旧世界の残響と人間性の欠片
新世界「第零特区」の混乱を鎮めたマリアの歌声。その調律によって次元熱の危機は去りましたが、それは同時に、新たな火種を呼び寄せる信号でもありました。平和への歩みが進む一方で、急激な変化を拒絶し、かつての「単一で秩序あった世界」を盲信する者たちが、地下深くで蠢き始めていたのです。
虚無を望む回帰主義者
第零特区の地下、旧地下鉄の廃線跡に、機械の仮面を被った男と、十数名の信奉者たちが集っていました。彼らは自らを「回帰主義者」と呼び、マサトが行った宇宙のアップデートを「神への冒涜」であり「不浄な混濁」であると断じていました。
「見ろ、この歪んだ空を。機械と魔法、理性と迷信が混ざり合い、世界は純粋さを失った。我々が成すべきは、この継ぎ接ぎの現実を一度解体し、かつての美しい理へと回帰させることだ」
仮面の男が掲げたのは、黒く脈動する鉱石の破片でした。それはマサトがアップデートを完了した際、処理しきれずに切り捨てられた「旧世界の物理法則」が結晶化した、極めて危険な物質でした。これを特区の重要拠点に打ち込めば、局所的に旧世界の法則が強制発動し、新世界の構造と衝突して大爆発を引き起こします。
「榊原マサトという名のサーバー。彼の中に眠るバックアップを強制起動させれば、世界は再び書き換えられる。彼の人間性という不確定要素を排除すればな」
静かなる浸食
その頃、マサトはサヤのラボで精密な検査を受けていました。次元熱の治療の際に一時的に「再起動」した彼の脳は、その後も微かな熱を持ち続けていました。
「榊原くん、結果が出たわ。……あなたの脳内のバックアップ領域が、あなたの意思とは無関係に拡大を始めている。宇宙を維持するための演算リソースが、あなたの『感情』や『記憶』を司る領域を、少しずつ侵食しているのよ」
サヤの報告は、マサトにとって死の宣告よりも残酷なものでした。
「つまり、俺がこの世界を維持し続ければ続けるほど、俺は人間としての心を失い、ただの『管理システム』になっていくということか」
「そうなる前に、その領域を切り離す方法を探さないと。でも、それをすれば今度は新世界の均衡が崩れて、また次元の蝕が始まってしまう」
マサトは自身の指先を見つめました。時折、自分の感覚が希薄になり、世界を「愛おしいもの」としてではなく、単なる「処理すべき事象」として捉えてしまう瞬間が増えていることに、彼は恐怖を抱いていました。
第零特区の断絶
突如、特区の中心部にある「交流記念塔」で巨大な爆発が発生しました。しかし、それは火炎による爆発ではありませんでした。爆発地点を中心に、周囲の景色が「モノクロ」へと変わり、アウラ王国の植物や魔導具が、まるで最初から存在しなかったかのように消滅していく、法則の拒絶現象でした。
「回帰主義者のテロか……!」
マサトは駆けつけようとしましたが、足元がふらつきました。脳内に流れ込む膨大なエラーログ。回帰主義者が使用した旧世界の破片が、マサトの脳内にあるバックアップ領域と共鳴し、強制的なシステム復旧を求めていたのです。
現場では、マリアが光の壁を張り、侵食を食い止めていました。しかし、旧世界の法則は、彼女の魔法そのものを「非論理的」として無効化しようとします。
「マリア様! 危ない!」
ラッセルの叫びと共に、回帰主義者たちが放った黒い矢がマリアを襲います。その瞬間、マサトの脳内で何かが弾けました。
機械仕掛けの解決
「……対象を識別。旧世界の残滓による空間矛盾。排除を開始する」
マサトの口から漏れたのは、彼の声であって、彼の声ではない、冷徹な機械音声でした。彼の瞳から生気が消え、代わりに銀色の幾何学模様が浮かび上がります。
マサトは一歩、また一歩と爆心地へ歩みを進めました。彼の周囲では、回帰主義者が放った攻撃も、旧世界の法則による侵食も、まるで見えない壁に阻まれるように霧散していきました。
彼は右手を軽く上げ、空間に触れました。
「論理の再定義。旧世界の定数は、現行のアップデート版において無効。……消去」
マサトが呟いた瞬間、荒れ狂っていた黒い光は、まるで掃除機に吸い込まれるようにマサトの右掌へと収束し、消滅しました。テロリストたちは、自分たちの信じる「世界の理」があっさりと上書きされたことに絶望し、その場に崩れ落ちました。
冷たい帰還
「マサト様……ありがとうございます」
駆け寄ったマリアが、マサトの肩に手を置きました。しかし、マサトは彼女を振り返ることもなく、冷たい目で戦果を確認していました。
「マリア。今の行動は非効率だ。君の魔力消費量に対して、守れた市民の数は統計的に許容範囲外だ。次からは、最大多数の生存を優先した配置を求める」
「……え?」
マリアの手が凍りついたように止まりました。マサトの瞳には、かつて彼女を優しく見つめていた光が微塵も残っていませんでした。
「サヤ。回帰主義者の捕獲個体から情報を抽出する。彼らの脳内データを直接読み取るための接続端子を用意しろ。倫理プロトコルは無視して構わない」
「榊原くん、あなた、何を言っているの……?」
サヤの問いかけにも、マサトは答えませんでした。彼はただ、合理的な判断を下すだけの装置として、整然と歩き去っていきました。
彼の背中を見つめるマリアとサヤの心に、世界が滅びかけた時以上の深い絶望が広がりました。世界は救われ、テロは防がれましたが、彼女たちが愛した一人の天才は、その知性の深淵へと消えかかっていたのです。




