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パラレル・トラベラー ”72時間だけ、もう一人の異世界のわたし”  作者: Hamin
第2章 魔法の試練

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10話 ひとつめの鍵穴〈帰還〉

 最初に気づいたのは、髪《かみ》の軽さだった。


 首のうしろが、すうすうする。指ですくうと、肩《かた》にとどかない短い髪が、指のあいだからこぼれた。天井は、白いクロス。エアコンの、ブウンという低い音。


 自分の部屋だった。


【おかえりなさいませ、遥《はるか》さま。旅行4日目、午前7時00分04秒。帰還《きかん》は、正常に完了《かんりょう》しました】


 スマートフォンから、ノヴァの声がした。耳の奥《おく》ではなく、ちゃんと、外から。


「……ただいま」


 声に出したとたん、頭の奥で、何かが、ざあっと流れこんできた。


◇ ◇ ◇


 記憶《きおく》だった。


 自分のものではない、72時間ぶんの記憶。けれど、それは、映画のように外から見るのではなく、自分が体験したことのように、からだの内側からあふれてきた。


 自動ドアの前で、一歩さがったときの、おどろき。


 坂口《さかぐち》店長の前で、ふかぶかと頭を下げたときの、ひざの感触《かんしょく》。壁《かべ》の紙の、七つの赤い丸。


 小銭を数えるおばあさんの、しわだらけの手のひら。「今日は、なんだか、やさしい顔してる」。


 休けいの缶《かん》コーヒー。蒼汰《そうた》の「今日の七瀬《ななせ》さん、別の世界から来た人みたいだね」。


 父の書斎《しょさい》の、写真立て。ろうそくを吹《ふ》きけそうとする小さな自分と、うしろで笑う父。それから、ドアを閉めたときの、ハルカの気持ち。(ここは、わたしが入っていい場所じゃない)


 そして、台所のテーブルで、「京子《きょうこ》さまへ」と書いて、消して、「お母さんへ」と書きなおしたときの、ペンの重さ。


 遥は、ベッドの上で、ひざをかかえた。


 ハルカは、遥のからだで、遥ができなかったことを、ひとつずつ、やってくれていた。


 ただ、ハルカの心の中までは、見えなかった。手紙に何を書いたのか。それだけは、どうしても思いだせなかった。


◇ ◇ ◇


 台所におりると、テーブルの上に、二枚の紙が置かれていた。


 一枚は、四つ折りの手紙。もう一枚は、母の字のメモ。


『あさっての夜は、早く帰ります。いっしょに、ごはんを食べよう。

何が食べたいか、ここに書いておいて。母』


 「あさって」は、今日だった。


 遥は、手紙を開いた。ハルカの、まっすぐで、ていねいな字。読みすすめるうちに、のどの奥が、きゅうっとせまくなった。


『あなたの娘《むすめ》さんは、毎晩、あなたの帰りを待っています』


(……なんで、知ってるの)


 知られていた。玄関《げんかん》の鍵《かぎ》の音を聞いていたことを。ハルカは、このからだから、それを感じとったのだ。


 遥は、母のメモの、「何が食べたいか」の下の空白を、長いあいだ見つめていた。それから、ペンを取って、小さく書いた。


『肉じゃが』


 父が生きていたころ、誕生日によく母が作ってくれた料理だった。


 その夜、母は、本当に7時に帰ってきた。


 二人で、肉じゃがを食べた。湯気の向こうに、母の顔があった。少しやせて、目じりのしわがふえていた。こんなにちゃんと母の顔を見たのは、いつ以来だろう。


「味、うすくない?」

「……ちょうどいい」


 会話は、それだけだった。じゃがいもは、ほくほくとあまく、しょうゆと砂糖の味が、じんわりと舌にしみた。


 それだけで、遥には、十分だった。


◇ ◇ ◇


 午後、遥は父の書斎に入った。


 机の上の、黒い革の手帳。3年間、一度も開けなかった『7ルーティン』。


 遥は、いすにすわり、手帳を両手で持った。革の表紙が、手のひらの温度で、少しずつやわらかくなっていく。


 息をすう。一秒。


 表紙を、開いた。


 最初のページには、父の角ばった字で、こう書かれていた。


『はじめに。ルーティン0「メガネをかけかえる」

見えているものは、メガネの色で変わる。

変えたいなら、まず、かけているメガネに気づくこと』


 次のページ。


『ルーティン1「すきまの一秒」

何かが起きてから、動くまでのあいだに、一秒のすきまがある。

そこで選べるのが、人間だ。

手のとどかない輪を見るのをやめて、手のとどく輪に立て。

自分の反応を、だれかのせいにしない。それが、自分の足で立つということだ』


 そのページには、付箋《ふせん》が何枚も貼《は》られていた。父の、小さな書きこみ。


『部長に怒鳴《どな》られた。三秒、数えてから、返事をした。うまくいった』

『遥と言いあいになった。一秒、間に合わなかった。反省』


 遥は、その最後の付箋を、指でなぞった。


 父も、失敗していたのだ。一秒、間に合わなかった日が、あったのだ。


(お父さんも、同じだったんだ)


 手帳をとじると、表紙の裏に、もう一枚の付箋が貼られていた。あの夜明けに、床《ゆか》に落ちた付箋。遥が、もどしておいたものだ。その横に、父の字で、小さな日付があった。3年前の、12月。父が倒《たお》れる、一週間前。


 遥は、手帳を胸に当てた。紙と、冷めたコーヒーのにおいが、ふわりと立ちのぼった気がした。


◇ ◇ ◇


 部屋にもどって、遥は本棚(たな)のスケッチブックを開いた。ハルカの記憶の中に、このスケッチブックが、たしかにあったから。


 夜の駅のホームの絵。ベンチのはしに、見おぼえのない、小さな女の子がいた。短い髪。うつむいて、右の耳に手を当てている。よく見ると、くいっと引っぱっているようだ。


 遥の線ではなかった。けれど、遥の絵に、ぴったりとなじんでいた。


 だれもいなかったホームが、急に、だれかを待っている場所に見えた。


(場所の絵って、人がいなくても、だれかのためにあるんだ)


 遥は、その小さな女の子を、長いあいだ見つめていた。消そうとは、思わなかった。


◇ ◇ ◇


 次の夜、遥は、夜勤の15分前に、店に着いた。


 坂口店長は、レジの奥で、書類を見ていた。遥の顔を見ると、また、少しおどろいた顔をした。


「……七瀬。この前も、早かったな」


 遥は、店長の前に立った。


 ハルカは、頭を下げてくれた。でも、それは、ハルカの言葉だった。遥自身の言葉では、まだ、何も言っていない。


(一秒)


「店長。これまで、何度も遅《おそ》刻して、すみませんでした。……理由は、いろいろ、自分の中にありました。でも、それは、お店には関係ないことでした」


 店長は、書類から目をあげた。


「これからは、もし遅れそうなときは、その前に、かならず自分から連絡《れんらく》します。……遅れないのが、いちばんですけど。せめて、店長を、待たせっぱなしにはしません」


 店長は、しばらく、遥の顔を見ていた。それから、壁のシフト表に手をのばし、遥の名前の横の、七つの赤い丸の下に、青いペンで、小さな線を一本引いた。


「……じゃあ、今日から、数えなおしだ」


 それだけ言って、店長は、また書類に目をもどした。


◇ ◇ ◇


 午前3時。休けいの時間。


「七瀬さん、こないだ、星の話してくれたでしょ」


 蒼汰が、缶コーヒーを二本持ってきた。


「選ばれなかった道は、空の星になるって。あれ、ずっと考えてたんだ。もしそうなら、この空のどこかに、専門学校をやめなかった七瀬さんの星も、あるのかなって」


 遥は、窓の外の、明るすぎる夜空を見あげた。星は、ほとんど見えなかった。


「……あるかもしれないですね」


 ハルカの世界の空なら、きっと、もっとたくさん見えるのだろう。


◇ ◇ ◇


 明け方、家に帰ると、遥はスマートフォンを開いた。


『旅行の評価をお願いします ☆☆☆☆☆』


 画面に、白い星が五つならんでいた。遥は、指を止めた。


【遥さま。星の数は、正直にお願いします。わたしの評価のために、無理をなさる必要はありません】


 ノヴァらしい、と遥は思った。正確で、まじめで、それなのに、どこか自分の得になることが言えない。


 遥は、白い星を三つおした。


「三つ、★★★」


【……承知しました。三つ、いただきました。ありがとうございます】


「残りの二つは、次の旅でね」


 ノヴァは、少しだけ、だまった。


【次の旅、ですか】


「うん」


 遥は、ベッドに横になった。


 その夜、夢を見た。白い廊下《ろうか》。白い扉《とびら》。七つの鍵穴《かぎあな》。


 いちばん上の鍵穴が、ゆっくりと、若葉の色に光った。一瞬《いっしゅん》ではなく、ちゃんと、ともりつづけていた。


――ひとつめ。


 扉の向こうで、だれかが、うれしそうにささやいた。


――ありがとう。


 目をさますと、スマートフォンの画面が、光っていた。


【おはようございます、遥さま。次の旅行先のご案内です。次は、空を飛ぶ世界です。……ただし、あなたの交換相手《こうかんあいて》は、少し、怒りっぽいようです】


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