第35話「一拍遅れて死ぬ」
最初に異変に気づいたのは、セナだった。
「全員、ベッドから離れて!」
診療所に怒声が響いた。
「どうしたんですか?」
看護師が振り返る。
セナは患者の手首をつかんでいた。
脈拍を測っている。
「おかしい……」
隣の患者を調べる。
その隣も。
さらに隣も。
全員、同じ脈拍だった。
速さだけではない。
鼓動のタイミングまで、完全に一致している。
「時計を見て!」
壁の時計が午前九時を指した。
その瞬間。
診療所の全員の心臓が、一斉に跳ねた。
ドクン。
セナの手が止まる。
「……まずい」
「アルト!」
リナが駆け込んできた。
「診療所で異常が起きてる!」
「聞いてる」
アルトは窓の外を見ていた。
道路を歩く人々。
荷車を引く馬。
工場の煙突から上がる煙。
すべてが、同じ間隔で動いていた。
人々の歩幅がそろう。
馬の足がそろう。
煙まで、一定の周期で膨らんでは縮む。
「街全体が……」
リナが言いかけた。
「同じリズムで動いてる」
アルトが答えた。
「キュイイイイイッ!」
波を広げる。
人間の身体を観測する。
心臓、肺、血管、筋肉。
そして、見つけた。
すべての身体に、同じ波が走っている。
心臓が動くより先に、波が届く。
「心臓が原因じゃない」
「じゃあ何なの?」
「心臓が、何かに動かされている」
その瞬間、街の鐘が鳴った。
ゴーン。
人々が一斉に立ち止まる。
ゴーン。
全員が右を向く。
ゴーン。
全員が、アルトのいる建物を見上げた。
リナの顔から血の気が引いた。
「……私たちを見てる?」
「違う」
アルトは窓から身を乗り出した。
「僕を見ている」
「アルト! 来るぞ!」
ノイズが階段を駆け上がってきた。
「何が?」
「街の人間が、全員こっちに向かっている!」
窓の外。
数百人の人々が、同じ速度で歩いてくる。
老人も、子供も、工場の作業員も。
誰も走っていない。
誰も叫んでいない。
ただ、同じ歩幅で進んでいる。
「止められる?」
リナが尋ねた。
「身体の動きを操られているなら、波を切れば……」
アルトが手を伸ばす。
だが、途中で止めた。
「いや、駄目だ」
「どうして?」
「一人ずつ違う波じゃない。全員が同じ波につながっている。途中で切れば、身体に何が起きるか分からない」
ノイズが窓の外を見た。
「俺の能力はもうない。音を消すこともできない」
「分かってる」
「だが、一つ分かったことがある」
ノイズはアルトを見た。
「こいつら、俺たちを襲いに来てるんじゃない」
「どういうこと?」
「全員、同じ方向に歩いている。俺たちを見ているんじゃない。お前のところに集まっている」
アルトは窓の外を見た。
先頭の男が、ゆっくりと口を開いた。
「アルト」
その声は、男のものではなかった。
「アルト」
隣の女も言う。
「アルト」
子供も。
老人も。
何百人もの声が重なった。
「アルト」
リナが後ずさる。
「何なの、これ……」
アルトは一歩前へ出た。
「僕に何の用?」
人々が一斉に立ち止まった。
そして、全員が同じ言葉を発した。
「返して」
「何を?」
「返して」
「誰に?」
人々の口が閉じる。
次の瞬間、全員が胸を押さえた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
鼓動が速くなる。
セナが診療所から飛び出してきた。
「アルト! 全員の脈が上がってる! このままじゃ心臓がもたない!」
「原因は分かる?」
「分からない! でも、心臓が自分の意思で動いていない!」
アルトは人々に向かって手を伸ばした。
「キュイイイイイイイッ!!」
波を重ねる。
心臓の動きを補正する。
しかし、波を打ち消そうとした瞬間、全員の鼓動がさらに乱れた。
「くっ……!」
アルトは波を止めた。
「何をしたの!?」
リナが叫ぶ。
「僕の波に反応してる!」
「じゃあ、どうするの!?」
アルトは答えられなかった。
彼の波が、全員の心臓に届いている。
いや。
正確には逆だった。
全員の心臓が、アルトの波に反応している。
「まさか……」
アルトは自分の胸に手を当てた。
ドクン。
自分の鼓動。
そして、その直後に街の鼓動。
ほんのわずかに遅れて、何百もの心臓が動いていた。
「僕が……基準になっている?」
「アルト!」
ゲンダが走ってきた。
手には、金属製の箱を抱えている。
「これを見ろ!」
「何?」
「工場の地下から出てきた。あの境界装置の残骸だ!」
箱の中には、黒い金属片が一つ入っていた。
アルトは手を伸ばした。
触れた瞬間、波が返ってくる。
「これは……」
リナが尋ねる。
「何か分かった?」
アルトは金属片を見つめた。
「この金属片は、僕の波を記録している」
「記録?」
「境界を閉じたとき、僕が街全体に送った波だ」
ノイズが顔をしかめた。
「お前が最後にやったことが原因なのか?」
「分からない。でも、僕の波が街に残っている」
セナが叫んだ。
「そんなことより、患者を何とかして! もう限界よ!」
そのときだった。
街の人々が、再び口を開いた。
「返して」
「返して」
「返して」
今度は、全員が自分の胸を叩き始めた。
ドン。
ドン。
ドン。
その音が、アルトの心臓と重なる。
彼は理解した。
人々はアルトに何かを返せと言っているのではない。
アルトの波が、彼らの身体に残っている。
それを返そうとしている。
「僕の波を……取り除きたいのか」
アルトは金属片を握った。
「でも、どうやって?」
リナが金属片を見た。
「これが波を記録しているなら、逆に使えるんじゃない?」
「どういうこと?」
「あなたが街に送った波を、ここに再現するのよ!」
アルトは金属片を見つめた。
「同じ波を送れば、今ある波と重なって……」
「打ち消せるかもしれない!」
「いや」
アルトは首を横に振った。
「同じ波を重ねたら、強め合う」
「じゃあ逆位相!」
「そう。でも、僕が送った波と、今の波は同じじゃない。街の中で変化している」
リナは歯を食いしばった。
「なら、今の波を測って!」
「街全体の波を?」
「そうよ!」
アルトは街を見渡した。
何百人もの心臓。
それぞれ違う大きさ、違う形、違う状態。
それらが一つの波につながっている。
「できるか……」
「あなたならできる!」
「できるかどうかじゃない」
アルトは両手を広げた。
「やるしかない」
「全員、建物から離れて!」
リナが叫んだ。
ゲンダは工場の警報を鳴らし、街の人々を広場へ誘導する。
ノイズは人々の間を走り、倒れた者を抱えて運ぶ。
カイは能力を失った手で、崩れかけた壁を支えていた。
セナは患者の胸に手を当て、脈を確認する。
「アルト! あと一分も持たない!」
アルトは目を閉じた。
街のすべてを観測する。
心臓の鼓動。
血管を流れる血液。
肺の動き。
筋肉の収縮。
それぞれが微妙に異なる。
だが、その奥に共通する波がある。
アルトが最後に送った波。
その残響。
「見つけた」
彼は金属片を地面に置いた。
「リナ! これを使う!」
「分かった!」
「ゲンダさん! この金属片を街の地下配管につないで!」
「任せろ!」
「ノイズ! 人々をこの範囲から出して!」
「分かった!」
「セナ! 患者の状態を見ていて!」
「言われなくても!」
アルトは金属片に手を置いた。
「キュイイイイイイイイイイッ!!」
街に波が広がった。
しかし、今度は打ち消さない。
アルトは自分の波を、街の人々の身体に残った波へ合わせた。
一人ずつ。
一つずつ。
位相を調整する。
人々の鼓動が揃い始める。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
「もっと!」
リナが叫ぶ。
「まだ残ってる!」
アルトは歯を食いしばった。
街全体の波を、一つの波として捉える。
そして、最後の一瞬。
逆位相の波を放った。
ドクン。
……。
街から、鼓動が消えた。
人々が一斉に倒れた。
「アルト!!」
セナが駆け出す。
「全員の心臓が止まった!」
アルトは動けなかった。
「そんな……」
リナが叫ぶ。
「何をしたのよ!!」
アルトは金属片を見た。
その表面に、文字が浮かんでいた。
『同期解除完了』
そして、その下にもう一行。
『観測対象:アルト』
『接続完了』
アルトの胸が、ドクンと鳴った。
街の人々は動かない。
セナが必死に蘇生を試みている。
そのとき、倒れていた人々の胸が、同時に一度だけ跳ねた。
ドクン。
全員が目を開けた。
そして、アルトを見た。
今度は、声が一つだけだった。
「ありがとう」
人々の口は動いていない。
声は、アルトの胸の中から聞こえた。
「やっと、つながった」
アルトは後ずさった。
金属片が砕け散る。
リナが駆け寄る。
「アルト! 何が起きたの!?」
アルトは自分の胸を押さえた。
心臓が動いている。
その鼓動に、何かが重なっている。
そして、彼は気づいた。
街の人々の心臓は、もうアルトに合わせて動いていない。
アルトの心臓が、街の人々に合わせて動いている。
「……違う」
アルトは呟いた。
「僕が、観測されている」
空を見上げる。
何もない。
しかし、確かにそこに何かがある。
それは世界の外側から来たものではなかった。
ずっと、こちら側にいた。
アルトがこの世界に来る前から。
彼が魔王になったときも。
神々と戦ったときも。
神界の管理機構を破壊したときも。
ずっと。
その存在は、アルトを見ていた。
そして今、初めて声を発した。
『観測を開始する』
アルトの心臓が、もう一度鳴った。
ドクン。
『被験体アルト。次の段階へ進め』
その声を聞いた瞬間、アルトは初めて恐怖した。
自分が、何者かに見られていることではない。
自分が、最初から何者かの実験の中にいた可能性に。




