第15話「銀貨二枚の価値」
王都は、恐怖に包まれていた。
魔王が討伐された。
それは人類にとって、三百年ぶりの奇跡だった。
だが、喜びは長く続かなかった。
魔王を倒した少年が、新たな魔王になった。
その知らせが届いたからだ。
そして今、その少年は王都へ向かっていた。
アルト。
かつてEランクと判定され、騎士団から追放され、奴隷商人に売られた少年。
彼を見捨てた者たちは、まだ知らない。
自分たちが、どれほど愚かなことをしたのか。
王城の謁見の間。
騎士団長は、床に膝をついていた。
その隣には、かつてアルトを笑った騎士たちが並んでいる。
全員が鎧を着ていた。
しかし、その手は震えていた。
扉が開く。
黒い外套をまとった少年が入ってくる。
アルトだった。
「久しぶり」
その一言に、騎士団長の顔が引きつった。
「ア、アルト……」
「元気そうだね。団長」
「私は……私は、お前のことをずっと案じていたのだ」
アルトは首を傾げた。
「そうなんだ」
「そうだ! あのときは仕方がなかった! お前を養う余裕がなく、騎士団を守るためにも……」
「ねえ」
アルトが遮った。
「僕を売ったお金、何に使ったの?」
騎士団長は黙った。
「父さんの借金を返すって言ってたよね」
「そ、それは……」
「本当に借金なんてあったの?」
沈黙。
アルトは少しだけ笑った。
「そっか。答えられないんだね」
「待て! 私はお前の父親と親しかった! お前を引き取ったのも、その友情があったからだ!」
「うん。知ってるよ」
アルトは一歩近づいた。
「だから、僕は信じてたんだ」
騎士団長の額から汗が流れる。
「父さんが死んだあと、僕には君しかいなかった。君が僕を育ててくれた。だから、僕もいつか騎士になって、君の役に立ちたかった」
アルトは騎士団長の前で立ち止まった。
「でも、君は僕を売った」
「アルト! 頼む! あれは間違いだった!」
「間違い?」
アルトは首を傾げる。
「僕の人生を銀貨二枚で売ったことが?」
騎士団長は答えられなかった。
アルトが指を鳴らす。
騎士団長の鎧が、音もなく崩れ落ちた。
金属が細かく砕け、床に散らばる。
騎士団長は下着姿で床に倒れた。
「なっ……!」
「鎧って重いよね。君たちは、これを着ていれば強くなった気がするのかな」
アルトは騎士たちを見回した。
「君たちもそうだったよね」
かつて奴隷市場で笑っていた騎士たち。
「あいつはEランクだ」
「騎士になれるわけがない」
「鳴き声で魔物を倒すのか?」
そんな言葉を浴びせてきた連中だ。
「覚えてる?」
アルトが尋ねる。
「お、覚えていない……」
「そう。僕は覚えてるよ」
アルトが手を上げた。
騎士たちの剣が一斉に砕けた。
盾が砕けた。
鎧が砕けた。
そして、彼らの足元の床が波打った。
「ひっ……!」
「逃げないでよ」
アルトは笑顔だった。
「まだ話が終わってないんだから」
その中の一人が、必死に叫んだ。
「俺たちは命令に従っただけだ!」
アルトはその男を見た。
「命令?」
「団長の判断だった! 俺たちにはどうすることもできなかった!」
「そうなんだ」
アルトは少し考えた。
「じゃあ、僕が君たちに命令したら?」
「え……?」
「床に頭をつけて」
騎士たちは動かなかった。
アルトが指を下ろす。
全員の身体が、見えない力に押さえつけられた。
膝が床につく。
腕が床につく。
顔が床に押しつけられる。
「ぐっ……!」
「痛い?」
アルトは尋ねた。
「僕も痛かったよ」
騎士たちの身体が震える。
「毎日、殴られた。食事を抜かれた。眠れなかった。何度も逃げようと思った。でも、逃げられなかった」
アルトの声から、笑みが消えた。
「君たちは、あのとき笑ってたよね」
誰も答えない。
「僕が奴隷商人に売られるのを見て、笑ってた」
アルトは騎士団長に目を向けた。
「君もだよ」
騎士団長は顔を床に押しつけられたまま、泣き叫んでいた。
「許してくれ! 頼む! 私は悪かった! もう二度としない!」
「もう二度と?」
アルトは静かに繰り返した。
「君は、もう二度としないんだね」
「そうだ! 誓う!」
「僕には、二度目なんてなかったよ」
アルトの指が閉じた。
床が大きく震えた。
騎士たちの身体が宙に浮く。
そして、次の瞬間。
全員が床へ叩きつけられた。
悲鳴が上がる。
アルトは何度も繰り返した。
床に叩きつけ、浮かせ、また叩きつける。
鎧も、誇りも、騎士としての肩書きも、何一つ彼らを守らなかった。
「やめてくれ!」
「助けて!」
「もう許してくれ!」
アルトはその声を聞いていた。
かつて自分が助けを求めたとき、誰も振り返らなかったことを思い出していた。
「……そうだね」
アルトは手を下ろした。
騎士たちの身体が床に転がる。
「もういいよ」
安堵の表情が浮かびかけた、その瞬間。
「終わりにしよう」
アルトが指を鳴らした。
彼らの身体を包む空気が、一瞬だけ震えた。
そして、全員が動かなくなった。
次に連れてこられたのは、鉱山の監督官だった。
男はアルトの顔を見た瞬間、腰を抜かした。
「ひっ……!」
「久しぶり」
「お、お前……!」
「覚えてるよね?」
アルトは男の前にしゃがみ込んだ。
「僕のこと」
監督官は後ずさった。
「知らねえ……俺は知らねえ!」
「ミナのことも?」
男の動きが止まった。
「……!」
「小さな女の子だったよ。僕にパンを半分くれたんだ」
アルトは笑わなかった。
「君は、あの子が食べ物を盗んだって言った」
「仕方なかったんだ! 規則だった!」
「それで?」
「労働力にならない奴隷を処分しただけだ!」
その言葉を聞いた瞬間。
アルトの周囲の空気が震えた。
「……そっか」
監督官の足元に亀裂が走る。
「君にとって、あの子は労働力だったんだね」
「違う! 俺は命令されて!」
「ミナはね」
アルトは男の目を見た。
「僕に、ここから出られるかなって聞いたんだ」
監督官は黙った。
「僕は、いつか必ずって答えた」
アルトの声が少し震えた。
「約束したんだよ」
監督官が這いずって逃げようとする。
「待て! 頼む! 俺には家族がいる!」
アルトは立ち上がった。
「ミナにも、未来があったよ」
男の身体が宙に浮いた。
「やめろ! やめてくれ!」
「君は、あの子に何をしたの?」
「知らねえ! 俺は知らねえ!」
「嘘だ」
アルトが手を握る。
男の周囲に、無数の小さな石片が浮かび上がった。
それらが男の身体の周囲を高速で回転する。
風が唸る。
男は悲鳴を上げた。
「お願いだ! 何でもする! 金ならある!」
「お金?」
アルトは男を見つめた。
「ミナの命はいくらだったの?」
答えはなかった。
アルトの手がゆっくりと開く。
石片が一斉に男へ向かって飛んだ。
悲鳴は、一瞬で途切れた。
最後に、奴隷商人が連れてこられた。
アルトを銀貨二枚で買い取った男だ。
商人は、これまでの様子を見て完全に怯えていた。
「魔王様……どうか、どうかお慈悲を……」
「魔王様?」
アルトは首を傾げた。
「僕のこと、そんなふうに呼ぶんだ」
「はい! もちろんです! 私は魔王様の忠実な臣下になります!」
「そう」
アルトは商人の前に立った。
「僕をいくらで買ったか覚えてる?」
「そ、それは……」
「銀貨二枚だったよね」
「申し訳ありません! あのときは価値を理解しておらず!」
「じゃあ、君の価値も決めてあげる」
商人の顔が青ざめた。
アルトは懐から銀貨を二枚取り出した。
「これで十分だよね」
「魔王様! お待ちください!」
「君は僕を商品として扱った」
アルトは銀貨を床に置いた。
「だから、君も商品になってもらうよ」
商人の足元に、黒い魔法陣が広がる。
「何を……何をするつもりですか!」
「鉱山に送ってあげる」
「そんな!」
「食事は一日一回。働けなかったら食事抜き。君が決めた規則だよね」
商人は泣き叫んだ。
「許してください! 私は反省しています!」
「そう」
アルトは少しだけ微笑んだ。
「じゃあ、反省しながら働いてね」
黒い光が商人を包み込む。
魔法陣が閉じた。
男の姿は消えた。
謁見の間には、もう誰もいなかった。
アルトは窓の外を見つめた。
王都の空は、夕焼けに染まっている。
かつて、自分はここで笑われた。
Eランク。
無能。
役立たず。
銀貨二枚。
それが、彼らのつけた自分の値段だった。
アルトは手のひらを見つめた。
今、その手には世界を滅ぼせるほどの力がある。
「……ミナ」
小さく名前を呼んだ。
返事はない。
「約束、守れなかったね」
風が吹いた。
アルトは空を見上げる。
「でも、もう誰にも同じことはさせない」
その額に浮かぶ黒い紋章が、静かに輝いた。
人類を救った少年は、魔王になった。
そして、彼の最初の仕事は、かつて自分を踏みにじった者たちへの裁きだった。




