第10話 花壇とグラウンド 2
ウォーミングアップが終わると、今日の陸上部は100メートルのダッシュ練習を行うことになった。
列に並んで順番を待つ間、ポーロは隣で呼吸を整えている優依を見つめ、何気なさを装って声をかけた。「優依はさ……この先も、ずっと走り続けるつもりなの? プロの選手になるとかさ……」
優依は少し首を傾げて、真面目に考え込んだ。「うーん、どうだろ。でも走るのって楽しいし、私はきっとこれからもずっと走り続けると思うよ!」
ポーロは顔を背け、自嘲気味に口元を歪めると、自分にしか聞こえないほどの小さな声で呟いた。「あぁ……やっぱり、この世界の君も、答えは同じなんだな……」
スタートの合図とともに、優依は矢のように前方へと飛び出していった。
ポーロは列の中で、その姿をじっと見つめていた。夕日の中、必死に走る目の前の優依。しかしその独特なスタートの姿勢は、ポーロの視界の中で、記憶にある『未来の優依』の姿と重なっていく――。
あの凍りついた未来の光景でも、優依はこの姿勢でスタートし、そして次の瞬間、トラックの上に激しく倒れ込んだのだ。
ポーロの瞳から光が消え、その顔には言いようのない寂しさと痛みが浮かんでいた。
練習終わりの休憩時間、優依は地面に座り込み、豪快に水を飲みながらタオルで顔の汗を拭っていた。
ポーロは深く息を吸い込み、彼女の前へと歩み寄ってしゃがみ込んだ。「さっきのスタートのフォーム……独特だね」
「でしょ!」優依は顔を上げ、自信に満ちた誇らしげな笑顔を見せた。「これ、私が自分で編み出した秘密兵器なんだから! スタートの爆発力が上がって、もっと速く走れるようになるんだよ!」
ポーロはキラキラと輝く彼女の瞳を見つめたまま、一言も発さなかった。
優依は不思議そうに手元の水筒を揺らした。「どうしたの? 急に真面目な顔しちゃって」
ポーロは彼女を見つめた。未来のあの光景を思い出すと、時空干渉の禁忌などもうどうでもよくなり、焦るような口調で優依に告げた。「いいか、優依。そのフォームは直さないとダメ――――――%#&*@¥!』
優依の視点では、ポーロの言葉の後半が突然、耳障りな電子ノイズのような音に変わり、まるでシステムから直接削除されたかのように聞こえなくなった。
「え? 何て言ったの?」優依は不思議そうに眉をひそめた。
ポーロは諦めきれず、さらに大声で何度も繰り返したが、どれほど声を張り上げても、空気中には無情なノイズが響くだけだった。
優依は彼の奇妙な行動に少し腹を立て、ポーロの肩をバシッと叩いた。「何それ、宇宙語? 褒めたくないなら別にいいけど、変ないたずらはやめてよね!」
ポーロはその場に立ち尽くし、少し震える声で尋ねた。「今の言葉……本当に、一文字も聞こえなかったのか?」
優依はもう一口水を飲み、不機嫌そうに首を横に振った。
何も知らない優依を見つめながら、ポーロの心は無力感で満たされていた。世界の法則は、彼が彼女の運命を変えることを、残酷なまでに拒絶していた。
その頃、視線は園芸部へと戻る。
「あの……さ……。昨日、買ってた本って……どうだった……?」
向陽が切り出した不器用な話題に、高橋さんは一瞬驚いたものの、すぐに優しい笑みを浮かべた。
二人は花壇の隣でお花の手入れをしながら、楽しそうに話し始めた。会話が弾む中、高橋さんは向陽を振り返り、興味深そうに尋ねた。「向陽くんは? これから何かやってみたいこととか、将来の夢とかある?」
向陽は少しうつむき、照れくさそうに頬をかいた。「うーん……どうだろう……。正直、自分がこれから何をしたいのか、まだよく分からないんだ」
高橋さんは一株の花苗をまっすぐに直すと、向陽に向かって眩しい笑顔を向けた。「大丈夫だよ。きっと見つけられるって、私、信じてる! ずっと応援してるからね!」
彼女の真っ直ぐな応援を受け、向陽の頬は一気に熱くなった。恥ずかしさのあまり目線を合わせることができず、彼は慌ててうつむくと、手元のお花の植え付けに集中するフリをした。
その様子を、少し離れた草むらから見ていたマルコは、いい雰囲気の二人を見つめながら、満足そうに何度も頷いていた。自分の作戦が役に立ったと確信したのだ。
続いて、マルコは習慣のようにグラウンドの方へと視線を向けた。優依の練習の様子でも覗いてみようと思ったのだが、彼の視線はある一つの影に釘付けになった。
同じ制服を着た、見覚えのあるその後ろ姿。
「あ、あれって、ぽ……ポーロじゃないか!?」
マルコは自分の目を疑った。目をこすってもう一度よく見てみたが、見間違いではない。そこにいるのは間違いなくポーロだった。
「あいつ、なんであんなところにいるんだよ!」マルコは肝を冷やし、身をかがめて物陰に隠れながら、グラウンドの近くの茂みへと移動した。焦る気持ちを抑えながら、グラウンドにいるポーロに向かって必死に手を振り、こっちに来いと合図を送った。
ポーロはちょうどその時振り返り、マルコからのサインに気づいた。一瞬呆然としたものの、すぐに複雑な表情を隠し、隣にいる優依に小さな嘘をついた。「ちょっとトイレに行ってくる。待ってて」そう言うと、マルコのいる方向へと素早く走っていった。
ポーロが駆け寄ってくると、マルコはすぐに彼を物陰に引き込み、開口一番に問い詰めた。「お前! なんで」
言葉が終わる前に、ポーロは少し困ったようにマルコの言葉を遮った。「分かってる、言いたいことは分かるよ。でも、お前たちが廊下から去った後、優依に後ろから見つかっちゃったんだ。仕方がなかったんだよ」
その説明を聞いても、マルコの表情は険しいままだった。彼はポーロの目をじっと見つめ、低い声で尋ねた。「……お前、余計なこと言ってないだろうな?」
マルコの問い詰めるような視線に、ポーロの瞳が僅かに揺れた。
彼の脳裏に、先ほどのノイズで消された光景が蘇る。もし、自分が未来を変えようとしたことをマルコに話せば、確実に優依から引き離されるだろう。
ポーロは数秒間、沈黙した。そして結局、その事実を隠し、自嘲気味に苦笑した。「いや……何も……」
その答えを聞き、マルコは張り詰めていた肩の力を少し抜き、納得したように何度か頷いた。
「分かった。今日はひとまず、何事もなく乗り切ろう。」
そう言い残すと、二人は影の中で別れ、それぞれ違う方向へと歩き出した。
ポーロがグラウンドに戻った頃には、夕日は地平線を深く沈み、一面を濃いオレンジ色に染め上げていた。
遠くの花壇の側では、向陽と高橋さんが片付けを終え、笑顔で手を振り合いながら別れを惜しんでいる。そして目の前のトラックの脇では、優依が陸上部の数人の部員たちに囲まれて座っていた。何か面白い話題でもあったのか、優依は人目を気にせず声を上げて笑っている。
その活力に満ちた笑い声が遠くから響き、夕日の残光の中で輝く彼女の笑顔は、この世のどんな陰りも寄せ付けないほどに純粋で、眩しかった。
未来で失われるはずの、この上なく大切なその笑顔を見つめながら、ポーロは体の横で、自然と両手を固く握りしめた。
何も知らず、こちらを振り返って無邪気に笑う優依を見つめながら、ポーロの瞳から迷いと無力感は消え去っていた。代わりに宿ったのは、揺るぎない覚悟の光だった。
彼は心の中で、静かに、ある決意を下した。




