第18話「人間という家畜」
神の前に立つアルトは、しばらく黙っていた。
先ほどまで、自分は神に反論していた。
人間は消耗品ではない。
世界の成長が目的になってはいけない。
人間は、そこで生きている人たちのためにある。
そう言い切った。
だが。
「……本当に、そうなのか?」
アルトの口から、小さな声が漏れた。
神は答えない。
「僕は、人間の命が大切だと言った」
アルトは自分の手を見つめた。
「でも、僕は人を殺した」
騎士団長。
騎士たち。
鉱山の監督官。
自分を裏切った者たちを殺した。
「彼らは悪人だった。だから殺していい。そう思った」
「そうだな」
神が答えた。
「だが、誰が彼らを悪人と決めた?」
「……僕だ」
「なぜ、お前にその権利がある?」
アルトは答えられなかった。
「お前は人間の命を大切だと言った。ならば、彼らの命も大切だったはずだ。彼らがどれほど悪辣な人間であろうと、彼らにも生きる権利があったのではないか?」
「でも、彼らは……!」
「彼らは他人の人生を奪った。だからお前が彼らの人生を奪った。違うか?」
「……」
「お前は彼らを裁いた。誰の許可を得て?」
アルトは拳を握った。
反論したかった。
だが、言葉が出てこない。
「お前は自分の正義を信じている。だが、それは私と何が違う?」
神は淡々と続けた。
「私は世界の成長を優先する。お前は自分の正義を優先する。私は必要と判断した個体を切り捨てる。お前は悪人と判断した個体を切り捨てる。どちらも、自分の基準で他者の命を決めている」
「違う……」
「何が違う?」
「僕は……人間を守ろうとしている」
「誰を?」
「人間を」
「すべての人間か?」
アルトは黙った。
「お前は、すべての人間を守るつもりなのか?」
「……そうだ」
「では、私に逆らう者もか?」
「もちろんだ」
「お前を殺そうとする者も?」
「……」
「お前の大切な者を殺そうとする者も?」
「それは……」
「お前は人間の自由を尊重すると言った。ならば、彼らが自由な意思でお前を殺そうとすることも認めるのか?」
アルトの喉が詰まった。
認められるはずがない。
自分はレオを守りたい。
もう誰にも奪わせたくない。
だから、敵を排除した。
それは間違いだったのか。
「お前は人間の自由を守るために、他人の自由を奪うのか?」
「……違う」
「何が違う?」
「僕は、必要以上に人を傷つけたくないだけだ」
「必要な範囲なら、傷つけてよいのか?」
「……」
「必要かどうかは誰が決める?」
「僕が……」
そこまで言って、アルトは口を閉じた。
まただ。
また、自分が決めると言おうとした。
神と同じだった。
「では、次の問いだ」
神の声が響く。
「一人を救えば、百人が死ぬ。百人を救えば、一人が死ぬ。お前はどちらを選ぶ?」
「そんな状況を作らなければいい」
「作らないことが不可能な場合は?」
「別の方法を探す」
「探している時間がない場合は?」
「……」
「選ばなければ、百一人全員が死ぬ」
神は一歩も譲らなかった。
「一人を犠牲にして百人を救うか。百人を犠牲にして一人を救うか。答えろ」
「僕は……」
アルトは考えた。
一人を見捨てる。
それは、ミナを見捨てることと何が違う?
百人を見捨てる。
それは、百人の人生を軽く扱うことではないのか?
「百人を救う」
アルトは、ようやく答えた。
「一人を犠牲にする」
「なぜだ?」
「……救える命が多いから」
「つまり、命を数えたのだな」
「違う。これは……」
「一人の命より、百人の命を優先した。お前は命を比較し、価値を判断した」
アルトは唇を噛んだ。
「それが間違っているとは思わない」
「そうか。では、一人を救うために百人を犠牲にする者がいたら?」
「それは間違っている」
「なぜ?」
「百人の命を奪うからだ」
「一人の命を救うために、百人の命を奪うことは許されない。だが、百人を救うために一人の命を奪うことは許される。そういうことか?」
「……」
「お前は結局、命を数えている」
神の言葉が、静かにアルトを追い詰めていく。
「お前が否定した私の考え方を、お前自身も使っている」
アルトは顔を上げられなかった。
「では、もっと根本的なことを聞こう」
神は問いを変えた。
「なぜ、人間なのだ?」
「……何が?」
「なぜ人間の命だけを特別扱いする?」
「人間だからだ」
「それは答えになっていない」
「人間には心がある。考える力がある。誰かを愛し、誰かを守り、未来を望むことができる」
「動物にはないのか?」
「……」
「犬は主人を愛する。鳥は巣を守る。象は仲間の死を悼む。猿は群れの中で争い、助け合う。彼らにも感情がある」
「それは……」
「虫はどうだ?」
神は続けた。
「人間は虫を殺す。家に入ってきた虫を殺す。畑を荒らす虫を殺す。病気を媒介する虫を殺す。人間にとって都合が悪ければ、数万、数億という個体をまとめて駆除する」
「それは、人間が生きるために……」
「人間が生きるためなら、他の生命を犠牲にしてよいのか?」
「……」
「人間は家畜を育て、食べる。繁殖させ、管理し、必要なときに殺す。野生動物の生息地を奪い、森林を切り開き、川を変え、海を汚す」
神の声には怒りも嘲笑もなかった。
ただ、事実を並べていた。
「人間は自分たちの利益のために、他の生命を利用している。それを当然のこととして受け入れている」
「……人間と虫は違う」
「何が違う?」
「人間には……」
アルトは考えた。
知性。
感情。
社会。
文化。
言葉。
文明。
だが、それらは人間だけのものではない。
程度の差こそあれ、他の生物にも存在する。
そして、仮に人間が特別な能力を持っていたとしても、それが他の生命を自由に扱う権利になるのだろうか。
「人間が自分たちを特別だと思っているだけではないのか?」
神の問いに、アルトは答えられなかった。
「人間は他の生命を管理する。繁殖させる。利用する。不要になれば処分する。お前が守りたいと言った人間は、すでにそれを行っている」
「それでも……」
「それでも、人間は特別だと言うのか?」
アルトの脳裏に、ミナの顔が浮かんだ。
泥に汚れた小さな手。
半分に割ったパン。
「お兄ちゃん、私、ここから出られるかな」
あのとき、アルトは約束した。
いつか必ず。
だが、守れなかった。
彼女を救えなかった。
彼女を殺した人間を殺した。
そして今、自分は人間の命について語っている。
「ミナは……」
アルトはつぶやいた。
「ミナは、消耗品じゃない」
「なぜだ?」
「彼女は……一人の人間だった」
「人間だからか?」
「違う!」
アルトは叫んだ。
「彼女には、彼女の人生があった! 未来があった! 生きたかったんだ!」
「それは人間だけの話ではない」
「……」
「お前はミナの未来を奪われたことに怒った。だが、人間は毎日、他の生命の未来を奪っている。自分たちの食料のために。生活のために。便利さのために」
神は少し間を置いた。
「人間は、自分たちが奪う側にいるとき、その命を消耗品として扱う。だが、自分たちが奪われる側になった途端、それを許さなくなる」
アルトは目を閉じた。
自分もそうだったのか。
自分が傷つけられたから怒った。
自分が奪われたから復讐した。
自分が守りたいものを脅かされたから、敵を殺した。
それを正義と呼んでいた。
「……人間は」
アルトの声が震えた。
「自分たちの都合で、他の命を選別している」
「そうだ」
「生かすものと、殺すものを決めている」
「そうだ」
「必要なものを残し、不要なものを捨てている」
「そうだ」
「それを……人間は、ずっとやってきた」
「そうだ」
アルトはゆっくりと目を開いた。
「なら……」
自分の言葉が、自分の中で形になっていく。
「人間も同じなのか」
神は答えなかった。
アルトは続けた。
「人間も、世界の中の一つの生物にすぎない。資源を消費し、他の生命を利用し、繁殖し、死んでいく」
「その通りだ」
「個体にこだわる必要はない。人間という種が存続すればいい。個々の人間が死んでも、別の人間が生まれる」
「その通りだ」
「人間の数が減れば、増やせばいい。能力のある者を残し、能力のない者を切り捨てればいい。生産性が低いなら、別の個体に置き換えればいい」
「そうだ」
アルトは自分の手を見た。
この手で魔王を倒した。
この手で騎士団長を殺した。
この手で監督官を殺した。
そして今、この手には世界中の波を操る力がある。
「人間は……」
アルトはつぶやいた。
「人間は、消耗品なのか」
神は初めて、わずかに笑った。
「ようやく理解したか」
「虫と同じ……」
「違うと言える根拠はあるか?」
「……ない」
「管理する側と、管理される側がいる。人間はそれを家畜や虫に対して行ってきた。ならば、人間を管理する存在が現れても不思議ではない」
アルトの表情から、怒りが消えていた。
「繁殖させる。食料を与える。労働させる。必要な知識を蓄積させる。個体の状態を監視する。危険な個体を排除する」
神は静かに言った。
「それが管理だ」
「……家畜と同じだ」
「そうだ」
「人間の自由も、尊厳も、幸福も……」
アルトは言葉を止めた。
それらは本当に、世界にとって必要なものなのだろうか。
人間が勝手に作り上げた価値観ではないのか。
「人間が生きるために必要なものを与えればいい。人間が苦しまないように管理すればいい。人間が反抗しないように、適切な環境を整えればいい」
「そうだ」
「そして、必要がなくなった個体は……」
「処分すればいい」
長い沈黙が訪れた。
アルトは何も言わなかった。
神も、何も言わなかった。
やがてアルトは、ゆっくりと顔を上げた。
「……僕は、何を守ろうとしていたんだろう」
その問いに、神は答えなかった。
アルトは自分の胸に手を当てた。
人間の命は大切だ。
人間の自由は尊重されるべきだ。
人間は世界のために存在するのではない。
そう信じていた。
だが、それを裏付けるものは何もなかった。
少なくとも、今のアルトには見つけられなかった。
「アルト」
神が呼びかける。
「お前は、私の管理方針を見直させると言ったな」
「ああ」
「では、答えろ。人間をどう扱う?」
アルトはしばらく考えた。
そして、静かに答えた。
「管理する」
神の表情が変わった。
「……ほう」
「人間は、自分たちで自分たちを管理できていない。争い、奪い合い、殺し合う。自分たちの利益のために、他の生命を消耗品として扱う」
アルトは神を見つめた。
「ならば、誰かが管理しなければならない」
「誰が?」
「僕が」
神は満足そうにうなずいた。
「そうか」
アルトは続けた。
「人間に自由を与える必要はない。必要なものを与え、必要なことをさせる。世界にとって有益な存在として生かせばいい」
「それが、お前の結論か?」
「……今は、そう思う」
神は記録を更新した。
管理対象:人類。
管理方針:再検討。
管理者候補:アルト。
そして、最後の欄に一文を加えた。
備考:人間を消耗品と認識。
神は静かに告げた。
「ようこそ、管理者の側へ」
アルトは返事をしなかった。
その目には、もう以前のような怒りはなかった。
ただ、空っぽの静けさだけがあった。




