第17話「神の帳簿」
魔王城。
アルトは玉座に座り、窓の外を眺めていた。
人間たちは、まだ自分を恐れている。
魔王討伐軍を退けてから数日。
各国は軍備を増強し、魔王への対抗策を探しているらしい。
「面倒くさいなあ」
アルトは頬杖をついた。
そのときだった。
世界が止まった。
風が止まる。
雲が止まる。
空を飛んでいた鳥も、城の中を歩いていた魔物も、すべてが動きを止めた。
「……ん?」
アルトだけが動けていた。
目の前の空間が、ゆっくりと歪む。
そこから、一人の人物が現れた。
白い衣。
年齢も性別も分からない顔。
人間のような姿をしているが、人間ではない。
その存在を見た瞬間、アルトは理解した。
「君が、神?」
「そうだ」
「へえ。初めまして」
「初めまして、アルト」
神は微笑んだ。
「お前と話をしに来た」
「僕に?」
「そうだ。お前は魔王を殺し、魔王の座を継いだ。人間の軍勢を退け、世界の均衡を乱している」
「それで?」
「お前を処分するかどうか、判断しなければならない」
アルトは眉を上げた。
「処分?」
「お前の存在は、世界の成長にとって危険だ」
「世界の成長?」
「そうだ」
神が手をかざす。
すると、空中に巨大な光の板が現れた。
そこには、世界の様々な情報が表示されていた。
人口。
食料生産量。
鉱物資源。
土地の利用率。
技術水準。
魔力量。
文明の発展速度。
そして、世界全体の成長率。
アルトはそれを眺めた。
「何これ?」
「世界の管理記録だ」
「管理記録?」
「私はこの世界を管理している。人間、魔物、植物、鉱物。あらゆる存在を把握し、世界全体の成長を最大化する」
「成長を最大化?」
「そうだ。世界は成長しなければならない」
アルトは少し考えた。
「それって、経済成長みたいなもの?」
「理解が早いな」
神は頷いた。
「人間は労働力であり、知識を生み出す存在だ。人口が増えれば労働力が増える。技術が発展すれば生産性が上がる。資源を投入し、製品を生み出し、交易を拡大する。世界全体の生産量を増やす」
「なるほど」
「しかし、資源には限りがある。食料、土地、鉱物、エネルギー。すべてを無制限に与えることはできない」
神は光の板を指さした。
「だから、私は最適化する」
「最適化?」
「必要な場所に人間を配置し、不要な場所から人間を移動させる。生産性の低い個体は淘汰し、優秀な個体を残す。時には戦争を起こし、時には疫病を許容する」
アルトの表情が変わった。
「……人間を、消耗品として扱っているの?」
「そうだ」
神は何のためらいもなく答えた。
「人間は世界を成長させるための資源だ。必要であれば消費する。個体が失われても、集団が存続し、世界全体の生産性が向上するなら問題はない」
「……」
「お前も理解できるだろう。鉱山で働いていたのだから」
アルトの指が止まった。
「鉱山?」
「採掘量を増やすためには労働力が必要だ。労働者が死亡すれば、新しい労働者を補充する。個々の労働者に固執する必要はない」
神は続けた。
「お前が奴隷として働いていた鉱山も、世界の生産活動の一部だった。お前が死んでいたとしても、別の奴隷が補充されていただろう」
アルトは神を見た。
「じゃあ、ミナも?」
「誰だ?」
「僕にパンを半分くれた女の子だよ」
神は少しだけ視線を動かした。
「記録にある」
「彼女も消耗品?」
「そうだ。労働力としての価値が低く、維持するための資源が生産性を上回るなら、処分する判断も合理的だ」
アルトは黙っていた。
神は続ける。
「彼女一人の死によって世界の成長が妨げられたわけではない。むしろ、彼女に与えるはずだった食料を他の労働者に回せば、生産量が増加する可能性もある」
「……そう」
アルトはゆっくりと立ち上がった。
「君は、そういう考え方なんだね」
「間違っているか?」
「いや。考え方としては分かるよ」
神は微笑んだ。
「ならば話は早い」
「でも、一つ聞きたい」
「何だ?」
「世界の成長って、何?」
神の表情がわずかに変わった。
「世界の生産量、技術水準、人口、資源利用効率。それらを総合した指標だ」
「それが増えれば、世界は良くなっているの?」
「当然だ」
「どうして?」
「成長しているからだ」
アルトは首を傾げた。
「それ、答えになってる?」
神は黙った。
「例えばさ。世界中の人間が今の二倍働いて、今の二倍の食料と道具を作れるようになったとする」
「そうだ」
「でも、全員の労働時間も二倍になって、自由な時間が半分になったら?」
「生産量は増加する」
「うん。だけど、暮らしは良くなったのかな?」
「生産量が増えれば、消費できる財も増える」
「でも、消費する時間がないんだよね?」
神は答えなかった。
アルトは続ける。
「じゃあ、次。世界中の人間が幸せに暮らしているけど、生産量が十年間まったく増えなかったら?」
「停滞だ」
「それは悪いこと?」
「成長が止まっている」
「だから、悪いの?」
神は光の板を操作した。
「生産量が増えなければ、技術革新も資源の拡大も止まる。いずれ他の世界に遅れを取る。停滞は衰退につながる」
「他の世界?」
「いずれ分かる」
アルトはその言葉を聞き流した。
「じゃあ、君は成長そのものが目的なんだね」
「そうだ」
「誰のために?」
「世界のためだ」
「世界って何?」
「この世界のすべてだ」
「人間も?」
「当然だ」
「じゃあ、人間の幸せは?」
「世界の成長に寄与する範囲で考慮する」
アルトは少し笑った。
「順番が逆なんだね」
「何?」
「人間が幸せになるために世界があるんじゃなくて、世界を成長させるために人間がいるんだ」
「その通りだ」
神は当然のように答えた。
「個体の幸福より、全体の成長が優先される。個体は交換可能だ。世界が存続する限り、失われた個体は補充できる」
「じゃあ、君自身も?」
「何?」
「君も交換可能なの?」
神の表情が止まった。
「私は管理者だ」
「うん。でも、君がいなくなっても、別の誰かが世界を管理できるなら、君も交換可能だよね?」
「私の役割は特殊だ」
「それって、君が自分の価値を高く見積もっているだけじゃない?」
神の周囲の空気が揺れた。
しかし、何も起こらなかった。
この空間では、互いに攻撃することはできない。
神が定めた交渉の場。
ここでは、力ではなく言葉だけが意味を持つ。
「面白いことを言う」
神は静かに言った。
「だが、お前も同じだ。お前は自分の命を大切にしている。奴隷だった頃、死にたくないと願っただろう」
「うん」
「他人の命も大切だと言う。だが、それはお前の感情にすぎない。なぜ個体の命を優先しなければならない?」
アルトは答えた。
「優先しなければならない理由を、君は持っているの?」
「私は世界を成長させる責任がある」
「それは君が決めた目的だよね?」
「世界の管理者として当然の使命だ」
「誰が決めたの?」
神は答えなかった。
アルトは一歩近づいた。
「君は世界を成長させるために人間を使っている。でも、世界を成長させること自体が正しいって、誰が決めたの?」
神の目が細くなる。
「成長しなければ、世界は衰退する」
「衰退したら、どうなるの?」
「資源が失われ、文明が滅びる」
「文明が滅びたら?」
「世界の価値が失われる」
「その価値って何?」
神は答えなかった。
アルトはさらに尋ねた。
「ねえ。君は、世界が成長した先に何があると思っているの?」
「より高度な文明だ」
「その先は?」
「さらなる成長だ」
「その先は?」
「……」
「ずっと成長するの?」
神は沈黙した。
アルトは光の板を見た。
そこには、右肩上がりの成長曲線が描かれている。
「君の帳簿には、ミナの名前も載っているんだよね」
「そうだ」
「僕の名前も?」
「当然だ」
「じゃあ、そこに書いてある数字を教えてよ」
神は答えた。
「お前の生産性は、現在、極めて高い」
「そうじゃなくて」
アルトは神を見た。
「僕の価値はいくら?」
神は一瞬、黙った。
「お前は世界の生産性に大きな影響を与える存在だ。魔王を倒し、魔王の力を得た。現在の価値は計測不能に近い」
「へえ」
アルトは笑った。
「じゃあ、僕が明日死んだら?」
「世界の損失となる」
「僕が生きていることに意味があるんじゃなくて、僕が生きていることで世界が成長するから意味があるんだね」
「そうだ」
アルトは少しだけ目を伏せた。
「それなら、君と僕は分かり合えないかもしれない」
神は言った。
「お前は感情に支配されている」
「そうかもしれないね」
「世界全体を見ろ。個体の死に囚われるな」
アルトは顔を上げた。
「僕は、世界全体を見ているよ」
「何?」
「君が見ているのは、数字だ。僕が見ているのは、その数字の中にいる人たちだ」
アルトの声が静かに響いた。
「食べるものがなくて、泣いている子供。誰かを守るために、自分の食事を分ける人。明日も働けるか分からないのに、今日を生きている人。そういう人たちが集まって、世界を作っているんだよ」
「個体の感情に意味はない」
「じゃあ、君の感情にも意味はないね」
神は黙った。
「君は世界を成長させたい。僕は世界に生きている人たちを守りたい。どちらが正しいかは、まだ分からない」
アルトは窓の外を見た。
止まった世界。
空を飛ぶ鳥も、風も、すべてが静止している。
「でも、一つだけ分かったよ」
「何だ?」
「君は人間を消耗品だと思っている。でも、人間は道具じゃない」
神は答えた。
「道具かどうかは問題ではない。機能を果たすかどうかが重要だ」
アルトは振り返った。
「じゃあ、君にとって世界は何?」
「成長させるべきものだ」
「僕にとっては違うよ」
アルトは笑った。
「世界は、そこで生きている人たちのものだ」
神はしばらくアルトを見つめていた。
やがて、静かに言った。
「……交渉は続けよう」
「うん」
「お前の考えが世界にとって最善であると証明できるなら、私は管理方針を見直す」
「証明できなかったら?」
「お前を排除する」
アルトは肩をすくめた。
「分かった」
神は姿を消した。
世界が再び動き始める。
風が吹き、鳥が飛び、城の中で魔物たちが動き出した。
アルトは玉座に戻った。
「……神様か」
彼は空を見上げた。
「次は、もっと面白い話ができそうだ」
その頃、神の管理記録には、新たな項目が追加されていた。
【対象:アルト】
【分類:管理不能】
【備考:世界の成長という目的そのものに疑問を呈した】
そして、その下に一行。
【交渉継続】




