第36話「沈黙の終わり」
「被験体アルト。次の段階へ進め」
声が消えた。
アルトは胸を押さえたまま、しばらく動かなかった。
「……今の声、聞こえた?」
リナが尋ねる。
「聞こえた」
「私にも聞こえたわ。頭の中に直接……」
セナが患者たちを確認している。
「全員、生きてる。心拍も戻った。でも、全員が同じタイミングで目を覚ました」
「どういうことだ?」
ゲンダが尋ねる。
アルトは答えなかった。
自分の心臓に意識を集中する。
ドクン。
ドクン。
自分の意思とは関係なく、心臓が一定のリズムを刻んでいる。
「キュイ……」
小さく波を放つ。
その瞬間、アルトの右手が勝手に動いた。
指が開く。
閉じる。
もう一度、開く。
「アルト?」
リナが手をつかもうとした。
「触るな!」
アルトが叫んだ。
だが、遅かった。
リナの手がアルトの手に触れた瞬間、彼女の腕が跳ね上がった。
まるで糸で引っ張られたように。
「きゃっ!」
アルトは飛び退いた。
「今のは……僕がやったんじゃない」
「分かってる」
リナは自分の腕を見つめた。
「あなたの波が、私に伝わった?」
「違う。僕の意思が伝わったんじゃない。僕の身体の動きが、君の身体に再現された」
ノイズが口を開いた。
「つまり、あいつはお前の動きを見ているだけじゃない」
全員がノイズを見る。
「お前の動きを、周囲に再現させている」
「そんなことが……」
「できるかどうかは、今さら問題じゃないだろう」
ノイズは窓の外を見た。
「次は何をさせられる?」
その瞬間だった。
アルトの右手が、再び動いた。
今度は、自分の首に向かって伸びた。
「アルト!」
リナが腕をつかむ。
だが、彼女の腕も同じ方向へ動き始めた。
「離して!」
セナがリナを引き剥がす。
すると今度は、セナの右手が動いた。
自分の首へ。
「くっ……!」
ゲンダがセナの腕を押さえた。
しかし、ゲンダの身体も動き始める。
一人。
また一人。
アルトの周囲にいた人間が、同じ動作を繰り返し始めた。
「全員、離れろ!」
ノイズが叫んだ。
「アルトから離れろ!」
「距離を取ればいいのか?」
ゲンダが歯を食いしばる。
「分からない! でも、近くにいるほど影響が強い!」
アルトは自分の腕を押さえ込んだ。
「僕の動きが、波として周囲に伝わっている。距離が離れれば弱くなるはずだ」
「なら、あなたが動かなければいい!」
リナが叫ぶ。
「動かなくても、心臓は動いてる」
「だったら心臓を……」
「止めるわけにはいかない!」
セナが遮った。
「そんなことをしたら、あなたが死ぬ!」
アルトは歯を食いしばった。
「僕の身体の動きを、誰かが先回りしている。僕が動こうとする前に、周囲が反応しているんだ」
「先回り?」
「観測されているんじゃない。予測されている」
ノイズが笑った。
「面白いな」
「何が?」
「お前は今まで、波を観測して未来を読んできた。だが、今度は相手がお前を読んでいる」
「……」
「しかも、お前が何かをする前に、周りの人間を動かせる」
そのとき、アルトの身体が前へ倒れた。
リナが叫ぶ。
「アルト!」
彼の足が勝手に動く。
一歩。
二歩。
窓へ向かって歩き始めた。
「止めろ!」
ゲンダが背後から抱きつく。
だが、ゲンダの腕がアルトを押さえたまま、ゆっくりと窓の方へ動き始めた。
「くそっ! なんだこいつは!」
アルトは床を見た。
自分の足元。
床板。
建物の梁。
地面。
波はあらゆる物質を伝わる。
そして、今の波は人間の身体だけを選んで伝わっている。
「人間だけじゃない……」
「何?」
リナが尋ねる。
「この波、建物にも伝わってる!」
その瞬間、建物全体が揺れた。
壁に亀裂が走る。
天井から粉塵が落ちる。
「外へ出ろ!」
ゲンダが叫んだ。
街は壊れ始めていた。
建物の窓が一斉に割れる。
水道管が破裂する。
街灯が倒れる。
しかし、奇妙なことに、人々は逃げない。
全員が同じ方向を向いて立っている。
その視線の先には、アルトがいた。
「何が目的なんだ……」
アルトが呟く。
そのとき、街の人々が一斉に口を開いた。
『動かないでください』
アルトの声だった。
リナが振り返る。
「今の、あなたの声?」
「違う!」
『動かないでください』
何百人もの人間が、同じ声で繰り返す。
『動かないでください』
『動かないでください』
アルトは気づいた。
これは命令ではない。
警告だ。
「動いたら、何が起きる?」
彼が呟いた瞬間。
街の人々が一斉に右手を上げた。
その手のひらが、アルトに向けられる。
そして、アルトの右手も上がった。
「やめろ……!」
自分の身体を押さえ込む。
だが、手は止まらない。
その手のひらから、波が放たれた。
街の建物が、内側から爆ぜた。
「アルト!!」
リナが叫ぶ。
アルトは膝をついた。
「僕の波が……」
自分の意思とは無関係に、波が広がっていく。
「止められない……!」
「アルト!」
ノイズが走った。
「お前、まだ自分で考えられるか!」
「何とか……!」
「なら聞け!」
ノイズはアルトの正面に立った。
「お前の波を止めるな!」
「何を言ってる!」
「止めようとするから、相手に動きを読まれるんだ!」
「意味が分からない!」
「お前は波を操る。波を止めることも、打ち消すこともできる。だが、相手はお前の次の動きを予測している!」
ノイズは自分の胸を叩いた。
「なら、予測できない動きをしろ!」
「どうやって!」
「知らん!」
ノイズは笑った。
「お前は天才なんだろう!」
アルトは目を見開いた。
次の瞬間、彼の身体が大きく跳ねた。
波が暴走する。
ノイズがアルトに飛びついた。
「ノイズ!」
「黙ってろ!」
ノイズはアルトの胸に手を当てた。
何も起きない。
彼の能力は、もう失われている。
音を消すことも、波を遮断することもできない。
それでも彼は、アルトの胸に手を当て続けた。
「……くそ」
ノイズが呟く。
「何もできないな、俺は」
アルトの身体が震える。
ノイズの腕にも、同じ震えが伝わっていく。
骨が軋む。
呼吸が乱れる。
「離れろ!」
アルトが叫んだ。
「離れたら、お前が街を壊すだろ」
「僕が何とかする!」
「お前はいつもそうだな」
ノイズは苦笑した。
「何でも自分で何とかしようとする」
「今はそんな話をしてる場合じゃない!」
「そうだな」
ノイズはアルトの目を見た。
「だから、俺が考える」
彼はアルトの胸から手を離した。
そして、自分の耳を塞いだ。
「ノイズ?」
「お前の波は、俺の身体にも届いている」
「だから離れろと言ってる!」
「違う」
ノイズは目を閉じた。
「お前の波が届いているなら、俺の身体も、お前の波を返している」
アルトは息を呑んだ。
「反射……?」
「そうだ。お前が俺に波を送る。俺の身体がそれを返す。その返った波を、もう一度お前が受け取る」
「それがどうした!」
「お前の波は、俺を通して戻ってくる。なら、その戻り方を変えればいい」
ノイズは笑った。
「俺は音を消す能力を持っていた。音が存在しない場所を作る能力だと思っていた」
「……」
「でも、違ったのかもしれないな」
彼はアルトの胸に、もう一度手を当てた。
「俺は、音が届かない場所を作っていたんじゃない」
ノイズの指が震える。
「音が届くはずの場所に、届かないという結果を作っていた」
アルトの目が見開かれた。
「関係を……」
「そうだ。お前が言っていた能力の話だ」
ノイズは笑った。
「俺の能力が消えたんじゃない。俺が能力を使うための関係を、失ったんだ」
「ノイズ、やめろ!」
「お前なら分かるだろ」
彼の身体が激しく震え始めた。
「俺の身体を、お前の波の終点にしろ」
「そんなことをしたら!」
「いいからやれ!」
アルトは理解した。
ノイズは自分の身体を、波の終点にしようとしている。
街へ広がっている波。
アルトの身体から発せられた波。
それが人々の身体を動かし、さらに周囲へ広がっている。
その伝播の最後に、ノイズ自身を置く。
彼の身体を通して、波の伝わり方を変える。
しかし、ただ反射させるだけでは足りない。
波の伝播を成立させている関係そのものを、ノイズの身体で終わらせる必要がある。
「無理だ……」
アルトは呟いた。
「何が?」
「君の身体が持たない」
「知るか」
「ノイズ!」
「お前が決めろ」
ノイズは目を閉じた。
「俺はもう、何もできないと思っていた」
彼の口から血が流れる。
「でも、最後に一つくらい……」
アルトは両手を広げた。
「キュイイイイイイイイイイッ!!」
波が変わった。
街を覆っていた波が、一本の流れに集約される。
その終点に、ノイズがいる。
彼の身体が大きく反る。
骨が軋む音がした。
「ノイズ!!」
リナが駆け寄ろうとする。
「来るな!」
ノイズが叫んだ。
「お前たちは下がれ!」
アルトは波の関係を切り替えた。
ノイズの身体を通過する波。
その伝播を、ここで終わらせる。
一瞬。
街のすべてが静止した。
窓ガラスの破片が空中に浮かぶ。
崩れかけた壁が止まる。
人々の手が止まる。
そして。
ドクン。
アルトの心臓が鳴った。
次の瞬間、街に広がっていた波が消えた。
人々が膝をつく。
建物の揺れが止まる。
空中に浮いていた破片が、地面に落ちた。
すべてが終わった。
ノイズは、その場に倒れていた。
「ノイズ!」
アルトが駆け寄る。
彼の胸に手を当てる。
心臓が動いていない。
「待ってろ……」
波を送る。
心臓を動かす。
血液を流す。
神経を刺激する。
何でもできる。
できるはずだ。
「キュイイイイイッ!」
ノイズの身体が跳ねた。
しかし、心臓は動かない。
「もう一度!」
アルトは波を重ねた。
筋肉が収縮する。
血管が広がる。
神経が反応する。
だが、戻らない。
「どうしてだ……」
セナが駆け寄ってきた。
「どいて!」
彼女はノイズの胸に手を当てる。
呼吸を確認する。
脈を探す。
そして、首を横に振った。
「……もう、無理よ」
「嘘だ」
「アルト」
「僕ならできる!」
「もう、心臓だけの問題じゃない」
セナはノイズの身体を見つめた。
「身体が壊れている。あなたが波を送っても、戻すべきものが残っていない」
「そんなはずはない!」
「アルト!」
セナの声が震えた。
「お願いだから、もうやめて」
アルトは手を止めた。
ノイズの顔を見る。
いつもの無表情ではなかった。
ほんの少しだけ、笑っているように見えた。
「……ノイズ」
返事はない。
リナが口元を押さえた。
ゲンダは帽子を脱いだ。
カイは何も言わず、地面を見つめていた。
セナが静かに告げた。
「死亡を確認したわ」
しばらく、誰も動かなかった。
やがて、アルトが立ち上がった。
「僕のせいだ」
リナが顔を上げる。
「違う」
「僕がこの世界に来たから」
「違う!」
「僕が境界を閉じたから。僕が波を送ったから。僕が……」
「ノイズが決めたことよ!」
リナが叫んだ。
「彼は自分で選んだの!」
「だから何だ」
アルトの声は冷たかった。
「自分で選んだなら、死んでもいいのか?」
リナは言葉を失った。
アルトはノイズの身体を見下ろした。
「僕には、波が分かる。どんなものでも観測できる。どんな関係でも変えられると思っていた」
拳を握る。
「なのに、目の前の一人を救えなかった」
そのとき。
ノイズの胸元から、小さな音がした。
カチ。
全員が振り返る。
彼の服の内側に、小さな金属片が縫い込まれていた。
リナが取り出す。
「これ……」
金属片には、細い文字が刻まれていた。
『観測対象:アルト』
『補助観測対象:ノイズ』
『役割:遮断』
リナの顔が強張る。
「補助観測対象……?」
アルトは金属片を受け取った。
その裏側に、さらに文字があった。
『遮断機能、終了』
『次の観測対象を選定します』
そして、最後の一行。
『観測対象:リナ』
リナの身体が固まった。
アルトは彼女を見た。
「リナ、動くな」
その瞬間。
リナの右手が、ゆっくりと持ち上がった。
彼女の意思とは関係なく。
指先が、自分の胸へ向かっていく。
「……アルト」
リナの声が震えた。
「私、何もしてない」
アルトは彼女の手をつかんだ。
「分かってる」
「私、何もしてないのに……」
「分かってる!」
アルトは金属片を握り潰した。
だが、リナの手は止まらない。
ノイズは死んだ。
それでも、観測は終わっていなかった。
むしろ。
彼の死によって、次の段階が始まっていた。
アルトはリナの手を押さえながら、空を睨んだ。
「お前……」
初めて、アルトは誰かに向かって怒りを覚えた。
「次は、僕が観測する」
その言葉に応えるように、リナの胸が一度だけ鳴った。
ドクン。
そして、彼女の口から、アルト自身の声が漏れた。
『観測対象の変更を確認』
『実験を継続する』




