第二章:マルコ・ポーロの賭け
丸一日の精神的拷問を終え、すっかり諦めの境地に達したひなたは、目の下に濃いクマをこしらえたままノートのページを「ビリッ」と破いた。それを二等分にし、それぞれ『マルコ』『ポーロ』と書きなぐると、目の前に並ぶ二人の男の胸元へ乱暴に貼り付けた。
「いいか、俺たち三人とも見た目が完全に一致してて名前も同じだからな。紛らわしいから、これからはとりあえずこれで区別する!」
ラベルを貼られたマルコとポーロは、互いに顔を見合わせて腕を組み、特に異論はなさそうな様子だ。
ひなたはこめかみを揉みほぐしながら、現状の整理を試みた。
「……つまり、まとめるとだ。あんたたちがわざわざ時空を超えてここまで来たのは、本当に俺の恋愛をサポートするためだけ、ってことでいいんだな?」
「「その通り!!」」二人の声がピタリと重なる。
ひなたはため息をひとつついた。
「だけど、そんな必要ないだろ? どうせ俺の選択肢なんて、大方あんたたち二人の未来世界のどっちかになるんだからさ。いっそ俺自身に選ばせてくれよ。その方がお互いフェアじゃないか?」
その言葉に、マルコとポーロは顔を見合わせた。ポーロは少し気まずそうに頭を掻いた。
「お前の言うことも一理あるんだけどよ、問題は……」
「問題は……?」ひなたが片眉を上げる。
マルコはそこにはない眼鏡を押し上げる仕草をしながら、極めて冷酷なトーンで衝撃の事実を告げた。
「実は……我々の世界の量子計算によると、外部からの干渉が一切ない場合、この正史世界のひなた、お前は最終的に『生涯独身』で終わる」
部屋の空気が一瞬で凍りついた。
次の瞬間、隣のポーロが堪えきれずに吹き出した。
「ぶっははは! 生涯独身……ハハハ! さすが!」
「な、何言ってるんだよ! 俺がそんな悲惨なわけないだろ!」
ひなたは顔を真っ赤にして猛抗議した。
マルコはひなたの抵抗を無視し、淡々と指を一本立てた。
「もし信じられないと言うなら、明日は丸一日、我々は一切干渉しない。そこでひとつ賭けをしよう。明日、もしお前が自分から高橋さんに話しかけることができたら、我々は潔く身を引き、それぞれの未来へ帰る」
それを聞いたポーロが、すぐさま不服そうに大声を上げた。
「『我々』? 違うだろ! なんで俺まで一緒に退場しなきゃならないんだよ! 絶対嫌だね!」
マルコの冷たい視線を浴びながら、ポーロはひなたの方を振り向き、その両肩を掴んで親の仇のように激しく揺さぶった。
「おい、俺! よく聞け! 優依は本当に最高に良い子なんだ! 絶対に諦めるな!」
ひなたは目を回しながら、気まずそうに視線をそらした。
「はぁ……でも、あいつ普段は俺に対してすげえ冷たいっていうか、呆れてる感じだし……」
マルコが一歩前に出て、温度差の激しいポーロを引き離し、冷ややかにパチパチと手を叩いた。
「よし、無駄話はそこまでだ。とにかく、賭けは成立ということでいいな」
翌朝、学校へと続く通学路に朝の光が降り注いでいた。優依はいつものように、ひなたの隣を歩いている。
ひなたは足元の小石を蹴っている優依を見つめ、何でもない風を装って探りを入れてみた。
「なぁ、優依。お前ってさ……この世界に別の並行世界が存在する、とか信じるか?」
優依は足を止め、エイリアンでも見るような目でひなたを振り返った。
「はぁ? あんた、夕べゲームのやりすぎで脳みそバグったの?」
ひなたは乾いた笑いを浮かべ、慌てて言い訳をでっち上げた。
「あ、いや……そうじゃなくてさ、最近そういうゲームをやったんだよ。別の時空から来た未来人が、自分たちの世界の消滅を防ぐために、主人公の恋愛を手伝いに来る、みたいなストーリーで……」
優依はそれを聞くと、うつむいて少し考え込み、納得したように頷いた。
「ふーん……。まぁ、消えかかってる別のルートの世界があるなら、それはちょっと可哀想な気もするけど。でも、私だったらそんなお節介、絶対に断るね!」
そう言うと、彼女は突然ひなたに顔を近づけ、警告するように頬を膨らませた。
「それから! 一日中ゲームばっかりやってちゃダメだからね! あ、そうだ! あんた、新学期の部活、まだ決めてないでしょ?」
「え、あ、うん……」
優依は目を輝かせ、期待に満ちた表情で彼を見つめた。
「だったら、私と一緒に陸上部に入らない?」
「り、陸上部!?」
ひなたは一瞬で冷や汗をかき、慌てて両手を振った。
「勘弁してくれよ! 俺の運動神経なんてお前も知ってるだろ、無理に決まってるって……」
優依の瞳の輝きがすっと消え、不機嫌そうにぷいっと背を向けた。そして、小さな声でぼそりと呟いた。
「ほんと、意気地なし……。少しは自分に自信持ちなよ」
言い残すと、彼女はもうひなたを待つことなく、足早にパタパタと学校の方へ走っていってしまった。
「はぁ……」
ひなたは遠ざかっていく優依の背中を見送りながら、深いため息をつき、トボトボと一人で校門へと向かうしかなかった。
校舎に入り、ひなたが目的もなく廊下をうろついていると、角を曲がったところで突然、あの見覚えのある黒髪の少女が目の前に現れた。
あの人……高橋さん、だよな?
ひなたの心臓がドクンと跳ねた。
昨夜、マルコやポーロと交わした賭けが頭をよぎる。ただ一言、声をかけるだけだ。何が難しいって言うんだ?
ひなたは深く息を吸い込み、彼女の方へと足を動かした。
しかし、距離が縮まるにつれて、周囲の喧騒が遠のいていくような錯覺に陥る。時間と空間がその瞬間だけ極端にゆっくり進んでいるように感じられ、ひなたの心臓の鼓動と脳内の思考だけが、異常な速度で加速していた。
もし……もし不審者だと思われたらどうしよう?
俺なんて大して格好よくもないし、こんな奴に話しかけられても、彼女が興味を持つわけない……。
いや、違う! 余計なことを考えるな! 近づいて、普通に「やあ」って言えばいいだけだろ!
……いや、でも、もう少し後にするか? 次、絶対に……。
ひなたが脳内で激しい葛藤を繰り広げ、ようやく高橋の目の前までたどり着いたその時
『やあ、こんにちは!』ひなたが話しかける。
高橋が振り返り、天使のような微笑みを浮かべる。『あ、こんにちは! あなた、昨日ハンカチを拾ってくれた人ですよね? 本当にありがとうございました! お礼に、何か飲み物でもご馳走させてください!』
『はは、じゃあお言葉に甘えようかな』爽やかな笑みを返すひなた。
「——ちょっと! ひなた!」
背後から突如として響いた鋭い声が、ひなたをピンク色の妄想の泡から力ずくで現実へと引き戻した。
「うわぁっ!?」
ひなたはビクッと身体を震わせ、硬直したまま振り返った。「あ……優依か……ごめん」
いつの間にか後ろに立っていた優依は、少し離れた場所にいる黒髮の少女へと視線を走らせた。そして、軽蔑の入り混じった冷たい目でひなたを睨みつけ、不満そうに頬を膨らませた。
「ふーん……あんた、朝っぱらから何ボーッと人のこと凝視してんのよ。……サイテー、気持ち悪い」
「あ! 違う! 誤解だって!」ひなたは慌てて手をバタつかせ、必死に弁明した。「ただ、通りすがりに、たまたま目に入っただけだから!」
優依は片眉を上げ、疑いの眼差しを向ける。「へぇ……本当に?」
「本当だって!」ひなたは頭を抱え、一刻も早くこの場から逃げ出したい一心で言った。「この話はもう終わり! ほら、教室に行こう、遅刻する!」
彼は優依の背中を押すように歩き出したが、どうしても諦めきれず、去り際に出口に向かう高橋の後ろ姿を盗み見た。心の中で自分に言い聞かせるように。
大丈夫だ……放課後までにはまだ時間がある。その時にまたチャンスを見つければいい。
昼休みになり、ひなたは一人で廊下を行き来しながら、脳内で何百通りものナンパテクニックをシミュレーションしていた。
今度こそ、絶対にうまくいく!
心の中で自分を鼓舞したものの、すぐにまた別の問題にぶち当たった。
だけど……一体どこに行けば彼女に偶然会えるんだ?
その時、校舎の隅にある人気の無い薄暗い曲がり角を、見覚えのある影が通り過ぎた。
ひなたは目を丸くし、危うく声を上げそうになった。急いで駆け寄り、声を潜めて低く唸る。
「マルコ! お、お前、なんでこんなところにいるんだよ!? 万が一、学校の人間に見つかったらどうするんだ!」
『マルコ』の紙を貼られた男は冷静に
「落ち着け。我々の賭けの期限は、放課後に下校するまでだ。ヒントをくれてやる。放課後、図書室に行け。そこで彼女に会える。それだけだ」
それだけを言い残すと、マルコは鮮やかなターンを決め、まるでエージェントのように素早く階段の向こうへと消え去った。
「図書室、か……」ひなたは拳を握りしめ、ぽつりと呟いた。
放課後、夕日が図書室の木の床を黄金色に染め上げていた。
本棚の影に隠れたひなたの視線の先には、窓際の席に座って静かに本を読んでいる高橋の姿があった。夕日に照らされた彼女の輪郭は柔らかく、まるで一枚の絵画のように美しかった。
よし、話しかけるだけだ……そんなに難しいことじゃないはず。
ひなたは心の中で自分に言い聞かせた。
しかし、一分が過ぎ、二分が過ぎ、三分が過ぎる……。ひなたの足はまるで鉛でも流し込まれたかのように重く、どうしても一歩が踏み出せなかった。
ようやく全身の勇気を振り絞り、奥歯を噛み締めて一歩を踏み出そうとしたその瞬間——高橋がパタンと本を閉じ、席を立って帰る支度を始めてしまった。
ひなたは内心でパニックを起こし、身体が本能的に後退した。結果として、コソコソと図書室の入り口のドア付近まで逃げてきてしまう。
「ガラッ——」
図書室の引き戸が開き、ちょうど出てきた高橋と、入り口で硬直していたひなたが真正面からはち合わせた。
ひなたの喉は完全に詰まっていた。目の前にいる女神を前に、頭の中が真っ白になる。「あ……あの……お、」
口をごもごもと動かすだけで、結局まともな言葉は一言も出てこなかった。高橋は少し驚いたようにその綺麗な目を見開き、目の前の奇妙な行動をとる男子生徒を見つめた。だが、すぐに小さく会釈を返すと、少し不思議そうな表情を浮かべたまま、廊下の向こうへと通り過ぎていった。
廊下には、敗北のオーラを全身から放ち、大きなショックを受けたひなたが、まるで化石のように立ち尽くしていた。
その頃、校舎の屋上のフェンス際。
「やれやれ……本当に意気地のない奴だな」
ポーロはどこからか調達してきた双眼鏡を覗き込み、図書室の入り口の様子を観察しながら、呆れたように首を振っていた。
隣に立つマルコは、すべてを見越していたかのように、ふっと鼻で笑った。
「最初から分かっていたことだ。高橋さんは元々かなりの恥ずかしがり屋で内向的な性格だ。主動的に話しかけるなど、根本的に不可能なミッションなのだよ」
ポーロは双眼鏡を下げ、冗談めかして愚痴をこぼした。
「本当に面倒くさい性格だな、それに比べりゃ、やっぱり優依みたいに、心に思ったことをストレートに口に出す小細工なしの女の子が一番最高だろ」
マルコは何も答えず、その視線を何気なく夕暮れ時の校庭へと向けた。そこでは、陸上部の新入部員たちがウォーミングアップのランニングを行っていた。
「ほう?」マルコが少し眉を上げ、下を指さした。「校庭を見てみろ。あそこで走っているの、優依じゃないか?」
その名前を聞いた瞬間、ポーロの顔から笑みが消えた。猛然と双眼鏡を校庭の方向へと向ける。
レンズの向こうでは、優依が汗を流しながら、真剣な表情でトラックを走っていた。正式に陸上部へ入部するための練習だ。マルコは首を巡らせ、硬直しているポーロの横顔を冷ややかに見つめ、どこか含みのあるトーンで問いかけた。
「どうやら、どの並行世界であっても……|優依は最終的に陸上部を選ぶようだな。本当に、それでいいのか? ポーロ」
ポーロは、一言も発しなかった。
マルコはそんな彼を深く一瞥したが、それ以上は何も言わず、ただポーロの肩をぽんと叩いて、一人で静かに屋上を後にした。




