第四話 二人のランニング
放課後のグラウンド。優依はアキレス腱を伸ばしながら、何度も校舎のほうを気にしていた。心の中は焦りでいっぱいだ。
(向陽のやつ、遅いな……まさか、ばっくれたんじゃないでしょうね?)
そう思うと、優依はがっかりしてうつむき、自分の膝を指でつつきながらぽつりと言った。
「……そうよね。あいつの嫌がることを、無理にやらせるべきじゃなかったかも」
「おーい! 優依!」
聞き慣れた声が響いた。優依が勢いよく顔を上げると、向陽がのんびりと歩いてきながら、まぶしい笑顔で手を振っていた。
あいつの姿を見た瞬間、優依の胸はすっと軽くなった。しかし、嬉しくなったのが悔しくて、すぐに「ふんっ」とそっぽを向いて、思いきり無視した。
不思議に思った向陽が、足早に近づいてきて優依の顔を覗き込む。
「なんだよ? 俺の顔見た瞬間にそっぽ向いてさ」
優依はこれでもかと不機嫌そうな声を絞り出した。
「遅……遅すぎるわよ! てっきり来ないんだと思ったんだから」
向陽は苦笑しながら言った。
「おいおい、そんなに俺のこと信用ないわけ? ちゃんと約束しただろ?」
そう言うと、向陽もかがんで準備運動を始めた。
優依はまわりをちらりと見て、向陽を急かした。
「ほら、他の人はもう走り始めてるわよ。さっさと準備運動を終わらせて、走りに行くわよ!」
そう言う優依の口元は、嬉しさを隠しきれずに思わず緩んでいた。
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夕暮れの光がトラックに降り注ぐ中、二人はグラウンドを並んでゆっくりと走り出した。
向陽は隣を軽やかなステップで走る優依を見て、気になって尋ねた。
「そういえばさ、優依って本当に走るの好きだよな。小学校、中学校、そして高校になっても陸上部だしさ。走ることのどこにそんな魅力があるんだ?」
優依は少し考えてから、自信満々な笑みを浮かべた。
「そうね……何も気にせずに、風を感じながらトラックを駆け抜けるのって本当に気持ちいいの。それに、スタイル維持にもなるしね。それって素敵じゃない?」
「スタイル維持」という言葉を聞いて、向陽は無意識に優依の体を上から下へと目で追ってしまった。長年スポーツを続けている彼女のスタイルは、確かに文句のつけようがないほど引き締まっている。
「確かに、その通りだな……」向陽はぽつりと呟いた。
「どこ見てんのよ!?!」
優依の顔がすぐに真っ赤になり、一歩踏み込んで、自分の肩で向陽の肩を思いきり小突いた。
向陽は気まずそうに肩をさすりながら抗議した。
「そんなの俺のせいじゃないだろ! お前が自分で自慢げに言い出したんじゃないか!」
トラックを二、三周もすると、普段運動不足の向陽の体力は目に見えて削られ、優依のペースについていけなくなってきた。
彼は激しく息を切らしながら、優依に向けて手を振った。
「優依……はぁ……先に行っていいぞ。俺、体力ないから……」
それを見た優依は、黙ってスピードを落とした。向陽に合わせるようにペースを落とし
「……別に、今日はたまたまゆっくり走りたい気分なだけだし」
汗だくで息も絶え絶えな向陽を見て、優依は心配しつつも、照れくさそうに言葉を続けた。
「もう、本当に走りたくないなら、最初からそう言ってくれればよかったのに」
向陽は鼻をすり、優依のほうを振り返った。
「いや……優依が楽しそうに走ってるのを見てさ。せっかくだから、お前が好きなものを俺も知っておくのも悪くないかなって思ったんだよ」
優依の頬は一気に赤く染まった。彼女は小走りになりながら、うつむいて小さく頷き、言葉を失ってしまった。
照れくさい空気を誤魔化すように、優依はそのまま話を続けた。
「それより、向陽も自分が本当に好きなことを見つけたらどうなの?」
向陽は不思議そうに聞き返した。
「本当に好きなこと?」
「そうよ!」優依は頷いた。「このままずっと家でゲームと漫画ばっかりの人生でいいの? まぁ……それでも別に悪くはないんだけどさ」
「やりたいことか……何があるかな……」向陽は顔を上げ、夕焼けで黄金色に染まる空を見つめながら、考えにふけった。
――ドンッ!
「うわあっ!?」
空に見とれて上の空だった向陽は足元がおろそかになり、派手にずっこけてトラックに突っ伏した。
優依はピタッと足を止め、向陽の擦りむいた膝を見て、心配と呆れが混ざったため息をついた。
「もう……! あんたってやつは! 空なんか見て考え事してるから転ぶのよ。そこでじっとしててね、保健室から薬を取ってくるから。どこにも行っちゃダメよ!」
そう言い残すと、優依は急いで体育準備室のほうへと走っていった。
優依が去った直後、近くの茂みから一人の男が慌てて飛び出してきた。
「 何やってんだお前、大丈夫か!?」
ポーロは焦った様子で向陽の横にしゃがみ込み、手慣れた様子で向陽の肩をマッサージし始めた。周囲を見回してから声を潜めて、怪しげに耳打ちした。
「おい、いいか! 今日は商店街のクレープが特売日だ。優依が戻ってきたら、すかさずクレープに誘え! これは大チャンスだぞ!」
そう言うと、ポーロは向陽の肩をポンと叩き、また風のように茂みへと消えていった。
「ま、待てよ……」向陽はわけが分からず、神出鬼没な未来の自分を引き留めることすらできなかった。
しばらくして、優依が消毒液と包帯を抱えて、息を切らせながら走ってきた。
向陽は一瞬、呆然としてしまった。
普段はうるさくてお転婆な優依が、今はうつむいて自分の手当てを驚くほど優しくしてくれている。夕暮れの光が彼女を照らし、動くたびに数本の髪が頬にこぼれ落ちていた。なぜだか向陽は胸のドキドキが速くなるのを感じ、気まずくなって視線をそらした。
気恥ずかしさを隠すため、彼は先ほどのポーロのアドバイスを思い出し、口を開いた。
「あのさ……手当てしてくれてありがとな。その、お礼と言っちゃなんだけど……放課後、クレープでもおごらせてくれないか?」
優依の手の動きがぴたりと止まった。彼女は向陽を見上げて、ふっと微笑んだ。そしてまた手当てに戻り、少しクスッと笑いながら言った。
「いいわよ、そんなの。うちらの仲で、いちいちお礼だなんだって水臭いでしょ?」
向陽も、彼女のその当たり前のような態度に思わず笑みがこぼれた。「それもそうだな……」
「ただ――」優依はわざとらしく言葉を伸ばし、包帯を巻き終えると、少しいたずらっぽく向陽に向かって微笑んだ。「今週の昼休み、毎日私に牛乳を一本買ってきてもらうからね!」
向陽は頭をかきながら、苦笑いして返事した。「はいはい、分かりましたよ」
傷の手当てが終わり、向陽がグラウンドのベンチで休んでいると、優依が歩み寄ってきて、手の埃をパンパンと払いながら笑顔で尋ねた。
「で? 今日走ってみて、少しは走るの好きになった?」
向陽は包帯の巻かれた足を動かし、ストレートに答えた。
「いいえ!」
それを聞いた優依は、すぐさま不満げに頬を膨らませ、唇を尖らせて向陽をジロリと睨みつけた。
隣から伝わってくる恐ろしい気配を察知し、向陽は生存本能全開で慌てて前言を撤回した。
「あ、いや……まぁ、悪くはなかったかな! 普通にあり!」
その合格ラインギリギリの答えを聞いて、優依はぱっと表情を明るくして笑った。彼女は向陽を数秒間見つめた後、この上なく可愛い笑顔を咲かせた。
「うん! そうでなくっちゃ! じゃあ……これからもいっぱいいっしょに走りに来てよね!」
二人が荷物をまとめ、一緒に校門へと向かおうとしたその時、向陽は遠くから見覚えのある人影が歩いてくるのに気づいた。彼の体はガチガチに固まり、急に緊張し始める。
「あ、あれって……高橋さん?」
高橋も向陽に気づき、少し離れた場所で足を止め、笑顔で手を振って挨拶をしてくれた。
向陽は少しあわてながら駆け寄った。「高橋さん! こんなところでどうしたの?」
高橋は手に持った数枚のチラシをひらひらと動かし、少し恥ずかしそうに微笑みながら言った。
「ちょうど園芸部のチラシを配り終えて、これから帰るところだったの。ほら……うちの園芸部って、今二人しかいないから。もう少し人数が増えてくれたら嬉しいな、なんて思って……」
高橋の困りつつも優しい笑顔に見とれてしまいそうになりながら、向陽は慌てて隣にいる幼馴染を紹介した。
「あ、そうだ! こっちが優依。俺の幼馴染なんだ」
「こんにちは、優依です」優依は小さく会釈した。
しかし、目の前で楽しそうに話す二人と、向陽が高橋と話している時だけ見せる嬉しそうな表情を見て、優依の顔から笑顔が消えていった。いつの間にか、言葉にできないモヤモヤとした痛みが胸にこみ上げてくる。
優依はカバンのストラップをギュッと握りしめ、突然二人の会話を遮るように言った。
「あの……私、急用があるの思い出しちゃった! 先に帰るね!」
向陽は驚いて振り返った。「え? 待てよ、優依! 一緒に帰るんじゃなかったのかよ?」
「また明日ね!」
しかし優依は振り返ることもなく、背中を向けたまま手を振って、足早に走り去ってしまった。
それと同時に、少し離れた茂みの陰。
優依の去り行く後ろ姿を見て、ポーロは地団駄を踏んでいた。「あちゃあ――優依のやつ、素直じゃないなぁ!」
隣でマルコが冷酷に眼鏡を押し上げ、「自分の気持ちを素直に伝えることもできないなぁ、」
ポーロはむっとして反論した。「あれが優依の可愛いところで、守ってあげたくなる部分だろ!」
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グラウンドの脇、黄金色の夕暮れが残された二人の影を長く伸ばしていた。
向陽は優依が去った方向を見つめ、それから目の前の高橋へと視線を戻した。この瞬間、彼の思考は完全にパニック状態に陥っていた
(待て、今二人きりだぞ!?)
(一緒に帰ろうって誘うべきか?)
(それとも……ジュースでも飲みに行かない?って誘う? もしくは園芸部のことを聞くか?)
(やばい、心臓が止まりそうだ。今声かけたら変に思われないかあああああ!?)
脳内で無数の大膽なシナリオが駆け巡った末、向陽は深く息を吸い込み、極限の緊張の中で口から飛び出したのは――
「じゃ、じゃあ、俺、先に帰るわ!」
高橋は一瞬きょとんとしたが、すぐに彼のそのガチガチな様子がおかしくなったようだ。彼女はクスッと微笑み、大らかに向陽に手を振って、優しい声で別れを告げた。
「うん、また明日ね」
高橋が微笑みながら去っていく後ろ姿を見送りながら、その場に残された向陽は、自分を殴りたい衝動に駆られていた。
そして、茂みの陰からその一部始終を目撃していたマルコとポーロは、同時に手を伸ばし、パァンと自分の顔を強く叩いた。そして同じタイミングで、絶望のため息をもらしたのだった。
「ヘタレだな……」」




