10話 ひとつめの鍵穴〈帰還〉
最初に気づいたのは、髪の軽さだった。
首のうしろが、すうすうする。指ですくうと、肩にとどかない短い髪が、指のあいだからこぼれた。天井は、白いクロス。エアコンの、ブウンという低い音。
自分の部屋だった。
【おかえりなさいませ、遥さま。旅行4日目、午前7時00分04秒。帰還は、正常に完了しました】
スマートフォンから、ノヴァの声がした。耳の奥ではなく、ちゃんと、外から。
「……ただいま」
声に出したとたん、頭の奥で、何かが、ざあっと流れこんできた。
◇ ◇ ◇
記憶だった。
自分のものではない、72時間ぶんの記憶。けれど、それは、映画のように外から見るのではなく、自分が体験したことのように、からだの内側からあふれてきた。
自動ドアの前で、一歩さがったときの、おどろき。
坂口店長の前で、ふかぶかと頭を下げたときの、ひざの感触。壁の紙の、七つの赤い丸。
小銭を数えるおばあさんの、しわだらけの手のひら。「今日は、なんだか、やさしい顔してる」。
休けいの缶コーヒー。蒼汰の「今日の七瀬さん、別の世界から来た人みたいだね」。
父の書斎の、写真立て。ろうそくを吹きけそうとする小さな自分と、うしろで笑う父。それから、ドアを閉めたときの、ハルカの気持ち。(ここは、わたしが入っていい場所じゃない)
そして、台所のテーブルで、「京子さまへ」と書いて、消して、「お母さんへ」と書きなおしたときの、ペンの重さ。
遥は、ベッドの上で、ひざをかかえた。
ハルカは、遥のからだで、遥ができなかったことを、ひとつずつ、やってくれていた。
ただ、ハルカの心の中までは、見えなかった。手紙に何を書いたのか。それだけは、どうしても思いだせなかった。
◇ ◇ ◇
台所におりると、テーブルの上に、二枚の紙が置かれていた。
一枚は、四つ折りの手紙。もう一枚は、母の字のメモ。
『あさっての夜は、早く帰ります。いっしょに、ごはんを食べよう。
何が食べたいか、ここに書いておいて。母』
「あさって」は、今日だった。
遥は、手紙を開いた。ハルカの、まっすぐで、ていねいな字。読みすすめるうちに、のどの奥が、きゅうっとせまくなった。
『あなたの娘さんは、毎晩、あなたの帰りを待っています』
(……なんで、知ってるの)
知られていた。玄関の鍵の音を聞いていたことを。ハルカは、このからだから、それを感じとったのだ。
遥は、母のメモの、「何が食べたいか」の下の空白を、長いあいだ見つめていた。それから、ペンを取って、小さく書いた。
『肉じゃが』
父が生きていたころ、誕生日によく母が作ってくれた料理だった。
その夜、母は、本当に7時に帰ってきた。
二人で、肉じゃがを食べた。湯気の向こうに、母の顔があった。少しやせて、目じりのしわがふえていた。こんなにちゃんと母の顔を見たのは、いつ以来だろう。
「味、うすくない?」
「……ちょうどいい」
会話は、それだけだった。じゃがいもは、ほくほくとあまく、しょうゆと砂糖の味が、じんわりと舌にしみた。
それだけで、遥には、十分だった。
◇ ◇ ◇
午後、遥は父の書斎に入った。
机の上の、黒い革の手帳。3年間、一度も開けなかった『7ルーティン』。
遥は、いすにすわり、手帳を両手で持った。革の表紙が、手のひらの温度で、少しずつやわらかくなっていく。
息をすう。一秒。
表紙を、開いた。
最初のページには、父の角ばった字で、こう書かれていた。
『はじめに。ルーティン0「メガネをかけかえる」
見えているものは、メガネの色で変わる。
変えたいなら、まず、かけているメガネに気づくこと』
次のページ。
『ルーティン1「すきまの一秒」
何かが起きてから、動くまでのあいだに、一秒のすきまがある。
そこで選べるのが、人間だ。
手のとどかない輪を見るのをやめて、手のとどく輪に立て。
自分の反応を、だれかのせいにしない。それが、自分の足で立つということだ』
そのページには、付箋が何枚も貼られていた。父の、小さな書きこみ。
『部長に怒鳴られた。三秒、数えてから、返事をした。うまくいった』
『遥と言いあいになった。一秒、間に合わなかった。反省』
遥は、その最後の付箋を、指でなぞった。
父も、失敗していたのだ。一秒、間に合わなかった日が、あったのだ。
(お父さんも、同じだったんだ)
手帳をとじると、表紙の裏に、もう一枚の付箋が貼られていた。あの夜明けに、床に落ちた付箋。遥が、もどしておいたものだ。その横に、父の字で、小さな日付があった。3年前の、12月。父が倒れる、一週間前。
遥は、手帳を胸に当てた。紙と、冷めたコーヒーのにおいが、ふわりと立ちのぼった気がした。
◇ ◇ ◇
部屋にもどって、遥は本棚のスケッチブックを開いた。ハルカの記憶の中に、このスケッチブックが、たしかにあったから。
夜の駅のホームの絵。ベンチのはしに、見おぼえのない、小さな女の子がいた。短い髪。うつむいて、右の耳に手を当てている。よく見ると、くいっと引っぱっているようだ。
遥の線ではなかった。けれど、遥の絵に、ぴったりとなじんでいた。
だれもいなかったホームが、急に、だれかを待っている場所に見えた。
(場所の絵って、人がいなくても、だれかのためにあるんだ)
遥は、その小さな女の子を、長いあいだ見つめていた。消そうとは、思わなかった。
◇ ◇ ◇
次の夜、遥は、夜勤の15分前に、店に着いた。
坂口店長は、レジの奥で、書類を見ていた。遥の顔を見ると、また、少しおどろいた顔をした。
「……七瀬。この前も、早かったな」
遥は、店長の前に立った。
ハルカは、頭を下げてくれた。でも、それは、ハルカの言葉だった。遥自身の言葉では、まだ、何も言っていない。
(一秒)
「店長。これまで、何度も遅刻して、すみませんでした。……理由は、いろいろ、自分の中にありました。でも、それは、お店には関係ないことでした」
店長は、書類から目をあげた。
「これからは、もし遅れそうなときは、その前に、かならず自分から連絡します。……遅れないのが、いちばんですけど。せめて、店長を、待たせっぱなしにはしません」
店長は、しばらく、遥の顔を見ていた。それから、壁のシフト表に手をのばし、遥の名前の横の、七つの赤い丸の下に、青いペンで、小さな線を一本引いた。
「……じゃあ、今日から、数えなおしだ」
それだけ言って、店長は、また書類に目をもどした。
◇ ◇ ◇
午前3時。休けいの時間。
「七瀬さん、こないだ、星の話してくれたでしょ」
蒼汰が、缶コーヒーを二本持ってきた。
「選ばれなかった道は、空の星になるって。あれ、ずっと考えてたんだ。もしそうなら、この空のどこかに、専門学校をやめなかった七瀬さんの星も、あるのかなって」
遥は、窓の外の、明るすぎる夜空を見あげた。星は、ほとんど見えなかった。
「……あるかもしれないですね」
ハルカの世界の空なら、きっと、もっとたくさん見えるのだろう。
◇ ◇ ◇
明け方、家に帰ると、遥はスマートフォンを開いた。
『旅行の評価をお願いします ☆☆☆☆☆』
画面に、白い星が五つならんでいた。遥は、指を止めた。
【遥さま。星の数は、正直にお願いします。わたしの評価のために、無理をなさる必要はありません】
ノヴァらしい、と遥は思った。正確で、まじめで、それなのに、どこか自分の得になることが言えない。
遥は、白い星を三つおした。
「三つ、★★★」
【……承知しました。三つ、いただきました。ありがとうございます】
「残りの二つは、次の旅でね」
ノヴァは、少しだけ、だまった。
【次の旅、ですか】
「うん」
遥は、ベッドに横になった。
その夜、夢を見た。白い廊下。白い扉。七つの鍵穴。
いちばん上の鍵穴が、ゆっくりと、若葉の色に光った。一瞬ではなく、ちゃんと、ともりつづけていた。
――ひとつめ。
扉の向こうで、だれかが、うれしそうにささやいた。
――ありがとう。
目をさますと、スマートフォンの画面が、光っていた。
【おはようございます、遥さま。次の旅行先のご案内です。次は、空を飛ぶ世界です。……ただし、あなたの交換相手は、少し、怒りっぽいようです】
2章をお読みいただき、ありがとうございます。
ログインされている方は、ぜひ評価やご意見をお聞かせください。
皆様の声が、より良い物語を生み出す力になります。




