第9話 花壇とグラウンド 1
放課後、誰もいない廊下は、夕日でオレンジ色に染まっていた。
向陽は窓のところに寄りかかり、外の景色を眺めながら「この後……いったい何をすればいいんだろうなぁ」
となりにいたマルコは、両手を頭の後ろで組んで、気楽そうに言った。「何もすることがないなら、園芸部にでも行ってみたら?」
「だけど……」向陽はお昼のことを思い出し、目を伏せた。「今日のお昼、二人が楽しそうに話しているを見ちゃったし。俺が今から行ったら、邪魔になるんじゃないかな?」
ポーロが、呆れたように口を挟んだ。「おいおい、考えすぎだって。人間、自分が見たことだけを信じればいいんだよ。二人はただお喋りをしていて、それが楽しかった。それだけだろ?」
マルコもとなりで頷いた。「そうだよ。ただお喋りをしてただけなのに、君は頭の中で、まるで二人がデートでもしてるみたいに考えすぎなんだよ」
向陽はため息をひとつついた。
ブーー、ブーー。
そのとき、ポケットの中でスマホが強く震えた。向陽が不思議そうに画面を見ると、パッと目を丸くした。「えっ?高橋さん!?」
『きょうもお疲れ様です! このあと園芸部で新しいお花を植えるんですけど、向陽くんは来られますか?』
画面の文字を見た瞬間、向陽は何も考えずに、指を素早く動かして返信した。
『すぐ行きます!』
返信を送り終えると、彼は少し嬉しそうにスマホを仕舞った。それを見ていたポーロが、少し羨ましそうにブツブツと言った。「ちぇっ、後でちゃんと優依のところにも行ってやれよな~」
向陽は数歩走り出してから、パッと振り返って大声で言った。「わかってるって!!」
そう言うと、大慌てで園芸部の方へと走っていってしまった。ポーロは彼の背中に向かって「そっちで楽しんでこいよなー!」と叫んだ。
「何を楽しんでこいって?」
後ろから突然聞こえた声に、ポーロは心臓が止まるかと思うほどビックリして飛び上がった。振り返ると、いつの間にか優依が後ろに立っていた。
優依はポーロに一歩近づき、彼の服についているネームプレートをじっと見つめた。「ポ……ロ? 何これ、変な名前」
優依はそう言うと、そのラベルをペリッと手で剥がし取ってしまった。
外見はそっくりだけど、ポーロはそのとき、強い衝撃を受けて固まっていた。
目の前の優依を見つめていると、彼女の話し方や動きが、自分のいた世界の『優依』の姿と完璧に重なって見えたのだ。この懐かしい空気感に、ポーロの口元が自然と少し緩み、小さな笑みがこぼれた。
優依はその顔を見て、少し嫌そうに眉をひそめた。「何にやにやしてんのよ。気持ち悪い。で、どうするの? 来る?」
ポーロはハッとした。「え? どこに?」
優依はグラウンドの方を指さした。「陸上部よ。どうせ暇でしょ?」
ポーロはすぐにいつもの調子に戻って言い返した。「失礼だな。これでも僕は、やることがたくさんあって忙しいんだよ」
優依はフンと鼻を鳴らした。「あー、そうなんだー」
すると優依は、右手で電話の形を作って、耳にあてて誰かと話す真似を始めた。
「もしもし? 向陽社長の秘書さんですか? 私みたいな庶民のために、社長のスケジュールを二時間だけ空けてもらうことはできますかー?」
優依は芝居を終えると、ポーロをチラリと見た。「ほら、大社長。スケジュールが二時間空いたわよ」
ポーロは彼女の楽しそうな様子を見て思わずクスッと笑ってしまい、肩をすくめた。「それじゃあ、仕方ないね。行こうか」
優依は嬉しそうにニコッと笑って、ポーロの前を歩き始めた。
ポーロは、楽しそうに歩く優依の背中を見つめながら、心の中で静かに思った。
(分かっている……この世界の歴史を邪魔しちゃいけないって。だけど……一回くらいなら、いいよね……)
その頃、向陽は急いで園芸部に到着していた。
花壇のとなりでは、木村先輩がすでに腰を下ろして、新しいお花を植える準備をしていた。向陽の姿を見つけると、木村は嬉しそうに手を振った。「おっ、向陽! ちょうど良かった、こっちに来て手伝ってくれよ」
「はい!」向陽は頷いて、木村のとなりに並んで座った。
木村は「高橋さんはもうすぐ来るから、先に始めちゃおう」と言い、お花の植え方を丁寧に教えてくれた。向陽が言された通りにやってみると、木村は驚いた顔をした。「へえ、向陽、お前めちゃくちゃ筋がいいな! 天才じゃないか?」
向陽は照れくさそうに「ありがとうございます」と頭を下げた。
二人はお花を植えながら、何気ないお喋りを続けた。
「ところで、高校生活はどう? 楽しいか? 勉強とか部活とか」
向陽は土をいじりながら、少し言葉を濁した。「ええっと……まぁ、それなりに楽しいです。木村先輩も、俺たちと同じ学年ですか?」
木村は首を横に振った。「いや、俺は三年生だよ。来年にはもう卒業しちゃうんだ」
木村は少し肩の力を抜くようにして、はぁーとため息をついた。
「青春の三年間で、一度も恋愛ができないなんて、俺も相当ダメな男だよなぁ……」木村は急に向陽を振り返り、鋭い目で言った。「あ、そうだ。向陽は、好きな人とかいるのか?」
急な直球の質問に、向陽は心臓が跳ねて慌てて首を振った。「いえ、今はいないです……」
「そうか?」木村はニヤリと笑って、探るように聞いた。「じゃあさ、高橋さんはどう? あいつ、すごく可愛いだろ?」
向陽は顔が熱くなるのを感じて、何か言い返そうとしたけれど、上手な言葉が見つからずにただ曖昧な笑顔を浮かべることしかできなかった。
そんな向陽のピュアな様子を見て、木村は楽しそうに笑った。「あはは、そんなにマジな顔になるなよ」
向陽は地面の土を見つめながら、小さな声でぽつりと言った。「……自分でも、自分の気持ちがよく分からなくて」
ガラガラガラ――。
そのとき、遠くの方からバケツがぶつかる音が聞こえた。
二人が見ると、高橋さんが両手に大きなバケツを二つ持って、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
向陽はさっきの落ち込んだ気持ちを吹き飛ばし、急いで立ち上がって駆け寄った。「あ、手伝います!」
高橋さんはそれを見て、嬉しそうに微笑んだ。バケツを受け取るその瞬間、二人の視線がぴったりと重なった。
向陽は、高橋さんの瞳をじっと見つめた。彼女の目は、まるで澄み切った湖のようだ透き通っていて、夕方の光の中で、宝石よりも美しかった。向陽の頭は真っ白になり、時間が止まったみたいにぼんやりしてしまい、数秒が経ってやっと自分の呼吸を取り戻した。
外見はいつも通りだけど、彼が我に返ったときには、高橋さんはもう目をそらしていた。彼女は前にいる木村に向かってパッと手を振った。「あ、木村先輩!」
外見は何事もなかったかのように、いつも通りの笑顔で向陽の横を通り過ぎ、木村のところへ歩いていってしまった。
向陽はバケツを持って黙ってその場に立ち尽くし、彼女の背中を見つめて、心の中で少し切なくなった。(もしかして……こんなにドキドキして変なことばかり考えているのって、俺だけなのかな……)
三人が並んでお花を植えているとき、マルコが陰からその様子を見ていた。高橋さんと木村が楽しそうに話しているのに、マルコはグッと歯を食いしばり、彼は制服を整えて、普通の生徒のフリをして、慌てた様子でみんなの前に飛び出してきた。
「き、木村先輩! 大変です! 先生が探してました! 今すぐ教務室に来てほしいそうです!」
木村は驚いて顔を真っ青にした。「えっ、嘘だろ!? まさか……卒業の成績のことか……?」
彼は慌てて立ち上がると、二人に言った。「ごめん、ちょっと行ってくる! ここは二人に任せた!」
高橋さんは笑顔で手を振りながら「先輩、いってらっしゃーい」と見送り、向陽も呆気にとられながら「は、はい」と頷いた。
木村先輩が走っていってしまった後、あたりは急に静かになった。
突然二人きりになってしまい、空気 が少し気まずくなった。二人は何も話さず、ただ下を向いてそれぞれの土をいじっていて、静かすぎて息が詰まりそうだった。
するとそこへ、マルコがまた真面目な顔をして戻ってきた。
「あの、すみません、高橋さんですか……? さっき木村先輩が急いで行ってしまう前に、あなたに手伝ってほしいと頼まれました。園芸室のドアが壊れていないか、ちょっと確認しにいってもらえませんか? 今、学校の機材の記録を取っているんです」
高橋さんは少し不思議そうな顔をしたけれど、マルコの真面目な様子を見て、微笑みながら頷いた。「はい、分かりました。今すぐ行きますね」
高橋さんが歩いていってしまう背中を見つめながら、花壇のとなりには、ついに男二人だけが残った。
向陽はがっくりと頭を下げて、マルコに低い声で呟いた。「マルコ……俺、本当にどうすればいいか分からないよ……」
マルコはいつものふざけた態度を隠し、真面目な顔で向陽の肩を二回、力強く叩いて応援した。
「相手のことをもっと知りたいと思うなら、自分から声をかけるんだ。相手が先に話しかけてくれるのを、その場所で待っちゃダメだ。完璧な世界なら、向こうから興味を持って話しかけてくれるかもしれない。だけど忘れるなよ、相手だってお前と同じように、怖がったり、困ったりしてるんだよ」
そう言い残すと、マルコは向陽に励ますような視線を送り、そのままカッコよく去っていった。
しばらくして、高橋さんが手の汚れを払いながら、パタパタと走って戻ってきた。彼女はあたりをキョロキョロと見回して、不思議そうに聞いた。「あれ? さっきの生徒くんは?」
向陽は少しきまずそうに頭をかいた。「あ……なんか、急に用事ができたって言って、先に行っちゃったよ」
高橋さんは「そうなんだ」と言って、また向陽のとなりに座った。
まわりはまた、二人だけの世界に戻った。
向陽はとなりにいる彼女の綺麗な横顔を見つめながら、頭の中でさっきのマルコの言葉を何度も思い出していた。――『相手が先に話しかけてくれるのを待っちゃダメだ』。
彼は深く息を吸い込み、ドクドクと激しく動く心臓を必死で抑えながら、ついにゆっくりと口を開いた。
「あの……さ……。昨日、買ってた本って……どうだった……?」
その頃、優依とポーロの二人は、夕日が沈んでいくグラウンドに並んで立っていた。




