第27話「音のない男」
翌朝。
「アルト! 起きて!」
研究所の一室に、リナの声が響いた。
「……もう朝?」
「もう朝よ!」
「あと五分」
「昨日、今日から研究するって約束したでしょ!」
アルトは毛布を頭までかぶった。
「研究って、寝ることも大事だと思うよ」
「それは研究者の言い訳!」
リナは毛布を引っ張った。
「ほら、起きて!」
「分かったよ……」
アルトはゆっくりと身体を起こした。
この研究所には、使われていない小部屋がいくつかあった。
リナはその一室をアルトに使わせてくれていた。
寝具は簡素だったが、雨風をしのげる。
食事も出してくれる。
何より、誰かに命令されて働かされるわけではない。
アルトにとっては、それだけで十分にありがたかった。
「朝ご飯は?」
「もう食べたわよ」
「僕の分は?」
「机の上!」
アルトは机を見た。
パンが二つ。
卵料理が一皿。
温かいスープ。
「ありがとう」
「どういたしまして。食べたら地下室に来てね」
「地下室?」
「昨日言ったでしょ。秘密の研究室があるって」
「ああ、あれね」
リナはにやりと笑った。
「今日は、あなたの能力を本格的に調べるわよ!」
地下室は、地上の研究室よりもずっと広かった。
壁には金属板が張られ、天井からは複数の装置が吊り下げられている。
中央には大きな円形の台座。
その周囲に、いくつもの測定器が並んでいた。
「ここが私の実験室よ」
「すごいね」
「でしょ?」
リナは胸を張った。
「ここなら、多少大きな実験をしても大丈夫」
「多少?」
「……たぶん」
「たぶんなんだ」
リナは聞こえないふりをした。
「まずは簡単な実験から始めましょう。あの金属球を見て」
部屋の端に、拳ほどの大きさの金属球が置かれていた。
「これを動かしてみて」
「どうやって?」
「あなたの能力で」
アルトは金属球を見つめた。
「分かった」
手をかざす。
金属球に小さな振動を与える。
球が震え、少しずつ転がり始めた。
「おお……!」
リナが画面を確認する。
「振動の周波数を変えているの?」
「そうだよ」
「じゃあ、次は?」
彼女は金属球の前に、小さな板を置いた。
「この板を越えてみて」
アルトは波の向きを変えた。
金属球が持ち上がり、板を越える。
「できるんだ……」
「これくらいならね」
「じゃあ、これは?」
リナはさらに複雑な装置を起動した。
金属球の周囲に、いくつもの磁場が発生する。
「磁場の中でも動かせる?」
「できるよ」
アルトは少し考えた。
電磁波を使えば、磁場そのものに干渉することもできる。
だが、今回は金属球に直接波を伝えることにした。
球が動く。
磁場に逆らうように、ゆっくりと進んだ。
リナは画面を見つめた。
「……すごい」
「何か分かった?」
「あなたの能力、かなり広い範囲に作用するのね」
「そうだね」
「でも、何でもできるわけじゃない?」
「もちろん」
アルトは金属球を元の位置に戻した。
「波を使うには、何かしらの伝わるものが必要な場合もある。空気や水、金属、地面。電磁波なら真空でも伝わる。でも、対象の状態を正確に把握しないと、思ったような結果にならないこともある」
「なるほど……」
リナはメモを取った。
「じゃあ、これはどう?」
彼女は机の上から小さな鐘を取り出した。
「鳴らしてみて」
アルトが指を鳴らす。
チン、と澄んだ音が響いた。
「この音を、消せる?」
「できるよ」
アルトは鐘の振動を観測した。
鐘の金属が振動し、周囲の空気を揺らす。
その振動を逆位相の波で打ち消す。
音が小さくなる。
もう一度。
さらに小さくなる。
そして、最後にはほとんど聞こえなくなった。
「すごい……」
リナは拍手した。
「音を消すこともできるのね!」
「音波ならね」
「音波なら?」
アルトは頷いた。
「音は空気などの媒質を伝わる圧力変化だからね。空気の振動を打ち消せば、音を小さくできる」
「じゃあ、街中の騒音も消せる?」
「できると思うよ」
「それ、すごく便利じゃない!」
リナは興奮していた。
「工場の騒音、交通騒音、建設現場の音……全部解決できるかもしれない!」
「全部は難しいよ。音の発生源が多いと、場所によって打ち消し方が変わるから」
「それでも十分すごいわ!」
アルトは笑った。
こうして誰かと能力について話すのは、久しぶりだった。
神界では、能力を使うことは戦いだった。
だが、ここでは研究になる。
昼過ぎ。
リナとアルトは研究所の外に出た。
「少し買い物をするわ」
「何を買うの?」
「測定器の部品よ。昨日壊れたものを直さなきゃ」
二人は商店街へ向かった。
通りには人が多い。
露店が並び、食べ物の匂いが漂っている。
子供たちが走り回り、店員が客を呼び込んでいた。
アルトは足を止めた。
「賑やかだね」
「そうね。昼間はいつもこんな感じよ」
「いい街だ」
「そう?」
「うん」
リナは少し照れくさそうに笑った。
「まあ、悪い街じゃないわね」
そのときだった。
通りの向こうで、何かが落ちる音がした。
ガシャン!
続いて、悲鳴。
「危ない!」
大きな荷車が横倒しになっていた。
積んでいた金属製の部品が道路に散乱している。
荷車を引いていた男が、地面に倒れていた。
周囲の人々が駆け寄る。
「大丈夫か!」
「誰か医者を!」
「荷車が突然……!」
リナが走り出した。
「行きましょう!」
アルトも後を追った。
倒れていた男は、頭を押さえていた。
「くそ……急に馬が暴れたんだ……」
「馬は?」
「そこに……」
馬は少し離れた場所で立ち止まっていた。
しかし、様子がおかしい。
口を大きく開けている。
足を動かしている。
それなのに、鳴き声が聞こえない。
「……?」
アルトは周囲を見渡した。
街の音が、少しずつ消えていく。
人々の声。
足音。
馬の蹄。
荷車の軋む音。
すべてが薄れていく。
そして。
完全な静寂が訪れた。
リナが口を動かしている。
何かを叫んでいるようだ。
だが、声が聞こえない。
アルトは彼女の口元を見た。
「逃げて!」
そう言っている。
その瞬間。
背後から何かが飛んできた。
アルトは振り返る。
金属片だった。
鋭い破片が、顔のすぐ横を通り過ぎる。
アルトは手を上げた。
破片を止める。
空中で静止した金属片が、地面に落ちた。
その向こうに、一人の男が立っていた。
黒い服。
細い身体。
年齢は二十代後半ほど。
男は、静かにアルトを見つめている。
男の周囲だけ、世界から音が切り離されているようだった。
アルトは男の口元を見た。
男が何かを言っている。
だが、音は届かない。
「……なるほど」
アルトは小さく呟いた。
男の能力は、音を消している。
ただし、すべての波を消しているわけではない。
アルトは足元の石畳に波を送った。
地面を伝わる弾性波。
その反射を調べる。
男の位置。
身体の動き。
周囲の空気の状態。
すべてを把握する。
男が右手を上げた。
周囲の金属片が浮かび上がる。
そして、一斉にアルトへ向かって飛んできた。
「!」
アルトは手を振った。
金属片の動きを止める。
しかし、男は止まらない。
男が一歩踏み出す。
その瞬間、アルトの身体に衝撃が走った。
「ぐっ……!」
何かが腹部に当たった。
アルトは後ろへ飛ばされ、壁に背中を打ちつけた。
「……何だ?」
男は無言で近づいてくる。
アルトは男の足元を観測した。
地面に伝わる振動。
男が歩くたび、わずかな振動が発生している。
だが、その振動が途中で消えていた。
男の周囲には、音だけではなく、機械の振動まで届かない領域がある。
いや。
違う。
男は音を消しているだけではない。
音に関係する振動を、周囲から切り離している。
アルトは立ち上がった。
「君、音を消しているんだね」
男は答えない。
男の口が動く。
アルトはその唇を読む。
『そうだ』
「なるほど」
アルトは少し笑った。
「でも、僕の能力は音だけじゃないよ」
アルトは両手を広げた。
周囲の空気に、電磁波を放つ。
可視光。
赤外線。
そして、目には見えない電磁波。
男の周囲を探る。
だが、男は動じない。
アルトの視界が歪んだ。
「……!」
男の能力が、空気の振動だけでなく、アルトの観測そのものを妨害している。
アルトはすぐに別の方法へ切り替えた。
地面を伝わる弾性波。
それならどうだ。
波を送る。
返ってくる。
男の足元まで届く。
だが、男の周囲で反射が消えた。
「へえ……」
アルトは初めて、興味深そうな表情を浮かべた。
男は、ただ音を消しているのではない。
音を伝えるための振動を、周囲から切り離している。
だから、音波を使った探知も、通常の振動による攻撃も通じにくい。
男が再び手を上げた。
今度は、地面に散らばっていた金属片が一斉に浮かび上がる。
アルトは身構えた。
金属片が飛ぶ。
しかし、アルトは避けなかった。
目の前に薄い空気の層を作る。
複数の波を重ね、金属片の進路を変える。
だが、一つだけ。
金属片が防御をすり抜けた。
アルトの頬を切る。
血が流れた。
「……!」
男は初めて、笑った。
アルトは頬に触れた。
血が指につく。
「なるほど。音を消すだけじゃなくて、振動を伝えないことで、僕の波の観測を妨害しているんだね」
男は口を動かした。
『お前は何者だ』
「アルト」
『違う。何の能力者だ』
アルトは少し考えた。
「波の使い手だよ」
男は笑みを消した。
『なら、相性が悪かったな』
男の周囲で、再び静寂が広がる。
その瞬間。
アルトは地面に手をついた。
男の足元ではない。
男の周囲にある、音を伝える空気でもない。
さらに遠く。
通りの反対側にある建物の壁。
そこへ波を送る。
壁を伝わった波が、建物の基礎を通り、地面へ広がる。
男の背後から、複数の反射波が戻ってきた。
男の位置。
身体の形。
そして、男の周囲にある領域の境界。
アルトは目を細めた。
「見つけた」
男の表情が変わった。
アルトは指を鳴らした。
男の背後にある石壁が、わずかに振動する。
その振動は、男の能力の外側から回り込むように伝わった。
男の足元の石畳が揺れる。
男の身体が傾いた。
「!」
アルトは一気に距離を詰めた。
男の腕をつかむ。
そのまま、地面へ押さえつけた。
静寂が解けた。
街の音が一気に戻ってくる。
人々の悲鳴。
馬の鳴き声。
荷車の軋む音。
そして、リナの声。
「アルト!」
彼女が駆け寄ってくる。
「大丈夫!?」
「うん。少し頬を切っただけ」
「血が出てるじゃない!」
「大したことないよ」
リナは男を見た。
「この人は……?」
アルトは男の腕を離した。
男は地面に座り込んでいる。
「音を消す能力者だよ」
リナの顔が強張った。
「まさか……」
男は立ち上がった。
「……やはり、お前は普通の異能者ではないな」
今度は声が聞こえた。
男はアルトを見つめていた。
「俺の能力を受けて、あそこまで対応できる人間は初めてだ」
「君は何者?」
男は答えなかった。
代わりに、リナを見た。
「研究所の人間か」
「あなた、何者なの?」
「ノイズ」
男は短く答えた。
「それだけでいい」
「どうして私たちを襲ったの?」
「襲ったつもりはない」
「じゃあ、何のために?」
ノイズはアルトを見た。
「こいつを確かめに来た」
「僕を?」
「昨日、境界異常の中心に現れた少年。管理局が調べ始めている。お前が何者なのか、俺も知りたかった」
「それで攻撃したの?」
「力を確かめるには、それが一番早い」
アルトは少し首を傾げた。
「ずいぶん乱暴だね」
「お互い様だろう」
ノイズは頬の血を見た。
「俺の領域を破った人間は初めてだ」
「破ったわけじゃないよ。別の道から波を伝えただけ」
「同じことだ」
ノイズは立ち上がった。
「今日はここまでにする」
「逃げるの?」
「今はな」
ノイズは歩き出した。
数歩進んだところで、振り返る。
「一つ忠告しておく」
「何?」
「この街で目立つな。管理局に見つかったら、自由には動けなくなる」
「どうして?」
「お前のような存在を、あいつらが放っておくと思うか?」
ノイズはそれだけ言うと、路地の向こうへ消えていった。
しばらくして。
リナはアルトの頬に薬を塗っていた。
「痛い?」
「少しだけ」
「我慢して」
「うん」
「まったく……。街を歩くだけのつもりだったのに」
「ごめんね」
「あなたが謝ることじゃないわよ」
リナは薬を塗り終えた。
「それにしても、あの男……」
「知っているの?」
「名前は聞いたことがある。異能者の間では、かなり有名よ」
「強いの?」
「強いわ。特に、音を使う異能者にとっては最悪の相手ね」
アルトは頷いた。
「確かに、音波だけで戦っていたら苦戦したと思う」
「でも、あなたは勝った」
「今回はね」
「今回は?」
アルトは少し考えた。
「彼の能力は、まだ全部分かっていない。音を消す範囲も、どこまで振動を遮断できるのかも、正確には分からない」
リナは感心したように見つめた。
「勝ったのに、まだ調べるの?」
「うん。分からないことは多いから」
アルトは空を見上げた。
この世界には、まだ知らない能力がいくつもある。
そして、それぞれの能力には、必ず仕組みがある。
「面白い世界だね」
リナは呆れたように笑った。
「普通は怖がるところよ」
「怖くないわけじゃないよ」
アルトは答えた。
「でも、知りたいんだ」
その頃。
境界都市管理局の地下監視室では、新たな報告が届いていた。
【対象:境界漂着者】
【接触者:ノイズ】
【交戦結果:ノイズ撤退】
【対象の能力:波動操作】
職員は報告書を読み、眉をひそめた。
「ノイズを退かせたのか……」
別の職員が尋ねる。
「どうしますか?」
職員はしばらく考えた。
そして、端末に新しい指示を入力した。
【対象の監視レベルを引き上げる】
【接触は慎重に行うこと】
その下に、もう一つの項目が表示された。
【境界異常との関連性:調査継続】
画面の隅で、警告灯が静かに点滅していた。




