8話 ノヴァの答え、わたしの答え〈残り3時間〉
南の砦へ向かう道のとちゅうで、遥は立ちどまった。
王都の外へ続く、なだらかな丘の上だった。ふり返ると、王都が見えた。金色の結界は、もう半分以上がくずれおちて、ところどころ、夜空がむきだしになっている。そのすきまから、森の黒い影が、じわじわと王都のほうへにじんでいくように見えた。
夜明け前の風が、冷たかった。草のにおいと、遠くの焦げたにおいがまじっている。
【遥さま。立ちどまらないでください。南の砦まで、あと40分です。帰還まで、残り3時間です】
「ノヴァ」
【はい】
「わたし、もどる」
ノヴァは、一瞬、だまった。
【……推奨しません。大時計の周辺は、現在、もっとも危険な場所です。遥さまが行っても、状況が改善する確率は、計算できません】
「計算できないってことは、ゼロじゃないってことでしょ」
【それは……】
遥は、自分でも、何を言っているのかわからなかった。足が、ふるえていた。こわかった。逃げたかった。今すぐ、南の砦へ走って、毛布にくるまって、72時間が終わるのを待ちたかった。
いつもの遥なら、そうしていた。
何かが起きる。こわくなる。逃げる。その三つは、いつも、ひとつながりだった。考えるひまもなく、からだが勝手に、出口のほうへ動いていた。
ポケットの中で、指先が、何かにふれた。
ハルカのノートの切れはしだった。ゆうべ、オルドの補習のあとで、遥がメモを書いた紙。そこには、遥の字で、こう書いてあった。
『何かが起きてから、動くまでのあいだに、一秒のすきまがある。そこで選べ』
父の付箋の言葉を、書きうつしておいたのだ。
(一秒)
遥は、目をとじた。
息をすう。こわい。それは、本当だ。息をはく。逃げたい。それも、本当だ。けれど、そのこわさと、逃げる足のあいだに、ほんの少しだけ、すきまがあった。
そのすきまに、ハルカのノートが浮かんだ。何百回も書きなおした魔法陣。『どうせ、わたしには、むり』と書きながら、3年間、一度も補習を休まなかった、もう一人の自分。
セレスティアの、赤い目のふち。北のはずれの、魔法の使えない両親。
(わたしが、ここで逃げたら、この子がもどってくる世界は、なくなる)
遥は、目をあけた。
「ノヴァ。わたしは、もどる。これは、わたしが選ぶ」
【……ルール3。最後に決めるのは、旅行者です。承知しました】
ノヴァの声は、静かだった。
【では、遥さま。わたしに、何をお手伝いさせていただけますか】
◇ ◇ ◇
王都へもどる道を、遥は走った。
丘をくだるとちゅうで、うしろから足音が追いかけてきた。ふり返ると、セレスティアだった。ほどけた金色の髪が、風になびいている。
「あなた、どこへ行くの」
「大時計のところ」
「ばかじゃないの」
「知ってる」
セレスティアは、一瞬、立ちどまった。それから、遥と同じ速さで、走りだした。
「……北のはずれに行く道は、学校の地下を通るのが、いちばん近いのよ」
それが、彼女なりの、ついてくる理由らしかった。
走りながら、遥は、ノヴァに話しかけた。
「ノヴァ、どうすればいい?」
【どうすれば、とは、どの範囲でしょうか。避難の方法でしょうか。大時計の歴史でしょうか。それとも、セレスティアさまへの――】
「ちがう。ちょっと待って」
遥は、走るのをやめずに、頭の中で言葉をならべなおした。オルドの補習のあとの夜を思いだす。何ができて、何ができないのか。何がほしいのか。
ほしいのは、答えの山じゃない。今、この足で、すぐに使える答えだ。
「ノヴァ。大時計を止める方法を、三つ出して。一つにつき、二行で」
【承知しました。とてもわかりやすいご依頼です】
頭の中に、三つの文字のかたまりが、すっと浮かびあがった。
『1.大時計に、外から大きな魔力をぶつけて、こわす。
→成功しても、糸を読む力が失われる。王宮魔導師団が失敗した方法。
2.大時計の歯車の中心に、魔力を止める封印の魔法陣を描く。
→教本どおりの陣では、時計の力に負ける可能性が高い。
3.大時計に、新しい糸を一本、見せる。
→記録によれば、大時計は「まだ読んだことのない糸」に反応して止まる。ただし、方法は不明』
遥は、三つ目の文字を、もう一度読んだ。
まだ読んだことのない、糸。
頭の中で、何かがかちりとはまった。ハルカのノートの、うしろのページ。教科書どおりではない、つる草と星と鳥がからみあった、あの美しい魔法陣。
だれも選ばなかった、魔法陣。
「……あった。それ、たぶん、持ってる」
◇ ◇ ◇
試験場は、青い光でみたされていた。
割れた床の底に、巨大な時計が見えた。家ほどもある文字盤。何十もの歯車が、ギシギシと音を立てて、めちゃくちゃな速さで回っている。歯車のすきまから、糸のような光が何千本ものびて、空中でもつれあい、ふるえていた。その中の何本かが、ときどき、ふっと消える。そのたびに、大時計は、悲鳴のような音を立てた。
熱い。肌がひりひりする。耳の奥が、キーンと鳴っている。
遥は、ポケットからチョークを取りだした。オルドの研究室から、こっそり借りてきたものだった。
「セレスティア。わたしが陣を描くあいだ、時計の光を、おさえてて」
「描くって、何を。教本の封印陣?」
「ちがう。ハルカの――わたしの、陣」
遥は、割れ目のふちに、ひざをついた。
石の床に、チョークを走らせる。外側の大きな円。内側の小さな円。そのあいだに、つる草の線をからませる。小さな星。鳥。花。
手が、覚えていた。ハルカのノートを見たのは、たった一度なのに。いや、ちがう。このからだが、何百回も描いてきた線だった。そして、遥の手も、専門学校のスケッチブックのすみに、似たような模様を、何百回も描いてきた。
二人の手が、重なっていた。
背後で、セレスティアが炎の壁を立てていた。青い光が、ぶつかってはくだける。彼女の息が、どんどん荒くなっていく。
「早くして! 長くは、もたない!」
最後の線を描き終えた。
遥は、陣のまんなかに立ち、杖をにぎった。手のひらに、オルドの薬草のすっとするにおい。杖は、すべらなかった。
外側の輪には、目を向けなかった。試験官も、笑い声も、3年の留年も、成功確率も。今は、手のとどかないところにある。
内側の輪だけを見る。息。ことば。手の中の杖。そして、自分がほしい、たった一本の糸。
(大時計が、静かに眠る世界)
呪文は、教科書のものではなかった。口から、自然に出てきた。
「――ここに、まだだれも選んでいない道がある。どうか、それを、見て」
足もとの陣が、光った。
やわらかな、若葉の色の光だった。つる草の線をたどって、光は円をめぐり、星と鳥と花をひとつずつともしていく。
大時計の歯車が、ゆっくりと、速度を落とした。
ギシ、ギシ、ギシ。
何千本ものもつれた糸の中から、一本の、若葉色の糸がすっとのびて、大時計の文字盤にふれた。
時計の針が、止まった。
静けさが、落ちてきた。耳が痛くなるほどの、静けさだった。
遥は、その場にへたりこんだ。手のひらが、じんじんと熱い。見ると、杖の先に、小さな、本当に小さな、炎がともっていた。ろうそく一本ぶんの、炎。
「……ついた」
セレスティアが、遥のとなりに、どさりとすわりこんだ。すすだらけの顔で、遥を見て、それから、声を出して笑った。
「3年かけて、それ?」
「うるさい」
二人は、顔を見あわせて、笑った。
割れた天井の向こうで、金色の結界が、ゆっくりと、つなぎなおされていくのが見えた。
【……記録します。成功しました】
ノヴァの声が、ほんの少しだけ、ふるえていた。




