↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
パラレル・トラベラー ”72時間だけ、もう一人の異世界のわたし”  作者: Hamin
第2章 魔法の試練

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/41

9話 〈向こうの私〉母への手紙

 手紙を書きおえた朝、ハルカ・リーヴェルは、遥《はるか》の部屋の本棚(たな)から、一冊のスケッチブックを見つけた。


 表紙はすりきれ、角がまるくなっている。開くと、鉛筆《えんぴつ》の線が、ページいっぱいにあふれだした。


 夜明けの坂道。シャッターの下りた商店街。雨のバス停。だれもいない学校の階段。蛍光灯《けいこうとう》だけが光る、夜の駅のホーム。


 どの絵も、息をのむほどうまかった。光のあたり方、空気のしめりけ、遠くの建物のかすみ方。ハルカの世界の宮廷画家《きゅうていがか》でも、こんなふうに「場所」を描《か》ける人は、少ないだろう。


 けれど、どの絵にも、人がいなかった。


 一人も。


 ハルカは、ページをめくる手を止めた。夜の駅のホームの絵。そのすみに、遥の字で、小さく書かれていた。


『講評会 「きれいだけど、あなたがいない」』


 ハルカは、しばらく、その文字を見つめていた。それから、机のペン立てから、いちばん細い鉛筆を取った。


 ホームのベンチのはしに、ほんの小さく、ひとりの女の子を描きくわえた。短い髪《かみ》。うつむいて、右の耳たぶを、くいっと引っぱっている。


 描きおえてから、ハルカは、少しだけ後悔《こうかい》した。相手の人生を、こわしてはいけない。


(でも、これは、こわしたんじゃない。……たぶん、足しただけ)


 ハルカは、スケッチブックを、そっと本棚にもどした。


◇ ◇ ◇


 七瀬《ななせ》京子(きょうこ)が家に帰りついたのは、夜の11時40分だった。


 坂の途中《とちゅう》で、一度だけ足を止めた。夏の夜の湿《しめ》った空気が、首すじにはりつく。遠くで、電車が鉄橋をわたる音がした。今日も、処方せんを120枚さばいた。待合室で泣きだした赤ちゃん。薬の量をまちがえたまま何日も飲んでいたおじいさん。ひとつひとつに、頭を下げ、説明し、確認する。


 仕事は、いい。考えなくてすむ。


 夫が亡くなってから、京子は、仕事をふやした。家にいる時間を、へらすために。家にいると、二階の書斎《しょさい》のドアが、いやでも目に入る。それから、娘《むすめ》の部屋のドアも。


 玄関《げんかん》の鍵《かぎ》を開ける。家の中は暗かった。遥は、夜勤に出ているはずだ。


 台所の電気をつけると、テーブルの上に、白い紙が一枚、置かれていた。四つ折りにされて、上に、ボールペンが一本。


『お母さんへ』


 京子は、しばらく、その字を見つめていた。


 遥の字だった。けれど、どこかちがう。ひとつひとつの字が、ていねいで、まっすぐで、まるで習字の手本のようだった。遥の字は、もっと急いでいて、右に流れていく。


 それに、「お母さんへ」の前に、何か書いて、線で消したあとがあった。


 京子は、いすを引いて、すわった。冷蔵庫のモーターの音だけが、台所にひびいている。


 紙を、開いた。


◇ ◇ ◇


『お母さんへ


 とつぜん、手紙を書いて、ごめんなさい。

 どうしても、伝えたいことがあって、ペンを持ちました。


 今日、わたしは、この家の中を、少しだけ歩きました。

 台所のテーブルの、短いメモを読みました。

 冷蔵庫を開けて、ほとんど何も入っていないのを見ました。

 二階の、閉じたドアの前に、立ちました。


 この家の二人は、おたがいのことを、とても大事に思っているのに、どちらも、相手の顔を見ないようにしている。わたしには、そう見えました。

 大事だから、こわいのだと思います。顔を見たら、何かがこわれてしまいそうで。


 お母さん。

 あなたの娘さんは、毎晩、あなたの帰りを待っています。


 夜勤のない日、娘さんは、自分の部屋で、玄関の鍵の音を聞いています。

 何時になっても、眠《ねむ》らずに、聞いています。

 そして、鍵の音がすると、ほっとして、それから、ドアを閉めます。

 「おかえり」と言うのが、こわいからです。


 これは、わたしが、娘さんのからだから、教えてもらったことです。

 ふしぎな言い方で、ごめんなさい。でも、本当です。


 わたしの家にも、母がいます。わたしも、母の顔を、ちゃんと見られずにいます。

 だから、この手紙は、わたし自身への手紙でもあります。


 どうか、一度だけ、娘さんの顔を見てあげてください。

 娘さんも、きっと、あなたの顔を見たいと思っています。


 どうか、お元気で。


 ――遥さんのからだを、少しだけお借りした、ある旅人より』


◇ ◇ ◇


 読みおえたとき、京子の手は、ふるえていた。


 意味の、わからない手紙だった。娘さんのからだから、教えてもらった。わたしの家にも、母がいます。わたし自身への手紙。遥が書いたにしては、あまりにも、遥らしくなかった。


 けれど。


 夜勤のない日、玄関の鍵の音を、聞いている。


 京子は、それを、知っていた。


 夜おそく、鍵を回すと、二階で、かすかに、ドアの閉まる音がする。毎晩のように。気づいていた。気づかないふりをしていた。気づいてしまったら、階段をのぼって、ドアをノックしなければいけない気がしたから。そして、ノックしたあと、何を言えばいいのか、わからなかったから。


 夫が亡くなった夜のことは、遥とは、一度も話したことがない。


 あの夜、遥が父親とけんかをして、部屋にこもっていたことを、京子は知っている。遥がそのことで、ずっと自分を責めていることも、たぶん、知っている。それなのに、京子は、娘に何も言ってやれなかった。「あなたのせいじゃない」と言えば、夫がいなくなったことを、二人で認めることになる気がして。


 仕事をふやしたのは、家にいる時間をへらすためだった。


 娘と向きあう時間を、へらすためだった。


 京子は、手紙を胸に当てて、目をとじた。泣くかと思った。けれど、涙《なみだ》は出なかった。夫が亡くなってから、3年間、一度も出ていない。どこかで、涙の出る道が、ふさがってしまったのかもしれない。


 かわりに、京子は、立ちあがった。


 冷蔵庫を開ける。ほとんど何も入っていない。ひんやりとした白い光が、台所の床《ゆか》を照らした。


 京子は、カバンからメモ帳を取りだした。いつもの、短いメモ。『今日も遅《おそ》くなります。母』。それを書こうとして、ペンが止まった。


 しばらく考えて、京子は、こう書いた。


『あさっての夜は、早く帰ります。いっしょに、ごはんを食べよう。

何が食べたいか、ここに書いておいて。母』


 書いてから、それが、ものすごく、ぎこちない文章に見えた。消そうかと思った。


 けれど、京子は、そのメモを、手紙の横に、そっと置いた。


 二階の娘の部屋には、だれもいない。それでも、京子は、階段の下に立って、少しだけ、上を見あげた。


「……おかえり、くらい、言えばよかったね」


 だれもいない階段に向かって、京子は、小さな声で言った。


 台所の時計が、午前0時をまわった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。