第33話「ここへ来た理由」
『見つけた』
声がした。
アルトの胸の奥で、街の鐘が鳴っている。
ゴーン。
ゴーン。
ゴーン。
「アルト、離れて!」
リナが叫んだ。
彼女の身体が浮き上がる。
いや、違う。
地面が遠ざかっている。
街全体が、ゆっくりと傾いていた。
建物が軋み、道路に亀裂が走る。
「何が起きてるの!?」
「街が動いているんじゃない」
アルトは空を見上げた。
「街と、街の外側の関係が変わっている」
空に一本の線が走った。
黒い線。
神界の外側で見た、あの線だった。
アルトは思わず息を呑んだ。
「……やっと見つけた」
「何を?」
「僕が、この世界に来た理由だ」
アルトはリナを見た。
「僕は、もともと別の世界にいた」
「知ってるわ」
「魔王を倒したあと、神々と戦った。神界の管理機構も止めた。そのあと、神界の外側に一本の線を見つけたんだ」
「線?」
「世界の外に伸びていた。何につながっているのか分からなかった。だから調べに行った」
アルトは空の線を指差した。
「その途中で、境界が崩れた。僕はそこから落ちて、この世界に来た」
リナの顔が強張った。
「じゃあ……あなたは、この世界に召喚されたんじゃない」
「うん。僕が勝手に向こうから来た」
「それなら、あの線は……」
「僕が追っていた線と、この世界で起きている境界異常は、つながっている」
空の線が広がった。
その向こうに、何かが見えた。
街並み。
建物。
人影。
だが、どれもこの世界のものではない。
アルトがかつていた世界だった。
「……あっちに帰れるの?」
リナの声が小さくなった。
アルトは答えなかった。
線の向こうから、声が届いた。
『アルト』
聞き覚えのある声。
神界の外側で聞いた、あの存在の声だった。
『お前は、境界を越えてきた』
「そうだ」
『ならば、戻ることもできる』
空の線が大きく開いた。
向こう側の景色が鮮明になる。
アルトが戦った神界。
破壊された管理施設。
そして、そのさらに向こう。
『ただし、境界を開けば、こちら側も向こう側も安定を失う』
リナが叫んだ。
「どういうこと!?」
『二つの世界をつなぐには、両方の世界を固定する必要がある』
アルトは理解した。
この街の異常。
時計塔の共鳴。
地下の装置。
街全体に響いた波。
すべては、境界を開くための準備だった。
「管理局がやっていたのは、境界を開くことか」
『人間たちは境界を制御しようとした。だが、制御できなかった。お前が来たことで、境界はさらに不安定になった』
「僕が原因なのか」
『原因の一つだ』
アルトは空を見た。
街の建物が次々と浮き上がる。
人々が逃げ惑う。
境界の向こう側から、こちら側へ何かが流れ込んでいる。
「アルト! 何とかして!」
リナが叫ぶ。
アルトは両手を広げた。
「キュイイイイイイイッ!!」
波が広がる。
街の建物を支える振動。
地面の弾性波。
空気の圧力変化。
すべてを観測する。
しかし、境界の向こう側には何もない。
波を送っても、返ってこない。
こちら側の物理法則が、向こう側に通じていない。
「くそっ……!」
アルトは歯を食いしばった。
「波が届かない!」
『当然だ。そこには、お前の知る世界がない』
声が響く。
『お前は、世界と世界の境界に立っている』
アルトは空を見た。
線。
二つの世界をつなぐ線。
いや、違う。
線は世界をつないでいるのではない。
世界と世界の間に、関係を作っている。
「……そうか」
アルトは呟いた。
「波を向こうへ送る必要はない」
彼は自分の胸に手を当てた。
「こっちと、向こうの関係を作ればいい」
『何をするつもりだ』
「僕は、あの線を追ってここに来た」
アルトは空を見上げた。
「帰るためじゃない。何につながっているのか知るために」
彼は両手を握った。
「だから、今度は僕がつなぐ」
アルトの身体から波が広がった。
それは音でも、光でも、地震でもなかった。
彼が作ろうとしているのは、二つの世界の間にある関係そのものだった。
境界の線が震えた。
一本の線が二本に分かれる。
二本が交差し、網目のように広がる。
空が裂けた。
「アルト!」
リナが手を伸ばす。
アルトは彼女の手をつかんだ。
「大丈夫」
「何が大丈夫なのよ!」
「まだ、何も分かってない」
「そんな顔で言わないで!」
アルトは少し笑った。
「でも、今は分かったことがある」
彼は空の線を見つめた。
「世界は、閉じているわけじゃない」
次の瞬間。
境界が、巨大な音を立てて崩れた。
いや、音ではない。
世界そのものが、ひとつの波になった。
アルトはその波をつかんだ。
そして、二つの世界の間にあった関係を、ひとつだけ残して、ほかを切り離した。
街が静止した。
浮き上がっていた建物が、ゆっくりと地面へ戻る。
空の裂け目が閉じていく。
境界の向こう側の景色が消える。
最後に、あの声が聞こえた。
『お前は、また選んだな』
「何を?」
『切ることではなく、残すことを』
アルトは答えなかった。
空には、もう何もなかった。
夜。
街の鐘は鳴らなくなっていた。
壊れた建物の前で、リナは座り込んでいた。
「……終わったの?」
「ひとまずね」
「帰れなくなった?」
アルトは空を見上げた。
「いや。帰る道はあると思う」
「じゃあ、帰るの?」
アルトはしばらく黙っていた。
「分からない」
リナは彼を見た。
「あなた、ずっと帰りたかったんじゃないの?」
「帰りたいと思っていたわけじゃない」
「じゃあ、何をしたかったの?」
アルトは、かつて見た一本の線を思い出した。
神界の外側。
世界の外側。
その先に何があるのか。
自分が何者なのか。
なぜ世界は存在するのか。
その答えを求めて、ここまで来た。
「知りたかったんだ」
「何を?」
「世界の外に、何があるのか」
リナは空を見た。
「分かった?」
「まだ」
アルトは立ち上がった。
「でも、少なくとも一つは分かった」
「何?」
「世界の外側を調べることと、世界を壊すことは違う」
リナは何も言わなかった。
アルトは歩き出す。
その背中に、リナが声をかけた。
「どこへ行くの?」
「街を見てくる」
「私も行く」
二人は歩き始めた。
街の向こうには、まだ修復されていない建物がある。
壊れた道路も、止まった機械もある。
境界異常は完全に消えたわけではない。
だが、少なくとも今夜、街は鳴っていなかった。
アルトは足を止めた。
地面に手を触れる。
微かな振動が返ってくる。
人々の足音。
水道管を流れる水。
遠くで動く機械。
街は、いつもの波を取り戻していた。
「ねえ、アルト」
「何?」
「あなたの世界にも、こんな街があった?」
「さあ。あまり覚えていない」
「そう」
リナは笑った。
「じゃあ、これから覚えていけばいいわ」
アルトは彼女を見た。
そして、もう一度、街を見た。
彼はこの世界に落ちてきた。
だが、ここに来た理由は、まだ終わっていない。
世界の外側には、まだ何かがある。
それでも今は。
アルトは歩き出した。
「行こう」
二人の足音が、夜の街に響いた。




