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異世界帰りの元勇者は現実世界でも天才でした。  作者: 坂元たつま


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記憶の回廊と人間性の再定義

「第零特区」の空は、銀色のデータが流れるような不自然な輝きを増していました。中心部に鎮座する新政府ビルの一室で、マサトは膨大なモニターに囲まれ、一切の瞬きをせずに情報の処理を続けていました。彼の周囲には、かつての温かな空気はなく、ただサーバー室のような冷徹な電子音だけが響いています。

「榊原くん、もう三日間も一歩も動いていないわ。食事も睡眠も、生命維持に必要な最小限の栄養摂取で済ませている……。これはもう、人間としての営みじゃない」

サヤの悲痛な訴えに、マサトは視線すら向けずに答えました。

「サヤ。睡眠は脳の老廃物を除去するプロセスだが、今の私の演算領域はオリジンの外部メモリと直結している。有機的な脳の休息は、非効率な遅延を生むだけだ。現在、特区内の交通網を0.002%最適化した。これにより年間で数千時間の社会的損失が回避される。これが私の存在意義だ」

その言葉には、かつて彼が持っていた「誰かを助けたい」という情熱の欠片も残っていませんでした。

 精神潜行ブレイン・ダイブの決断

マリアとサヤは、このままではマサトの意識が完全にオリジン・システムに呑み込まれると確信していました。サヤが提案したのは、かつて次元技術の基礎研究で試みられた、意識をデジタル信号化して対象の深層心理へ送り込む「精神潜行」でした。

「マサトくんの脳内には、まだ『人間としての榊原マサト』の記憶がパケット化されて残っているはず。でも、それは管理システムという分厚い防壁の奥底に隠されているわ。マリア様、あなたの『始祖の灯火』がなければ、私はその防壁に弾き飛ばされてしまう」

マリアは迷うことなく頷きました。

「マサト様が、独りで冷たい情報の海に沈んでいるのなら、私がそこへ行って連れ戻します。彼が私に光をくれたように、今度は私が彼の心を照らす番です」

二人はマサトの背後に設置された予備の端子に自身を接続しました。マサト自身は、その試みを「生存確率を低下させる無意味な干渉」と断じようとしましたが、彼の心の奥底に残る微かな「抵抗」が、防壁の一部を僅かに緩めていました。

 記憶の図書館と白い部屋

ダイブした先でマリアが見たのは、無限に続く真っ白な書架が並ぶ「記憶の図書館」でした。そこには現実世界での数式、異世界での戦いの記録、そして人々との会話が、すべて無機質な記号として分類されていました。

「冷たい……。ここは、マサト様の心の中なのに、体温を感じません」

マリアが呟くと、書架の影から一人の少年が現れました。それは十歳ほどの、眼鏡をかけた幼い頃のマサトでした。少年は周囲の情報を必死にノートに書き留めていましたが、その表情には深い孤独が刻まれていました。

「……君も、僕の数字を奪いに来たの?」

少年の声は震えていました。マサトの幼少期。その並外れた知能ゆえに周囲から理解されず、大人たちからは便利な道具として、子供たちからは異物として扱われていた時代の記憶です。

「いいえ、マサト様。私はあなたの心を温めに来たのです」

マリアが近づこうとした瞬間、空間が激しく歪みました。

  仮面の男の正体:もう一人の「天才」

「感動的な再会を邪魔して済まないね。だが、その記憶は我々『回帰主義者』にとっても貴重なサンプルなんだ」

図書館の空間を切り裂いて現れたのは、あの機械の仮面を被った男でした。彼は現実世界での潜行装置を使い、マサトの脳内へ外部からハッキングを仕掛けてきたのです。

「お前は、誰なの……!」サヤの意識が、通信越しに鋭く問います。

男はゆっくりと仮面を外しました。その下に現れたのは、マサトと同時期に「神童」と呼ばれ、かつて国家規模のプロジェクトでマサトと競い合い、そして敗れて表舞台から消えた男、九条カイトでした。特区を管理する九条代表の、生き別れの弟でもありました。

「榊原。君は選ばれた。オリジンの器として、世界をアップデートする権利を。だが私は、君が捨てた『旧世界の残骸』の中にこそ、完璧な美しさを見出した。君の人間性をここで完全に消去し、私がオリジンの管理者となる。そうすれば、世界は再び単一の、完璧な秩序へと戻るのだ」

カイトは黒いノイズを放ち、幼いマサトの記憶を消去しようと手を伸ばしました。

 人間性の再定義

「させません!」

マリアが叫び、自身の魂を燃やすように「始祖の灯火」を解放しました。黄金の光が図書館を満たし、カイトの放つ黒いノイズを中和していきます。

「マサト様、思い出してください! あなたが数式を愛したのは、世界を支配するためではなく、世界をもっと美しく、誰もが笑える場所に書き換えるためだったはずです! 私たちが食べた料理の味も、共に見た虹の輝きも、それは決して『非効率なノイズ』などではありません!」

マリアの叫びが、管理システムとして冷徹に機能していた現実のマサトの脳に、激しい火花を散らせました。

計算能力が、論理が、効率が。マリアの流す涙という「計算不可能な事象」によって、次々と上書きされていきます。

「……エラー。エラーを検出。……いいえ、これはエラーではない」

現実世界の指令室で、マサトの瞳に光が戻りました。彼は自身の指先を動かし、カイトが脳内に送り込んでいたウイルスコードを、自身の知性で直接掴み取りました。

「カイト。お前は昔から変わらないな。答えのない問いに絶望し、世界を自分の型に嵌め込もうとする。だが、この新世界は、俺たち人間が『迷いながら歩く』ために創ったものだ」

マサトの声は、まだ少し硬質ではありましたが、そこには確かに「意志」が宿っていました。

 最後の代償

マサトは自身の脳内にあるバックアップ領域を、カイトの意識ごと「隔離層」へと封じ込めました。しかし、それは同時に、マサトが宇宙を維持するために使っていたリソースの一部を、永久に封印することを意味していました。

「マサト様!」

精神潜行から目覚めたマリアが、マサトに抱きつきました。マサトは彼女を優しく抱きしめ返しましたが、その表情にはどこか寂しげな色が混じっていました。

「マリア、サヤ。……助かったよ。でも、代償は小さくない。俺の脳の演算能力は、今の処置でさらに低下した。おそらく、もう『次元知性』と呼べるような奇跡は起こせない。……俺は、本当にただの人間になったんだ」

サヤは涙を拭い、微笑みました。

「それでいいのよ、榊原くん。天才じゃないあなたを、私たちは待っていたんだから」

しかし、第零特区の地下深くでは、封じ込められたはずのカイトの残思が、さらなる闇と結びつこうとしていました。アップデートされた世界は、まだ安定には程遠く、マサトという「神」を失った人類は、自分たちの足で歩むための過酷な試練に直面しようとしていました。

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