第25話「境界の向こう」
神界の外側。
そこには、無数の世界が浮かんでいた。
アルトは、その一つを見つめていた。
世界と世界の間に伸びる、一本の線。
第24話で神界の外側に見つけたものと、同じものだった。
「……これは、どこにつながっているんだろう」
指先を伸ばす。
触れた瞬間、線がわずかに震えた。
波が伝わる。
その先に、何かがある。
アルトは目を細めた。
「ちょっと調べてみようか」
一歩、踏み出す。
その瞬間だった。
線が、切れた。
「え?」
違う。
切れたのではない。
線の向こう側から、何かがこちらを引っ張っている。
空間が歪む。
アルトの身体が、見えない穴へと吸い込まれた。
「ちょっ……!」
視界が反転する。
無数の光が流れ、上下左右の感覚が消える。
波が乱れる。
世界そのものが、巨大な渦になったようだった。
そして――
ドサッ!
「痛っ……」
アルトは、石畳の上に転がっていた。
しばらく、そのまま動かなかった。
「……ここは?」
見上げる。
空がある。
雲がある。
太陽がある。
神界とは違う。
建物が並び、人々が歩き、遠くから鐘の音が聞こえる。
街だった。
ただし、アルトが知っているどの街とも違う。
石造りの建物の隣に、金属製の巨大な塔が立っている。
道路には車輪のついた乗り物が走り、壁面には光る文字が浮かんでいた。
魔法とも科学ともつかない、不思議な光景。
「異世界……かな」
アルトは立ち上がり、服についた埃を払った。
そのとき。
「動かないで!」
背後から声がした。
振り返る。
そこには、一人の少女が立っていた。
茶色の短い髪。
額には大きなゴーグル。
作業着のような服には油汚れがついている。
少女は片手に奇妙な機械を持ち、もう片方の手でアルトを指差していた。
「あなた、どこから出てきたの?」
「どこから?」
「質問に質問で返さないで! さっき空間が裂けたのよ! あなた、あそこから落ちてきたでしょ!」
「うん。たぶん」
「たぶん!?」
少女は機械をアルトに向けた。
機械の先端が青く光る。
小さな画面に数字が次々と表示された。
「生体反応……正常。熱量……正常。質量……正常。なのに、境界反応が……え?」
少女は画面を叩いた。
「おかしい。数値が出ない」
「それ、何?」
「境界測定器。空間の歪みや異常現象を測る機械よ」
「へえ。便利そうだね」
「便利そう、じゃないわよ! あなたを測ってるの!」
「僕を?」
「そう!」
少女は機械をもう一度向けた。
ピピピピピッ!
画面が激しく点滅する。
そして、真っ黒になった。
「……壊れた」
少女は呆然と画面を見つめた。
「私の測定器が……」
「ごめんね」
「あなたのせいなの!?」
「たぶん」
「たぶん禁止!」
少女は頭を抱えた。
アルトは周囲を見渡した。
街の人々は、こちらをちらちらと見ている。
空間が裂けて人間が落ちてきたのだから、当然だろう。
「ところで、ここはどこ?」
少女は顔を上げた。
「ここは境界都市。世界の異常現象を研究するために作られた街よ」
「境界都市……」
「私はリナ。境界異常の研究をしている技術者」
「僕はアルト」
「アルトね。あなた、異能者?」
「異能者?」
リナは少し考えた。
「……知らないの?」
「初めて聞いたよ」
「じゃあ、あなたはどこの人間なの?」
「それが、僕にもよく分からない」
リナは眉をひそめた。
「ますます怪しいわね」
「よく言われるよ」
「誰に?」
「神様とか」
「……冗談?」
「どうだろう」
リナはアルトをじっと見つめた。
それから、壊れた測定器をポケットにしまった。
「とりあえず、研究所に来てもらうわ」
「どうして?」
「あなたの身体を調べたいから」
「断ったら?」
「……困る」
「じゃあ、断るよ」
アルトが歩き出そうとすると、リナは慌てて前に回り込んだ。
「待って! お願い! あなたがどうやってここに来たのか分からないと、また同じことが起きるかもしれないの!」
「それは困るね」
「でしょ?」
「でも、僕も調べたいことがあるんだ」
「何を?」
アルトは空を見上げた。
「この世界が、どういう仕組みでできているのか」
リナは目を丸くした。
「……研究者?」
「いや。旅人かな」
「ずいぶん変わった旅人ね」
そのときだった。
ゴゴゴゴゴ……。
足元が揺れた。
街の向こうから、鈍い音が響いてくる。
リナの表情が変わった。
「まずい!」
「何?」
「水道管よ!」
「水道管?」
「この街の地下には大きな水道管が通っているの。さっきの境界異常で、どこかが壊れたんだわ!」
遠くで人々の悲鳴が聞こえた。
道路の一部が盛り上がり、石畳の隙間から水が噴き出している。
「早く逃げて!」
リナが走り出す。
アルトはその場に立ち止まった。
「ちょっと待って」
「何よ!?」
アルトは地面に手をかざした。
目を閉じる。
地面の下。
水道管の中。
水の流れ。
管の振動。
無数の波が、アルトの感覚に流れ込んでくる。
水道管の内部を伝わる振動が、地中を走っていた。
アルトはその波を追いかける。
分岐。
曲がり角。
継ぎ目。
そして、異常な振動。
「見つけた」
「何が?」
「壊れている場所。ここから北へ三十メートル。地下二メートルくらいかな」
「……は?」
「管の継ぎ目が割れている。水が漏れて、周囲の土を押し広げているよ」
リナはアルトを見た。
「どうして分かるの?」
「波を調べたんだ」
「波?」
「うん。音や振動は、物の中を伝わるからね。反射して戻ってくる波を調べれば、内部の状態が分かる」
「そんなことができるの?」
「できるよ」
アルトは地面に指を向けた。
「少しだけ、手伝おうか」
指先から、ごく小さな振動が広がった。
地中を伝わる波が、水道管の継ぎ目に届く。
戻ってくる波を確認する。
割れ目の形。
管の厚さ。
周囲の土の状態。
アルトはそれらを把握した。
「ここだね」
次の瞬間。
地面の一部が、静かに持ち上がった。
石畳が割れることもなく、土だけが左右に分かれる。
地下の水道管が姿を現した。
管の継ぎ目から、水が勢いよく噴き出している。
「うわっ!」
リナが飛び退いた。
「ちょっと! どうするつもり!?」
「止めるよ」
アルトは水道管に手をかざした。
管の中を流れる水。
その水が持つ圧力の変化。
水道管の振動。
アルトはそれらを同時に捉えた。
そして、管の内部に伝わる波を操作する。
水の流れが、少しずつ弱くなった。
噴き出していた水が細くなる。
やがて、ぴたりと止まった。
「……え?」
リナは口を開けたまま固まっていた。
アルトは振り返った。
「これでいい?」
「いや……待って……」
リナは水道管を見た。
次にアルトを見た。
そして、また水道管を見た。
「あなた、何をしたの?」
「水の流れを調整しただけだよ」
「そんな簡単に言わないで!」
「簡単ではないよ。管の中の状態を把握するのは、けっこう難しいんだ」
「そういう問題じゃない!」
リナは頭を抱えた。
「水道管の破裂を、こんな短時間で……」
「壊れたところは直さないといけないけどね」
「え?」
「今は水の流れを止めただけ。管そのものは割れたままだよ」
リナは、ゆっくりと顔を上げた。
「……あなた、修理はできないの?」
「僕は波の使い手だからね。金属を溶接したりはできないよ」
「そ、そうよね……」
リナは少し安心したようだった。
しかし、次の瞬間。
「でも、修理する場所を正確に教えることはできるよ」
「それは……」
リナの目が輝いた。
「すごい!」
彼女は勢いよくアルトの手を握った。
「あなた、研究所に来なさい!」
「さっきも聞いたよ」
「今度はお願いじゃないわ! 絶対に来てもらう!」
「どうして?」
「あなたの能力を調べたいの!」
「僕はあまり調べられるのが好きじゃないんだけど」
「じゃあ、調べるんじゃなくて、一緒に研究しましょう!」
「それなら考えてもいいよ」
リナは満面の笑みを浮かべた。
その表情を見て、アルトは少しだけ不思議な気持ちになった。
神界では、誰もが彼を恐れていた。
神々は彼を排除しようとし、管理機構は彼を削除しようとした。
だが、この少女は違う。
彼の力を恐れるよりも、知りたがっている。
「ねえ、リナ」
「何?」
「この街には、僕みたいな能力を持った人がいるの?」
「もちろんよ」
リナは答えた。
「この街には、いろんな異能者がいるわ」
「どんな能力?」
「火を出す人。物を動かす人。身体を硬くする人。影を操る人。時間を止めると主張している人もいる」
「時間を止める?」
「本当に止めているかどうかは分からないけどね」
リナは歩き出した。
「異能は人によって違う。強さも、条件も、使い方も違う。だから研究する価値があるの」
「面白そうだね」
「面白いだけじゃないわ。異能を悪用する人間もいる。犯罪に使う人も、戦争に使う人もいる」
「なるほど」
アルトは街を見渡した。
この世界には、神界とは違う秩序がある。
人間が暮らし、人間が働き、人間が争っている。
そして、人間自身が世界の法則に干渉する力を持っている。
「ねえ、リナ」
「今度は何?」
「この街、少し歩いてみてもいい?」
「研究所に行くんじゃないの?」
「その前に、街を見てみたいんだ」
リナはため息をついた。
「……分かったわ。でも、勝手にどこかへ行かないでよ」
「約束する」
二人は歩き出した。
その背後では、街の人々が水道管の破裂事故が収まったことに驚き、騒いでいた。
誰も知らない。
今、この街に現れた少年が、かつて魔王を倒し、神々と戦い、世界の仕組みに干渉する力を手に入れた存在だということを。
そして、アルト自身もまだ知らない。
この街には、彼の力を真正面から打ち破る異能者が存在することを。
その日の夜。
境界都市管理局。
地下の監視室。
一人の職員が、端末に表示された記録を見つめていた。
「……おかしいな」
画面には、昼間に発生した境界異常の記録が表示されている。
発生時刻。
発生場所。
異常規模。
そして、異常の中心に現れた人物。
名前は不明。
年齢は十代半ば。
能力は不明。
職員は記録の最後に表示された一文を読み上げた。
「境界異常の発生源と、異常の中心に出現した人物の因果関係……確認できず?」
彼は眉をひそめた。
「人間が境界異常から出てきた、ということか?」
画面が切り替わる。
新しい警告が表示された。
【未登録個体を確認】
【異能反応:測定不能】
【境界反応:測定不能】
【危険度:判定不能】
職員は受話器を取った。
「管理局本部に連絡を。例の境界異常について、未確認の個体が出現しました」
少し間を置いて、彼は続けた。
「……はい。人間です。ただし、通常の異能者ではない可能性があります」
受話器の向こうから、短い指示が返ってきた。
職員は画面を見つめたまま答えた。
「了解しました。まずは監視を続けます」
画面の中で、アルトの写真が表示されていた。
その下に、新しい分類が追加される。
【分類:境界漂着者】
【管理対象:要調査】
そして、最後に。
【接触方針:未定】
物語は、まだ始まったばかりだった。




