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烙印の子  作者: あねむん
《第五章》
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[EP.5-14]無謀なる虚像、その先へ

シレイは鉤爪付きのグローブを握り直した。

肺いっぱいに湿った空気を吸い込み、露出した岩肌へ腕を振り抜く。

――ガギンッ。


火花にも似た硬質な音が洞窟へ反響したが、爪は食い込まない。

鏡面のような壁に弾かれ、甲高い音を残して滑り落ちる。


思わず舌打ちが漏れる。

目の前にそびえる壁面は、まるで巨大な鏡だった。

滝の飛沫を浴びた表面は青白く濡れ、幾重にも重なった反射が距離感すら狂わせる。


「気味悪ぃ場所だぜ……」


今度は少し角度を変え、力任せではなく隙間へ引っ掛けるようにもう一度打ち込む。

――ガギッ。


鈍い感触、だが浅い。

少し力を込めただけで爪が外れた。


「面倒くせぇ!」


竜人の膂力ですら、この壁はまともに噛ませてくれない。

まるで登ることそのものを拒んでいるようだった。


シレイは壁全体を見渡した――完全な絶壁ではない。

鏡面に覆われた壁の中に、ところどころ露出した岩肌が残っている。

指先ほどの窪み、鉱石層の隙間に残されたわずかな出っ張り。

――それらを繋げば登れなくはない。


(一気に上まで抜けるしかねぇ!)


そう判断した瞬間には、身体が動いていた。

竜人特有の強靭な筋力で、ほとんど跳躍するように高度を稼いでいく。

一気に2m近く高度を稼ぎ、左手を岩棚へ掛ける。

下から見れば、それは壁を登るというより獲物を追う獣だった。


「無理はするな!」

「するかよ!」


だがその直後、足元の岩が僅かに崩れた。


それでもシレイは迷わない。

反射的に身体を捻り、別の足場へ体重を移す。

まるで崩れることまで予測していたかのような動きだった。


下から見守っていたギーグが腕を組む。


「あの様はまるでヤモリじゃな」

「……シレイも魔物にだけは言われたくないと思うぞ」

「じゃが、止めても聞かんじゃろう?」

「……それもそうだ」


シレイは呼吸を整えながら、一つひとつ足場を拾うように登っていった。

鉤爪を岩へ打ち込んだ瞬間、違和感が走った。


「……なんだ?」


爪先から伝わる感触がおかしい。

シレイは足場へ体重を預けたまま、鉤爪グローブへ視線を落とす。

鉤爪グローブの先端が赤黒い光沢を帯びていた。

血が乾いたような――濡れた鉄の反射ではない、表面そのものが変質していた。


登る途中、何度も触れた小さな水溜まり――あの水だ。

水に触れた箇所から、ゆっくりと何かが侵食している。


嫌な予感が背筋を這った。

咄嗟に腕を見る。


緋色の鱗。その一枚が、ほんの一枚だけ。

鉱石のような鈍い光を帯びていた。

もし同じことが身体の中で起きたら。

もし腕が、足が、全身が、――石になったら。


(やべぇ、俺の体にも……)


心臓が嫌な音を立てる。

だが、立ち止まる方が危険だ。

戻るにしても登るにしても、結局動くしかない。

ここで迷っている時間こそが命取りになる。


「くそったれ、ちまちましてたら取れるもんも取れねぇだろうが!!」


怒鳴るように叫び、自分を無理やり前へ押し出す。

やがて崖の中腹を越えた頃。 滝の音より機械的な音が勝ってくる。


ガゴンッ!!

ガギィィィィィィッ!!

ゴォォォォォォォォン……!!


巨大な歯車が噛み合うたび、鉄塊が互いを削り合う。

その振動は空気だけでなく、足場を伝って骨の芯まで響いてきた。

歯車は滝の裏側へ続き、そのさらに上へと繋がっている。


これに飛び移れば、目的のブツの近くまで行ける――


「ええい、ままよ!」


恐怖を振り払うように、歯車に飛び乗る。

回転する鉄塊を足場にしながら次へ、さらに次へ飛び乗る。

噛み合う機構を足場にしながら高度を稼いでいく。


宝石はもう近い。

手を伸ばせば届きそうな距離にさえ見える。


だが――ガゴンッ!!

ひときわ大きな衝撃が洞窟を震わせた。


足場がわずかに揺れ、シレイは反射的に体勢を低くし足元を確認する。

その拍子に視線が落ちる。


「……あ?」


レイヴンたちの姿が見えた。

だが一人ではない。


水面にも、壁にも、無数のレイヴンとギーグの姿が映り、どれが本物なのか分からない。

距離感が狂う。上下が消える。滝が吠える。歯車が唸る。

脳が答えを出そうとした瞬間、景色がさらに歪む。

歯車が空を回っているように見えた。

滝が天へ流れているようにも見えた。

鏡面世界が脳を掻き回す。


「っ……!」


立っているはずなのに落ちている気がする。

長く見てはいけない。

本能が警鐘を鳴らしていた。


このまま見続ければ、自分がどこに立っているのかすら分からなくなる。

焦りが胸を掠めた、その時だった。

視線の端で何かが揺れた。


腰に結んだ命綱。

無数に増えた景色の中で、たった一本は、それだけは真っ直ぐ下へ続いている。

それだけはレイヴンと繋がっている。

それだけは現実だった。


シレイは目を見開いた。

青白く光る宝石が、もう手が届く。

ここまで来た。

ここまで登った。

なら――取って戻る、ただそれだけだ。


下ではレイヴンが何か叫んでいる。

聞こえない。 いや、聞こえたところで止まれない。

シレイは大きく息を吸った。


「うおおおおおおおっ!! 俺はっ!!」


歯車を蹴る。


「竜になるんだぁぁぁぁぁぁっ!!」


青白い光へ向かって、身体が宙へ躍り出る。

伸ばした指先が宝石へ届き、もぎ取る。


飛び込む先はロープの先へ。 レイヴンのいる地上へ。

それだけしか考えていなかった。 自殺行為に等しい。

滝壺が口を開いていた。


だが、腰のロープが張った。


――ギンッ!!


下ではレイヴンが歯を食いしばってロープを引いている姿が。

ギーグが杖を突き出して詠唱を唱えていた。


「落ちるなよっ!!」


足元に浮かび上がる重力陣が青白く明滅した。


「ぬぅぅぅぅっ……!!」


空気が軋む。

落下するシレイの身体が、一瞬だけ見えない手に掴まれたように減速した。

それでも勢いは殺し切れない。

竜人の巨体は振り子のように岩壁へ叩きつけられながら滑り落ち、最後は地面を転がった。


「……ぐ、ぁ……」


全身が痛い。

右手だけは離していなかった。


拳をゆっくり開く。

そこには青白い宝石があった。


その瞬間だった。

洞窟が静かになっていく。

シレイの握っている宝石も徐々に光源を失っていく。

そして残るはレイヴンたちのランプしか光はなかった。


滝の音が小さくなる。

歯車の唸りが遠ざかる。


ギィ……。ギィィ……。


やがて止まった。

……なんだ?」


レイヴンが顔を上げる。

滝壺の水面が膨らんでいた。

水位が上昇している。


まるで洞窟全体が水で満たされ始めたように。

ギーグの顔色が変わる。


「まずい! 脱出じゃ!!」


レイヴンは即座に動いた。

シレイを無理やり肩へ担ぐ。

完全に意識は飛んでいないが、

まともに歩ける状態ではない。


「おい、歩けるか!」

「へへ……取ったぜ……」

「馬鹿野郎!」


レイヴンは怒鳴った。

だがその声には安堵も混じっていた。


ギーグが先導する。

三人は来た道を全力で引き返した。

背後では、静かだった水が轟音を上げ始めていた。


海鏡窟が、まるで宝を奪われたことに怒るかのように。

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