第26話「見えないひび」
「着いたわ!」
リナが勢いよく扉を開けた。
そこは、街の中心部から少し離れた場所にある古い建物だった。
三階建ての石造り。
壁には無数の配管が這い、屋根には大小さまざまなアンテナのような装置が取り付けられている。
入口には、小さな看板があった。
『境界現象研究所』
「ここが研究所?」
「そうよ。私の職場!」
「思ったより普通だね」
「どういう意味よ!」
「もっとこう、巨大な装置があって、怪しい光が出ていて、地下に秘密の研究室があるとか」
「……あるわよ」
「あるんだ」
「地下室にね」
リナは得意げに胸を張った。
「まあ、今は関係ないわ。まずはあなたの能力を調べましょう!」
「やっぱり調べるんだね」
「当然でしょ!」
リナはアルトの腕を引っ張り、建物の中へ入っていった。
研究所の内部は、思った以上に雑然としていた。
机の上には書類が積み重なり、床には工具や部品が転がっている。
壁には見慣れない図面が貼られていた。
金属製の箱。
複雑な配線。
見たことのない測定器。
そして、部屋の隅には大きな水槽まであった。
「ここでは何を研究しているの?」
「主に境界異常よ。空間の歪みや、物理法則が通常と異なる場所を調査しているの」
「異常が起きる原因は分かっているの?」
「まだ分からない。発生条件も一定じゃないし、規模も場所もバラバラ。何より、観測するたびに結果が変わることがあるの」
「面白いね」
「面白いで済ませられる問題じゃないわ。境界異常に巻き込まれた人が行方不明になったり、街の一部が消えたりすることもあるんだから」
リナは机の上から一枚の紙を取り出した。
そこには、街の地図が描かれていた。
赤い印がいくつもついている。
「これが境界異常の発生地点?」
「そう。ここ数年で確認された場所よ」
アルトは地図を眺めた。
「規則性はある?」
「今のところ、見つかっていないわ」
「本当に?」
「え?」
「発生した場所だけじゃなくて、発生する前の状態も調べた?」
リナは少し黙った。
「……どういうこと?」
「例えば、地面の振動。空気の圧力。電磁波。周囲の物質の状態。異常が起きる前に、何か変化があったかもしれない」
「それは調べているわ。でも、発生直前のデータが残っている場所は少ないの」
「なるほど」
アルトは地図の一点を指した。
「ここは?」
「旧市街の北側。三か月前に建物が一棟、半分だけ消えた場所よ」
「半分だけ?」
「そう。建物の右半分が、まるで最初から存在しなかったみたいに消えたの」
「残った部分は?」
「普通に残っているわ。内部にいた人は……」
リナは言葉を止めた。
「全員、無事だったの?」
「一人だけ行方不明。ほかの人は助かったわ」
アルトは地図を見つめた。
世界の境界。
存在と非存在。
関係の切断。
神界で考えていたことが、頭の中をよぎる。
「……この世界、興味深いね」
「でしょう?」
リナは嬉しそうに笑った。
「だから研究はやめられないのよ!」
「それで、能力の調査はどうするの?」
アルトが尋ねると、リナは待ってましたとばかりに一台の装置を引っ張り出した。
「これを使うわ!」
机の上に置かれたのは、金属製の小さな箱だった。
先端には丸い接触部があり、横には数値を表示する画面がついている。
「超音波測定器よ」
「超音波?」
「人間の耳には聞こえない高い周波数の音を使って、物体の内部を調べる装置。金属の亀裂や、内部の欠陥を見つけるの」
アルトは装置を手に取った。
「超音波検査だね」
「知っているの?」
「うん。僕の世界にも似た技術があったよ」
「あなたの世界にも?」
「医療にも工業にも使われていた」
リナは目を輝かせた。
「医療にも!?」
「身体の内部を調べたりね」
「すごい……。それ、詳しく教えて!」
「まずはこれを使ってみようよ」
アルトは装置を机に置いた。
リナが金属製の試験片を持ってくる。
「この中に、小さな人工欠陥があるわ。場所は私も知らないことにする。あなたが見つけられるか試してみましょう」
「分かった」
アルトは試験片に触れた。
そして、目を閉じる。
「……」
小さな波を送る。
金属の内部を伝わる波。
表面で反射する波。
内部の境界で反射する波。
波は、何かにぶつかるたびに戻ってくる。
アルトはその反射を感じ取った。
「ここだね」
試験片の中央より少し右。
アルトが指を置く。
リナは装置の画面を確認した。
「えっ……」
「当たってる?」
「待って。もう一度確認するわ」
リナは試験片を測定器に接続した。
装置が音を立てる。
画面に波形が表示された。
「……本当にある」
「見つかった?」
「あるわ。内部に小さな欠陥がある。位置もほぼ一致してる」
リナは画面と試験片を交互に見た。
「でも、どうやって?」
「波の戻り方を調べただけだよ」
「それだけ?」
「それだけと言えば、それだけかな」
リナは腕を組んだ。
「あなたの能力は、超音波測定器と同じことができるのね」
「いや、少し違うよ」
「違う?」
「測定器は、決められた周波数の波を出して、その反射を受け取る。僕は波の種類も周波数も変えられるし、返ってきた波をもっと細かく調べられる」
「つまり?」
「測定器より、できることが多い」
リナは黙った。
「……それって、かなりすごいことじゃない?」
「そうかな」
「そうよ!」
リナは試験片を持ち上げた。
「これ、今までなら装置の設定を変えて、何度も測定して、それでも欠陥の形までは分からないことがあったのよ!」
「一回の測定で全部分かるわけじゃないよ」
アルトは答えた。
「波は複雑だからね。内部の形状や材質によって反射の仕方が変わる。似たような反射が返ってくる構造もある。だから条件を変えて何度も調べる必要があるんだ」
「……あなた、思ったより慎重なのね」
「観測できたことと、分かったことは違うから」
リナはその言葉を聞いて、少しだけ表情を変えた。
「それ、研究者にとって大事な考え方ね」
「そう?」
「そうよ。観測結果を見ただけで、すべて理解した気になってはいけない。私たちもいつも失敗するわ」
アルトは試験片を机に戻した。
「じゃあ、次はもっと大きなものを調べてみようか」
そのとき、研究所の入口から大きな声が聞こえた。
「リナ! いるか!」
「うわっ、来た!」
リナが顔をしかめる。
入ってきたのは、背の高い中年の男だった。
日に焼けた顔に、太い腕。
作業着の袖をまくり、肩には工具袋をかけている。
「また測定器を借りに来たぞ!」
「ちょっと待ってよ、ゲンダさん! この前貸したばかりでしょ!」
「現場で壊れたんだよ!」
「また!?」
男はアルトに気づいた。
「おや? 見ない顔だな」
「アルトよ。昨日、境界異常の現場で知り合ったの」
「へえ。新入りか?」
「違うわよ。えっと……説明が難しいんだけど」
「アルトです」
「俺はゲンダ。街の設備修理をやってる」
ゲンダはアルトの手を握った。
「よろしくな」
「よろしく」
ゲンダはリナに向き直った。
「それで、測定器は?」
「今日は貸せないわ。調整中なの」
「困るなあ。工場の配管が怪しいんだよ」
「怪しいって?」
「振動が変なんだ。ポンプを動かすと、管の奥から妙な音がする。漏れてるわけじゃないんだが、どうにも気持ち悪い」
リナは眉をひそめた。
「どの配管?」
「北の工業区画だ。古い鋼管でな。そろそろ交換時期かもしれん」
アルトが顔を上げた。
「それ、見に行ってもいい?」
ゲンダがアルトを見た。
「お前さんが?」
「うん」
「配管の修理ができるのか?」
「修理はできないけど、異常がある場所なら分かるかもしれない」
ゲンダはリナを見た。
リナは少し考えてから、頷いた。
「この子、金属の内部を調べられるのよ」
「内部を?」
「超音波検査みたいなことができるの」
「……本当か?」
「試験片で確認したわ」
ゲンダはアルトを見つめた。
「面白い。来てくれ」
工業区画は、街の東側にあった。
煙突から煙が上がり、金属を叩く音が響いている。
大きな工場が並び、地面には太い配管が何本も走っていた。
「ここだ」
ゲンダが一つの工場を指した。
「この配管だよ」
建物の外壁に沿って、太い鋼管が伸びている。
途中にはバルブや継手があり、地面の下へ潜っていく。
「ポンプを動かすと、ここから変な音がする」
ゲンダが配管を叩いた。
コン、コン。
乾いた音が返る。
「普段はこんな音じゃないんだ」
アルトは配管に手を触れた。
「動かしてみて」
「いいのか?」
「うん」
ゲンダがポンプを起動する。
ウィィィン……。
配管の中を水が流れ始めた。
アルトは目を閉じた。
水の流れが生み出す振動。
ポンプから伝わる振動。
管の壁を伝わる弾性波。
それらを一つずつ拾い上げる。
最初は正常な振動。
だが、配管の途中で波形が変わった。
「……ここだ」
アルトは継手の少し手前を指差した。
「このあたりに異常がある」
ゲンダが近づく。
「本当か?」
「うん。管の内側に、小さな段差がある。それと、壁の厚さが周囲より薄くなっている」
「腐食か?」
「その可能性が高いね」
アルトはさらに周波数を変えて波を送った。
低い周波数。
高い周波数。
異なる方向からの波。
戻ってくる波を比較する。
「……やっぱり」
「どうした?」
「壁の一部が薄くなっている。外からは分からないけど、内側から腐食が進んでいるみたい」
ゲンダの表情が変わった。
「どれくらい危ない?」
「今すぐ破裂するとは限らない。でも、このまま使い続けるのは危険だと思う」
「そうか……」
ゲンダは配管を見上げた。
「こいつは交換するしかないな」
「うん。少なくとも、専門の人に詳しく調べてもらった方がいい」
「分かった。工場長に話してみる」
ゲンダはアルトの肩を叩いた。
「助かったよ。外から見ただけじゃ分からなかった」
「どういたしまして」
「しかし、便利な能力だな」
リナが横から口を挟んだ。
「便利なんてものじゃないわよ。研究する価値があるわ!」
「お前は何でも研究したがるな」
「当然でしょ!」
二人のやり取りを見て、アルトは笑った。
神界では、力を使うたびに誰かが倒れた。
ここでは、力を使うことで誰かの仕事が少し楽になる。
その違いが、アルトには新鮮だった。
工場を出ると、夕方になっていた。
リナは帰り道、ずっとアルトに質問していた。
「ねえ、さっきの検査だけど、どれくらいの厚さまで分かるの?」
「材質や形状によるよ」
「じゃあ、壁の向こう側は?」
「調べられる」
「地面の下は?」
「もちろん」
「建物の中は?」
「できるよ」
「人間の身体は?」
「できる」
リナは立ち止まった。
「……本当に?」
「うん。超音波検査と同じようなことはできるよ」
「医療にも使えるのね」
「そうだね。ただし、病気を見つけるには医学の知識が必要だよ。僕は身体の内部を観察できても、それが何の病気なのか判断できるわけじゃない」
「なるほど……」
リナは考え込んだ。
「だったら、医師と協力すればいいのね」
「そうだね」
「すごいわ。工業にも医療にも使える。ほかには?」
「水の流れを調べたり、地中の空洞を探したり、音を届けたり、振動を抑えたり……」
「待って待って!」
リナは両手を上げた。
「一つずつ! 一つずつ教えて!」
「分かったよ」
「あなた、もしかして自分の能力の価値を分かっていないんじゃない?」
アルトは少し考えた。
「どうだろうね」
「絶対分かってない!」
リナは大きく息を吐いた。
「いい? あなたの能力は、戦うためだけのものじゃない。人間の生活を変えられる可能性があるのよ」
その言葉に、アルトは足を止めた。
人間の生活。
神界で戦っていた頃、そんなことを考えたことはなかった。
人間は管理するもの。
守るもの。
あるいは、消耗品。
自分自身でさえ、そんなふうに考えていた。
だが、今は違う。
一人の職人が、見えない亀裂を見つけられた。
工場の事故を防げたかもしれない。
それだけのことだ。
けれど。
「……そうだね」
アルトは小さく答えた。
「僕も、そういう使い方をしてみたい」
リナは満足そうに頷いた。
「決まりね。明日から研究所に来なさい!」
「毎日?」
「もちろん!」
「僕、まだこの街のことも知らないんだけど」
「じゃあ、街を案内してあげるわよ!」
「それは助かる」
二人は再び歩き出した。
その頃。
街の裏通り。
一人の男が、路地の壁にもたれていた。
男の前を、荷車が通り過ぎる。
車輪が石畳を叩く音。
馬の蹄の音。
商人の呼び声。
子供たちの笑い声。
街の音が、そこにはあった。
男が顔を上げる。
次の瞬間。
音が消えた。
荷車の車輪は回っている。
馬の口は動いている。
商人は叫んでいる。
だが、何も聞こえない。
男は静かに路地から出てきた。
そして、通りの向こうを見つめた。
「……見つけた」
男の視線の先には、リナとアルトの姿があった。
男はアルトを見ていた。
「妙な波だな」
男の周囲では、風が吹いている。
しかし、その風の音さえ聞こえない。
男は小さく笑った。
「少し、試してみるか」
音のない街で、男だけが歩き出した。




