』


『しかし、あなたが世界を観測するためには、世界があなたに情報を返さなければならない』


『音が聞こえる』


『光が見える』


『振動が伝わる』


『すべて、世界があなたに返した情報です』


「だから?」


『あなたは、その情報を使って世界を理解した』


『しかし、あなたは一度も考えなかった』


『なぜ、世界はあなたに情報を返すのか』


アルトの背筋に寒気が走った。


「世界が……僕を観測している?」


『いいえ』


黒い点が大きくなる。


『あなたが世界を観測するたび、世界はあなたを定義している』


『あなたが見たものが、あなたの世界になる』


『あなたが聞いたものが、あなたの世界になる』


『あなたが知ったものが、あなたの世界になる』


「……」


『そして、あなたが知らないものは、あなたの世界には存在しない』


アルトは黒い点を見つめた。


「それは違う」


『何が違うのですか』


「知らないものが存在しないわけじゃない」


『あなたにとっては、同じことです』


アルトは笑った。


「なるほど」


『何が分かったのですか』


「お前は、僕の観測を利用している」


『正確です』


「僕が観測したものを使って、僕の世界を作っている」


『正確です』


「なら、僕が観測しなければいい」


『不可能です』


「どうして?」


『あなたは、すでに観測しています』


アルトの目の前に、ノイズが現れた。


その姿が、少しずつ崩れていく。


「アルト」


ノイズの声がした。


「お前は、俺を見た」


アルトは目を見開いた。


「ノイズ……?」


「だから、ここに俺がいる」


「違う。君は死んだ」


「そうだ」


ノイズは笑った。


「なら、俺を見るな」


その姿が消えた。


アルトは手を伸ばした。


だが、何も触れない。


「待て!」


『観測者アルト』


声が響く。


『あなたは、何を見ないことにしますか』


アルトは答えた。


「お前だ」


現実。


アルトが目を開けた。


「……リナ!」


彼は起き上がった。


リナも目を開けている。


セナが二人の顔を確認する。


「戻った……?」


「どうなったの?」


リナが尋ねた。


アルトは答えなかった。


周囲を見回す。


ゲンダが床に転がった金属棒を拾っている。


カイは壁にもたれている。


ノイズの遺体は、まだそこにある。


アルトはノイズの顔を見た。


そして、目を閉じた。


「アルト?」


リナが呼ぶ。


「もう、ノイズを観測しない」


「どういうこと?」


「僕の記憶の中にいるノイズを、これ以上あいつに渡さない」


リナは静かに頷いた。


「私も」


そのとき、アルトの胸が鳴った。


ドクン。


一度。


そして、二度目は鳴らなかった。


「……止まった?」


セナが脈を確認する。


「違う。動いてる」


アルトは自分の胸に手を当てた。


心臓は正常に動いている。


だが、あの奇妙な同期が消えていた。


リナがゴーグルを拾い上げた。


「アルト。これを見て」


レンズの内側に、小さな文字が浮かんでいる。


『観測者:リナ』


その下に、別の文字があった。


『観測対象:世界』


リナが息を呑む。


「……私が、世界を観測する?」


アルトは彼女を見た。


「さっき、何を見た?」


リナはしばらく黙っていた。


やがて、静かに答えた。


「あなた」


「僕?」


「あなたが、何も見ていないところ」


アルトは眉をひそめた。


「どういう意味だ?」


リナはゴーグルを握りしめた。


「あなたが見ていない場所に、何かがいた」


「それは、さっきの黒い空間か?」


「違う」


リナの顔が青ざめる。


「あなたが見ていない場所に、もう一人のあなたがいた」


アルトは何も言わなかった。


リナは続けた。


「そいつは、あなたを見ていた」


その瞬間。


街のすべての窓に、同じ文字が浮かび上がった。


『観測者の交代を確認』


『観測対象:アルト』


『観測者:リナ』


そして、最後の一行。


『観測対象が観測者を観測しています』


リナがゴーグルを落とした。


アルトは、窓の外を見た。


街の人々が、こちらを見ている。


その中に、一人だけ。


黒い服の男が立っていた。


ノイズだった。


アルトは目を逸らした。


死んだ男を、もう一度見たくなかった。


しかし、リナは見ていた。


「アルト」


彼女が小さく言った。


「今度は、私が見つける」


その言葉の直後。


ノイズの姿が、笑った。


そして消えた。

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