第34話「最後の波」
「アルト! 空を見て!」
リナの声と同時に、街の上空が裏返った。
空に街が映っている。
建物も道路も、人々の姿も。
ただし、すべてが左右逆だった。
そして、その反転した街から、無数の人間が落ちてきた。
「うわああああっ!」
人々が悲鳴を上げる。
アルトは両手を広げた。
「キュイイイイイッ!」
落下する人々の周囲に波を集中させる。
空気の圧力を変え、落下速度を抑える。
しかし、数が多すぎた。
「リナ! 何人いる!?」
「数えてる場合じゃないわよ!」
「そうだね!」
アルトは歯を食いしばった。
そのとき、地面から声がした。
「アルト!」
ノイズだった。
黒い服の男が、路地から飛び出してくる。
「こっちだ!」
「ノイズ!?」
「話は後だ。お前の波が必要なんだ!」
さらに反対側から、カイが現れた。
「反射境界を使えば、落下する人間を受け止められる。だが、数が多い。手伝え」
「何で君たちが?」
「俺たちも巻き込まれたんだよ!」
カイが叫ぶ。
「境界が開いた瞬間、能力が暴走した!」
ノイズが舌打ちした。
「管理局の連中が、街中に仕掛けていた装置を全部起動したらしい!」
リナが振り返る。
「装置はどこ!?」
「地下だ!」
「案内して!」
「お前、正気か!?」
「正気よ! このままじゃ街が潰れる!」
リナは走り出した。
アルトは一瞬だけ空を見た。
反転した街。
そこから落ちてくる人々。
そして、その奥にある黒い線。
あの線は、もう一本ではなかった。
無数に枝分かれし、空全体に広がっている。
「アルト!」
リナが叫ぶ。
「行こう!」
「うん!」
地下施設。
管理局の装置は、巨大な円形の部屋に並んでいた。
中央には、黒い柱が立っている。
その周囲を、無数の金属線が取り囲んでいた。
ゲンダが装置の前で叫んだ。
「こいつだ! 街中の配管と地下構造に接続されている!」
「ゲンダさん!」
「この柱が振動を送っている! だが、俺の知っている機械じゃねえ!」
リナは装置に駆け寄った。
「これが境界接続器……」
「止められる?」
アルトが尋ねる。
「電源を落とすだけならできる。でも、今は無理!」
「どうして?」
「装置が電気で動いていない!」
リナは金属線を指差した。
「街全体が回路になっているのよ!」
「回路?」
「普通の機械なら、電源を切れば止まる。でもこれは違う。建物、道路、配管、人間の能力まで使って、境界を維持している!」
そのとき、天井が揺れた。
ゴォォォォン!
ノイズが顔をしかめる。
「音が増えている!」
「音だけじゃない」
アルトは床に手をついた。
「街全体が、同じ周期で揺れている」
カイが反射境界を展開した。
「俺が振動を反射する。お前はその間に装置を止めろ」
「無理だ」
アルトは答えた。
「この振動は、街全体から来ている。反射しても、別の場所から戻ってくる」
「じゃあどうする!?」
「街全体の波を、別の場所へ逃がす」
「どこへ?」
アルトは黒い柱を見た。
「境界の向こう側」
リナが振り返る。
「待って。向こう側には何もないんじゃないの?」
「それを確かめる」
アルトは柱に手を触れた。
「キュイイイイイッ!」
波を送る。
しかし、返ってこない。
もう一度。
やはり返ってこない。
「……」
アルトは眉をひそめた。
そのとき、装置の奥から声がした。
『やっと来たな』
あの声だった。
神界の外側で聞いた声。
『アルト』
「お前は何者だ」
『お前が探していたものだ』
「世界の外側にいる存在か」
『そうだ』
「なら、なぜこの世界に干渉する?」
『干渉しているのは、お前たちだ』
アルトの目が細くなる。
『この世界の人間たちは、境界を開こうとした。お前は、世界と世界の関係を切り、そしてつなごうとした』
「僕が来る前から、この世界には境界異常があった」
『そうだ』
「なら、原因は僕じゃない」
『原因ではない。最後の条件だ』
「どういう意味だ?」
声は答えなかった。
代わりに、黒い柱が光った。
その表面に、文字が浮かび上がる。
リナが読み上げた。
「境界接続対象……アルト?」
「僕?」
「違う。もっと下にある!」
リナは目を凝らした。
「接続先……」
彼女の声が止まった。
「……この世界?」
アルトは柱を見つめた。
「どういうことだ」
リナは装置の構造を調べる。
「これ、向こう側とつなぐ装置じゃない」
「何?」
「この世界を、向こう側に接続する装置よ!」
その瞬間、アルトは理解した。
「そうか……」
『気づいたか』
「境界の向こうに何かがいるんじゃない」
アルトは空を見上げた。
「この世界が、向こう側に見つけられようとしている」
『正しい』
リナが叫ぶ。
「何なのよ、それ!」
アルトは答えた。
「世界は、誰かに観測されることで、別の世界と関係を持つ。こいつらは、その関係を無理やり作ろうとしている」
「じゃあ、あの声は?」
「向こう側からの返事じゃない」
アルトは黒い柱を見た。
「この世界が、向こう側に自分を知らせるために作った声だ」
『お前は、よく理解している』
「黙れ」
アルトは柱を握った。
「お前は、僕が探していた存在じゃない」
『違う』
「僕が見つけたかったのは、世界の外側に何があるかということだ。だが、お前はただ、こちら側に自分を認識させようとしている」
『それが世界の本質だ』
「違う」
アルトは言い切った。
「関係は、片方が無理やり押しつけるものじゃない」
そのとき、黒い柱が激しく振動した。
床が割れる。
天井が崩れ始める。
リナが叫ぶ。
「アルト! 装置が限界よ!」
『境界を閉じれば、この世界の異能は失われる』
その言葉に、ノイズが反応した。
「何だと?」
『異能は境界の揺らぎから生まれた。境界が閉じれば、お前たちの力も消える』
カイが笑った。
「なるほどな。俺たちの力を人質にするわけか」
『選べ。世界を開くか、力を失うか』
アルトは周囲を見た。
ノイズ。
カイ。
リナ。
ゲンダ。
誰も逃げなかった。
「リナ」
「何?」
「境界を閉じるには、何が必要?」
「装置の接続を切るだけじゃ駄目。街全体に広がった関係を切らないと!」
「街全体か」
「そうよ! でも、どこか一か所を切っても、別の場所に流れるだけ!」
アルトは頷いた。
「なら、全部を同時に切る」
リナは目を見開いた。
「そんなこと、できるの?」
「僕一人では無理だ」
アルトはノイズを見た。
「音を消せるんだよね」
「そうだ」
「街全体の振動を消すことは?」
「できない。俺の領域は狭い」
「それでいい」
次にカイを見る。
「波を反射できるんだよね」
「そうだ」
「街の地下にある金属線の反射を制御できる?」
「範囲次第だが、やってみる価値はある」
アルトはゲンダを見た。
「地下の配管と金属線の配置を知っている?」
「この街の地下なら、俺が一番詳しい」
「リナ。装置の制御は任せる」
「分かった」
アルトは全員を見回した。
「一度だけ、街全体を使う」
地上。
ノイズが両手を広げた。
「俺の領域を広げる。だが、長くは持たない!」
彼の周囲から音が消えていく。
道路の音。
建物の軋み。
人々の悲鳴。
すべてが消えた。
街の一角が、完全な静寂に包まれる。
その静寂が、少しずつ広がっていった。
「カイ!」
「分かっている!」
カイが手を振る。
透明な反射境界が、道路の下に広がった。
地下の金属線を伝う波が、次々と反射する。
ゲンダは地図を広げた。
「そこの線は北の工場につながっている! そっちは古い水道管だ! 全部、地下の幹線に集まっている!」
リナは装置の制御盤に手を置いた。
「アルト! 今なら街全体の接続が見える!」
地下。
アルトは目を閉じた。
街全体を観測する。
建物。
道路。
水道管。
電線。
人間。
すべてが、境界とつながっていた。
そして、その中心にある黒い柱。
アルトは理解した。
これは一本の線ではない。
無数の関係が網のように張り巡らされている。
どれか一つを切れば、残りが支える。
どれか一つを止めれば、別の場所が動く。
だから、今までの方法では止められなかった。
「アルト! あと十秒!」
リナが叫ぶ。
「分かった!」
アルトは両手を広げた。
「キュイイイイイイイイイイッ!!」
波が街全体に広がる。
ノイズの静寂が、余計な振動を消す。
カイの反射境界が、波の通り道を制御する。
ゲンダの知識が、地下構造の正確な位置を示す。
リナが装置の接続を切り替える。
そして、アルトは街全体に張り巡らされた関係を、一つずつ切っていった。
一本。
十本。
百本。
千本。
境界との接続が消えていく。
空の反転した街が崩れ始めた。
落下していた人々が、元の世界へ戻る。
建物が地面に戻る。
道路の亀裂が止まる。
だが、最後の一本だけが残った。
黒い柱と、アルト自身をつなぐ線。
『お前が切れば、帰る道も失われる』
声がした。
アルトは動きを止めた。
『お前は、ずっと世界の外側を探していた。ここで切れば、その先へ行くことはできない』
「そうか」
『お前は、何のためにここまで来た?』
アルトは目を閉じた。
魔王になった。
神々と戦った。
神界の管理機構を破壊した。
その先にあるものを知りたくて、一本の線を追った。
そして、この世界に来た。
自分の力で、世界の外側を知ろうとした。
だが、今。
目の前には、自分がここへ来るまでに出会った人間たちがいる。
「僕は、世界の外側を知りたかった」
『ならば、なぜ切る』
「知ることと、つなぐことは違う」
アルトは黒い柱に手を置いた。
「僕は、世界の外側を見つけるために、ここへ来た。だけど、世界を壊してまで知りたいわけじゃない」
『ならば、ここで終わりだ』
「うん」
アルトは笑った。
「ここで終わりにする」
最後の一本を切った。
世界が、静かになった。
朝。
街には、いつもの光が戻っていた。
壊れた建物は残っている。
道路の亀裂も残っている。
だが、空は空だった。
リナは地面に座り込んでいた。
「……終わった?」
アルトは頷いた。
「境界との接続は切れた」
ノイズが自分の手を見つめる。
「俺の能力が……消えた」
カイも手を握った。
「俺もだ」
二人は顔を見合わせた。
ゲンダが笑った。
「まあ、これで変な機械に振り回されることもなくなるな」
リナは空を見上げた。
「私たち、普通の人間に戻ったのね」
アルトは答えなかった。
彼自身の能力は残っていた。
この世界の境界から得た力ではない。
彼が元いた世界で手に入れた、波を操る力だ。
リナが立ち上がった。
「ねえ、アルト」
「何?」
「帰れるの?」
アルトは空を見上げた。
あの線はもう見えない。
「分からない」
「帰りたい?」
「……分からない」
リナは笑った。
「あなた、分からないことばっかりね」
「そうだね」
そのとき、アルトの足元で小さな波が生まれた。
音もない。
光もない。
ただ、空間の向こう側から、かすかな反応が返ってきた。
アルトは目を見開いた。
「……まだ、ある」
「何が?」
「世界の外側だ」
リナは彼の隣に立った。
「また調べるの?」
アルトはしばらく考えた。
そして、首を横に振った。
「今はいい」
彼は空を見上げた。
「僕は、もう追いかけない」
その夜。
街の外れ。
誰もいない丘の上に、アルトは一人で立っていた。
手をかざす。
小さな波を作る。
波は空へ向かって広がり、やがて消えた。
返事はない。
それでよかった。
アルトは振り返った。
遠くに街の灯りが見える。
リナがいる。
ゲンダがいる。
セナも、ノイズも、カイも。
彼らはもう異能者ではない。
ただの人間だ。
それでも、彼らは自分の力で街を守った。
アルトは小さく息を吐いた。
「……悪くない」
そのとき、背後から声がした。
「アルト!」
リナだった。
「何してるの?」
「波を作っていた」
「また何か見つけた?」
「いや」
アルトは手を下ろした。
「何も見つからなかった」
「そう」
リナは隣に立った。
「じゃあ、帰ろう」
「ああ」
二人は街へ向かって歩き出した。
世界の外側には、まだ何かがある。
それを知る日は、いつか来るかもしれない。
だが、今はもう、追いかけなくていい。
アルトは初めて、自分の意志で歩く方向を選んだ。
波は、静かに広がっていた。




