第22話「世界の外側」
何もなかった。
光もない。
音もない。
空気もない。
大地もない。
上も下も、右も左も存在しない。
時間すら流れているのか分からない。
アルトは、そこにいた。
いや、そこにいるという表現すら正しいのか分からなかった。
身体はない。
手も足もない。
目も耳もない。
それでも、意識だけは残っていた。
「……僕は、まだ生きているの?」
返事はない。
「ここはどこ?」
返事はない。
「誰かいる?」
何も聞こえない。
アルトは自分の能力を使おうとした。
波を作る。
いつものように、音波を。
電磁波を。
弾性波を。
しかし、何も起きない。
そもそも、波を伝えるものがない。
音を伝える空気も、振動を伝える物質も、光が進む空間さえない。
「……何もない」
アルトは理解した。
ここでは、何もできない。
神界軍事管理機構の言葉が蘇る。
『波が存在しなければ、波を操ることはできない』
その通りだった。
波とは、何かの変化が伝わっていく現象だ。
変化が起きる場所が必要だ。
変化が伝わる時間が必要だ。
変化を受け取る何かが必要だ。
それらが何もないのなら、波は存在できない。
「僕の能力は……世界の中でしか使えないのか」
アルトは考えた。
自分は世界中の波を操れると思っていた。
だが、それは世界の中に存在する波に限った話だった。
神界軍事管理機構は、その世界そのものを管理していた。
物理法則を変更し、波の伝播を止め、アルトの能力を封じた。
つまり、アルトは世界のルールの中で戦っていたのだ。
「……僕は、何も知らなかったんだ」
沈黙。
そのとき。
また、あの声が聞こえた。
「ようやく気づいたか」
アルトは反応した。
「誰だ!」
「お前は波を操ると言った。だが、波とは何だ?」
「変化が伝わる現象だ」
「では、変化とは何だ?」
「……状態が変わること」
「状態とは?」
アルトは答えられなかった。
声は続けた。
「お前は波を知っている。音を知っている。光を知っている。振動を知っている。だが、それらが成立するための前提を考えたことはあるか?」
「空間と時間……それに、媒質」
「そうだ。では、それらが存在しない場所で、お前は何をする?」
「何もできない」
「本当に?」
アルトは黙った。
声が問いかける。
「お前は今、何をしている?」
「考えている」
「考えるとは?」
「……」
「お前の意識は、何も変化していないのか?」
アルトは自分の意識に集中した。
最初に、自分がここにいると考えた。
次に、何もないと考えた。
その次に、波が作れないと考えた。
そして今、声の主について考えている。
考えが移り変わっている。
何もないはずなのに。
何かが変化している。
「……変わっている」
「何が?」
「僕の認識が」
「なぜ変わる?」
「分からない」
「最初から何もなかったのか?」
アルトは考えた。
何もない。
だが、自分の意識はある。
声も聞こえる。
少なくとも、自分が認識する前と、認識した後では何かが違っている。
「……差がある」
「そうだ」
声が響いた。
「何かが存在するということは、何もない状態とは異なるということだ。何かを認識するということは、それと他の何かを区別するということだ」
アルトは考え続けた。
差。
違い。
区別。
それらがなければ、何かが存在することすら認識できない。
「波は、変化が伝わる現象……」
アルトはつぶやいた。
「でも、変化が起きる前に、まず違いがなければならない」
「続けろ」
「違いがあるから、変化を認識できる。変化があるから、それが伝わる。伝わるから、波になる」
アルトの意識に、何かが浮かんだ。
波は、最初から存在しているものではない。
ある状態と別の状態がある。
その間に変化がある。
その変化が伝わっていく。
ならば。
「波を作る前に……」
アルトは言った。
「違いを作ればいい」
その瞬間。
何もない場所に、かすかな揺らぎが生まれた。
音ではない。
光でもない。
しかし、確かに何かが生まれた。
「……今のは?」
「お前が作ったものだ」
「僕が?」
「そうだ」
アルトは驚いた。
これまで、波を作ろうとしてきた。
音を作り、光を作り、振動を作り、電磁波を作ってきた。
だが、それらはすべて、すでに存在する世界の仕組みを利用していた。
今は違う。
何もない場所に、何かと何かの違いを作った。
「これが……」
アルトは自分の意識を集中させた。
「波の始まり?」
「そうとも言える」
揺らぎが広がっていく。
何もない場所に、境界が生まれた。
境界が広がり、距離が生まれる。
距離が生まれ、変化が伝わる。
そして。
音が鳴った。
「キュイイイイイッ!」
懐かしい声だった。
アルトが初めて能力を発動させたときの、あの鳴き声。
しかし、今度の声は違った。
ただの音ではない。
何もない場所に、最初の変化を刻み込む声だった。
アルトの周囲に、空間が生まれ始める。
広がる。
揺れる。
変化する。
何もなかった場所に、世界の原型が形成されていく。
「……できた」
アルトは、自分の存在を確かめるように手を動かした。
手があった。
腕があった。
身体が戻っている。
そして、目の前には巨大な黒い空間が広がっていた。
「ここは……」
「世界の外側だ」
声が答えた。
「お前たちの神が管理する世界。その外側にある場所だ」
「君は誰なの?」
「私は、この場所を観測している者だ」
「神なの?」
「神という言葉は、お前たちの世界にある分類だ」
アルトは眉をひそめた。
「じゃあ、何者なんだよ」
声は答えなかった。
代わりに、目の前に巨大な構造物が現れた。
それは神界にあった管理施設によく似ていた。
だが、規模が違う。
神界の施設が小さな機械に見えるほど、巨大だった。
無数の世界が並んでいる。
無数の神界が存在している。
そして、それらを覆うように、さらに巨大な構造が広がっていた。
アルトは息を呑んだ。
「これ……全部、世界なの?」
「そうだ」
「神界も?」
「そうだ」
「じゃあ、僕が戦っている神々も……」
「その構造の中に存在する一つの管理機構にすぎない」
アルトは言葉を失った。
神界のさらに外側。
そこにも世界がある。
そして、その世界すら何かに包まれている。
「……きりがないね」
「そうだな」
声は淡々と答えた。
「管理する者が存在すれば、その管理者を管理する者が存在する。管理者が絶対だと思い込むのは、いつの時代も同じだ」
アルトは拳を握った。
「なら、全部壊せばいい」
「なぜ?」
「僕の人生を勝手に決める奴がいるからだ」
「お前は、何を望んでいる?」
「自由だよ」
「自由とは何だ?」
アルトは答えようとした。
しかし、言葉が出なかった。
神との対話を思い出す。
人間の自由。
人間の幸福。
人間の尊厳。
自分はそれらを守ろうとしていた。
そして、すべてを疑った。
人間は消耗品だと認めた。
神を殺すことにした。
今は、ただ自分の人生を誰にも決めさせたくないと思っている。
「……僕にも分からない」
「そうか」
「でも、少なくとも、誰かの帳簿に僕の人生を記録されたくない」
「ならば、自分で決めろ」
声はそう告げた。
「自分が何者なのかも。何を望むのかも。何をするのかも」
アルトはうなずいた。
「分かった」
その瞬間。
遠くで、巨大な警報が鳴り響いた。
神界軍事管理機構が、再びアルトの存在を検知したのだ。
異常反応を確認。
対象:アルト。
所在:管理領域外。
脅威評価:算出不能。
アルトは顔を上げた。
「見つかったみたいだね」
「戻るのか?」
「もちろん」
「今戻れば、再び攻撃される」
「知ってるよ」
アルトは笑った。
「でも、今度は違う」
「何が違う?」
「僕はもう、波が存在する世界だけに頼らない」
アルトは右手を上げた。
何もない空間に、無数の揺らぎが生まれる。
それは光になり、音になり、振動になり、やがて一つの巨大な波となった。
「僕は、波が生まれるところから作れる」
アルトは神界の方向を見た。
「待ってろよ」
その身体が光に包まれる。
「今度は、君たちの世界のルールごとひっくり返してやる」
そして、アルトは消えた。
神界。
軍事管理機構は、神界の中心に立っていた。
「対象の反応を再検知」
無数の眼が、一点を見つめる。
「管理領域外からの侵入を確認」
因果の神が叫んだ。
「そんな馬鹿な! あの空間から戻れるはずがない!」
軍事管理機構は答えた。
「対象の能力が変化している」
「どのように?」
「従来の能力分類に該当しない」
「ならば、能力名は?」
長い沈黙。
そして、機構は記録した。
対象:アルト
能力名:鳴き声
能力分類:未定義
備考:波の発生条件そのものに干渉する可能性あり。
神界の奥で、巨大な扉が再び揺れた。
その向こう側から、あの声が響いた。
「……面白くなってきたな」
神界の戦争は、まだ始まったばかりだった。




