9話 〈向こうの私〉母への手紙
手紙を書きおえた朝、ハルカ・リーヴェルは、遥の部屋の本棚から、一冊のスケッチブックを見つけた。
表紙はすりきれ、角がまるくなっている。開くと、鉛筆の線が、ページいっぱいにあふれだした。
夜明けの坂道。シャッターの下りた商店街。雨のバス停。だれもいない学校の階段。蛍光灯だけが光る、夜の駅のホーム。
どの絵も、息をのむほどうまかった。光のあたり方、空気のしめりけ、遠くの建物のかすみ方。ハルカの世界の宮廷画家でも、こんなふうに「場所」を描ける人は、少ないだろう。
けれど、どの絵にも、人がいなかった。
一人も。
ハルカは、ページをめくる手を止めた。夜の駅のホームの絵。そのすみに、遥の字で、小さく書かれていた。
『講評会 「きれいだけど、あなたがいない」』
ハルカは、しばらく、その文字を見つめていた。それから、机のペン立てから、いちばん細い鉛筆を取った。
ホームのベンチのはしに、ほんの小さく、ひとりの女の子を描きくわえた。短い髪。うつむいて、右の耳たぶを、くいっと引っぱっている。
描きおえてから、ハルカは、少しだけ後悔した。相手の人生を、こわしてはいけない。
(でも、これは、こわしたんじゃない。……たぶん、足しただけ)
ハルカは、スケッチブックを、そっと本棚にもどした。
◇ ◇ ◇
七瀬京子が家に帰りついたのは、夜の11時40分だった。
坂の途中で、一度だけ足を止めた。夏の夜の湿った空気が、首すじにはりつく。遠くで、電車が鉄橋をわたる音がした。今日も、処方せんを120枚さばいた。待合室で泣きだした赤ちゃん。薬の量をまちがえたまま何日も飲んでいたおじいさん。ひとつひとつに、頭を下げ、説明し、確認する。
仕事は、いい。考えなくてすむ。
夫が亡くなってから、京子は、仕事をふやした。家にいる時間を、へらすために。家にいると、二階の書斎のドアが、いやでも目に入る。それから、娘の部屋のドアも。
玄関の鍵を開ける。家の中は暗かった。遥は、夜勤に出ているはずだ。
台所の電気をつけると、テーブルの上に、白い紙が一枚、置かれていた。四つ折りにされて、上に、ボールペンが一本。
『お母さんへ』
京子は、しばらく、その字を見つめていた。
遥の字だった。けれど、どこかちがう。ひとつひとつの字が、ていねいで、まっすぐで、まるで習字の手本のようだった。遥の字は、もっと急いでいて、右に流れていく。
それに、「お母さんへ」の前に、何か書いて、線で消したあとがあった。
京子は、いすを引いて、すわった。冷蔵庫のモーターの音だけが、台所にひびいている。
紙を、開いた。
◇ ◇ ◇
『お母さんへ
とつぜん、手紙を書いて、ごめんなさい。
どうしても、伝えたいことがあって、ペンを持ちました。
今日、わたしは、この家の中を、少しだけ歩きました。
台所のテーブルの、短いメモを読みました。
冷蔵庫を開けて、ほとんど何も入っていないのを見ました。
二階の、閉じたドアの前に、立ちました。
この家の二人は、おたがいのことを、とても大事に思っているのに、どちらも、相手の顔を見ないようにしている。わたしには、そう見えました。
大事だから、こわいのだと思います。顔を見たら、何かがこわれてしまいそうで。
お母さん。
あなたの娘さんは、毎晩、あなたの帰りを待っています。
夜勤のない日、娘さんは、自分の部屋で、玄関の鍵の音を聞いています。
何時になっても、眠らずに、聞いています。
そして、鍵の音がすると、ほっとして、それから、ドアを閉めます。
「おかえり」と言うのが、こわいからです。
これは、わたしが、娘さんのからだから、教えてもらったことです。
ふしぎな言い方で、ごめんなさい。でも、本当です。
わたしの家にも、母がいます。わたしも、母の顔を、ちゃんと見られずにいます。
だから、この手紙は、わたし自身への手紙でもあります。
どうか、一度だけ、娘さんの顔を見てあげてください。
娘さんも、きっと、あなたの顔を見たいと思っています。
どうか、お元気で。
――遥さんのからだを、少しだけお借りした、ある旅人より』
◇ ◇ ◇
読みおえたとき、京子の手は、ふるえていた。
意味の、わからない手紙だった。娘さんのからだから、教えてもらった。わたしの家にも、母がいます。わたし自身への手紙。遥が書いたにしては、あまりにも、遥らしくなかった。
けれど。
夜勤のない日、玄関の鍵の音を、聞いている。
京子は、それを、知っていた。
夜おそく、鍵を回すと、二階で、かすかに、ドアの閉まる音がする。毎晩のように。気づいていた。気づかないふりをしていた。気づいてしまったら、階段をのぼって、ドアをノックしなければいけない気がしたから。そして、ノックしたあと、何を言えばいいのか、わからなかったから。
夫が亡くなった夜のことは、遥とは、一度も話したことがない。
あの夜、遥が父親とけんかをして、部屋にこもっていたことを、京子は知っている。遥がそのことで、ずっと自分を責めていることも、たぶん、知っている。それなのに、京子は、娘に何も言ってやれなかった。「あなたのせいじゃない」と言えば、夫がいなくなったことを、二人で認めることになる気がして。
仕事をふやしたのは、家にいる時間をへらすためだった。
娘と向きあう時間を、へらすためだった。
京子は、手紙を胸に当てて、目をとじた。泣くかと思った。けれど、涙は出なかった。夫が亡くなってから、3年間、一度も出ていない。どこかで、涙の出る道が、ふさがってしまったのかもしれない。
かわりに、京子は、立ちあがった。
冷蔵庫を開ける。ほとんど何も入っていない。ひんやりとした白い光が、台所の床を照らした。
京子は、カバンからメモ帳を取りだした。いつもの、短いメモ。『今日も遅くなります。母』。それを書こうとして、ペンが止まった。
しばらく考えて、京子は、こう書いた。
『あさっての夜は、早く帰ります。いっしょに、ごはんを食べよう。
何が食べたいか、ここに書いておいて。母』
書いてから、それが、ものすごく、ぎこちない文章に見えた。消そうかと思った。
けれど、京子は、そのメモを、手紙の横に、そっと置いた。
二階の娘の部屋には、だれもいない。それでも、京子は、階段の下に立って、少しだけ、上を見あげた。
「……おかえり、くらい、言えばよかったね」
だれもいない階段に向かって、京子は、小さな声で言った。
台所の時計が、午前0時をまわった。




