第32話「世界中の声が、俺を呼ぶ」
「アルト!」
リナの叫び声が聞こえた。
振り返る。
誰もいない。
「アルト、後ろ!」
今度は右から聞こえた。
振り向く。
やはり誰もいない。
「アルト! 上!」
頭上を見た。
何もない。
その瞬間、背後で爆発が起きた。
ドォンッ!!
熱風が頬を叩く。
アルトは地面を転がり、壁に背中を打ちつけた。
「ぐっ……!」
工場の屋根が崩れ、火の粉が舞い上がる。
少し離れた場所で、リナが倒れていた。
「リナ!」
駆け寄ろうとした。
「動くな」
耳元で声がした。
アルトは止まった。
声は、頭の中から聞こえた。
「一歩でも動けば、そこの女の首を折る」
アルトは周囲を探った。
人影はない。
「どこにいる?」
「そこだよ」
今度は足元から声がした。
「お前の足の下」
アルトは地面に手をついた。
波を送る。
工場の床。
配管。
壁。
崩れた屋根。
周囲をくまなく探る。
しかし、人間の振動が見つからない。
「どうした? 波使い」
声が笑った。
「探しても無駄だ。俺はそこにいるし、そこにはいない」
「……そういう能力か」
「少し違うな」
声が、アルトの右耳から聞こえた。
「お前は音がどこから来るかを探している」
左耳。
「だが、俺は音の場所を変えているんじゃない」
背後。
「音と、お前の関係を変えているんだ」
アルトは目を細めた。
「音源と聞き手の関係を……」
「そうだ。音がどこで鳴ったかなんて、俺には関係ない。お前がどこから聞いたと思うか。それを決めるのは俺だ」
男の声が、今度はリナの口から聞こえた。
「アルト、助けて……」
アルトはリナを見た。
彼女の口は動いていない。
「いい顔だ」
男が笑う。
「聞こえるだろう? お前の仲間の声が」
アルトは立ち上がった。
「キュイイイイイッ!」
全方位に波を放つ。
音波、弾性波。
空気と地面を伝わる振動を同時に観測する。
しかし、返ってくる情報が混ざる。
右から来た反射波が、左から来たように感じられる。
近くの反射が遠くに感じられる。
音の発生場所を探すという行為そのものが、成立しない。
「ははは! いいぞ! もっとやれ!」
声が響く。
「お前の能力は、波を観測することだろう? ならば、観測するたびに騙してやる!」
アルトは動かなかった。
「なるほど」
「何?」
「君は、僕が聞く音の位置を変えられる」
「そうだ」
「でも、音そのものを消せるわけじゃない」
男は答えなかった。
アルトは目を閉じた。
「なら、音を聞かなければいい」
「何を言っている?」
アルトは地面に手を置いた。
音を止める。
空気の振動を遮断する。
自分の耳に届く音を、すべて切り離した。
世界が静寂に沈んだ。
男の声も消えた。
アルトは地面を伝う波だけを観測する。
地面の振動なら、音の発生場所を偽装する能力に惑わされない。
……はずだった。
しかし、何も見つからない。
「……?」
男が笑っている。
その振動もない。
アルトの表情が変わった。
男は地面を歩いていない。
空気も振動させていない。
それなのに、声だけが聞こえていた。
いや。
声が聞こえていたのではない。
声を聞いたという結果だけが、アルトの中に残されていた。
「やっと気づいたか」
男の声が戻る。
「お前は波を探していた。だが、俺が操作しているのは波じゃない」
アルトは男のいる方向を見た。
「……聞こえたという事実か」
「正解だ」
男は姿を現した。
工場の向かい側。
崩れた建物の屋上に立っている。
「俺は音の発生源と聞き手の関係を操作する。音が実際にどこから来たかは重要じゃない。聞き手がどこから聞いたと認識するか。それだけだ」
「じゃあ、君自身の声は?」
「俺の声? そんなものは必要ない」
男が指を鳴らした。
パチン。
その音が、アルトの頭の中で鳴った。
「音源は俺じゃなくてもいい。金属片でも、石でも、誰かの声でもいい。俺はそれを、お前の耳元に結びつける」
「それで、さっきの爆発も?」
「爆発は本物だ。音の位置を誤認させて、避ける方向を間違えさせただけだ」
男は両手を広げた。
「人間は音を頼りに周囲を判断する。背後から声がすれば振り向く。右から物音がすれば右を見る。お前だって同じだ」
アルトは男を見つめた。
「君は、人間の耳を使って人間を操るんだね」
「そういうことだ」
男が笑った。
「そして、今からお前を殺す」
屋上の金属片が一斉に震えた。
キィィィィィン!
音が鳴った。
同時に、アルトの背後で何かが動いた。
アルトは振り返らなかった。
振り返れば、また騙される。
「どこを見ている?」
男が叫んだ。
「こっちだ!」
左から声。
右から金属音。
背後から足音。
頭上からリナの悲鳴。
無数の音がアルトを包囲する。
「アルト!」
リナの声がした。
今度は本物かもしれない。
だが、判断できない。
アルトは動かなかった。
「もう終わりだ」
男が言った。
その瞬間、アルトは地面に両手をついた。
「キュイイイイイイイッ!!」
音を作ったのではない。
地面を叩いたのでもない。
アルトは工場の床全体に、極めて短い弾性波を送り込んだ。
床のあらゆる場所が、同時にわずかに変形する。
その波は壁へ、柱へ、基礎へと伝わった。
そして、アルトはその反射を観測した。
一度ではない。
二度、三度。
反射した波が戻るたび、工場の構造が少しずつ浮かび上がる。
柱の位置。
壁の厚さ。
床下の空洞。
そして、屋上にある金属片。
アルトはそれらを一つずつ捉えていった。
「何をしている?」
男が叫んだ。
アルトは答えない。
彼は音を聞いていなかった。
音の位置を探してもいなかった。
音が伝わる前の、物体そのものの形を読んでいた。
男の能力は、聞き手と音の関係を操作する。
しかし、床の厚さも、柱の位置も、金属片の形も変えられない。
アルトの中に、工場の立体構造が描き出される。
その中に、一つだけ不自然なものがあった。
屋上の金属片。
いや、金属片ではない。
金属片を支える細いワイヤー。
それが、建物の外側へ伸びていた。
「見つけた」
アルトは手を握った。
「お前、そこにいるな」
男の顔から笑みが消えた。
「なぜ分かった?」
「音源を探す必要はなかった」
アルトはワイヤーに波を集中させた。
「お前の能力が音の位置を変えられても、音を発生させる物体はそこにある」
ワイヤーが震えた。
男が慌てて金属片を投げ捨てる。
しかし遅い。
アルトはワイヤーを伝う弾性波を反射させた。
金属片が一斉に鳴り響く。
キィィィィィン!!
その瞬間、アルトは別の波を重ねた。
金属片の振動が互いに打ち消し合う。
音が消えた。
男の能力が途切れた。
「しまっ……!」
男が屋上から飛び降りる。
着地。
逃走。
アルトは地面に手をついた。
男の足元に波を送る。
だが、男は地面に着く直前、空中で身体をひねった。
そのまま壁を蹴り、路地へ逃げ込む。
「逃がすか!」
アルトが追おうとしたとき、男の声が聞こえた。
「お前、面白いな」
今度は遠くから。
「だが、まだ知らないだろう?」
声が消える。
「この街には、俺と同じような人間がいる」
アルトは足を止めた。
「どういう意味だ?」
返事はない。
路地の先にも、人影はなかった。
「アルト!」
リナが駆け寄ってきた。
「大丈夫?」
「ああ」
「今の人、何者なの?」
「音の発生源と、聞き手の関係を操作する能力者」
「そんなことができるの?」
「できるんだろうね」
リナは崩れた工場を見回した。
「でも、どうして最後に見つけられたの?」
「音を追うのをやめたから」
「え?」
アルトは足元を指差した。
「音がどこから聞こえたかは、僕には分からなかった。でも、音を出す物体がどこにあるかは、別の方法で調べられる」
「地面に波を送ったの?」
「うん。建物の形を調べたんだ」
「でも、それって普通の観測とは違うよね?」
アルトは頷いた。
「そう。音を聞くんじゃなくて、物体の形を波で読む」
リナは少し考えた。
「ねえ。だったら、逆もできるんじゃない?」
「逆?」
「物体の形を読むんじゃなくて、物体の形を変えることも」
アルトはリナを見た。
「……できるかもしれない」
彼は崩れた工場を見上げた。
波は、物体の中を伝わる。
その波を観測すれば、物体の形や内部の状態を知ることができる。
ならば、逆に。
波を使って、物体の状態を変えることもできる。
すでにアルトはそれを何度もやってきた。
だが、今のリナの言葉は少し違った。
形を変える。
物体を壊すのではない。
物体の構造そのものを、波によって組み替える。
「面白いね」
アルトが呟いた。
そのとき。
遠くの街で、鐘が鳴った。
ゴーン。
一度。
二度。
三度。
リナが空を見上げた。
「時計塔?」
「違う」
アルトは首を横に振った。
鐘の音は、街のあらゆる方向から聞こえていた。
建物から。
道路から。
水道管から。
人々の身体から。
そして、アルト自身の胸の奥から。
ゴーン。
ゴーン。
ゴーン。
街全体が、一つの巨大な鐘になっていた。
アルトは自分の胸に手を当てた。
心臓の鼓動が、鐘の音に引きずられている。
「リナ。離れて」
「何が起きているの?」
「僕にも分からない」
アルトは波を観測した。
しかし、今度は音の発生源が見つからないのではない。
街のどこを調べても、同じ波が存在していた。
街の外にも。
地下にも。
空にも。
まるで、この世界そのものが鳴っているようだった。
そして、アルトの頭の中に声が響いた。
『見つけた』
それは、誰かの声ではなかった。
『ようやく、こちら側に来たな』
アルトは空を見上げた。
神界の外側で見た、あの一本の線。
その線が、今、目の前の世界に重なっていた。




