11話 竜の背の朝〈残り72時間〉
最初に気づいたのは、風だった。
ほおを、髪を、からだじゅうを、つめたい風が、ものすごい速さでなでていく。耳のそばで、ゴウゴウと音が鳴っている。鼻の奥がつんとするほど、空気がすんでいた。
それから、からだの下の、あたたかさ。
遥は、おそるおそる目をあけた。
空だった。
上も、下も、右も、左も。どこまでも青い空。足もとのはるか下に、白い雲の海がひろがり、そのすきまから、緑の山なみと、銀色の川が、地図のように見えていた。
遥は、何かの背中にまたがっていた。銀色のうろこが、朝の光を受けて、ひとつひとつ、虹色にきらめいている。うろこはひんやりとかたいのに、その下から、どくん、どくん、と、大きな心臓の音と、ふしぎなぬくもりが伝わってきた。
竜だった。
「――っ!」
声にならない悲鳴が、のどの奥で止まった。両手が、勝手に、何かをにぎりしめる。革の手綱だった。手のひらに、使いこまれた革の、しっとりとした手ざわり。
【おはようございます、遥さま。旅行1日目、午前7時00分09秒です。魂の交換は、正常に完了しました】
ノヴァの声が、耳の奥でひびいた。
【現在地は、第2世界、竜騎士王国ドラグネア。高度、約800メートル。遥さまが乗っていらっしゃるのは、銀竜セレンさま。交換相手の、ハル・ヴァルトさまの竜です】
「下ろして! 今すぐ、下ろして!」
【申しわけありません。わたしには、竜を操縦する機能がありません】
「知ってる!」
知っていた。それでも、さけばずにはいられなかった。
◇ ◇ ◇
からだが、ちがった。
ハルカのときとは、まるでちがう。肩が、がっしりとして重い。太ももの内がわの筋肉が、竜の背をしっかりとはさみこんでいる。指は長く、手のひらは、まめが固くなって、皮が厚い。胸当ての金具が、呼吸のたびに、かちりと鳴った。
ハル・ヴァルト、24歳。竜騎士隊の副隊長。
遥より5つ年上の、もう一人の自分。
こわいのに、からだは、落ちついていた。手綱をにぎる力は、強すぎず、弱すぎず。背すじは、竜の動きに合わせて、自然にゆれている。このからだは、空を、知っているのだ。
遥の頭だけが、パニックを起こしていた。
ふと、右手が、勝手に耳もとへのびた。親指の腹で、耳たぶの下を、ぐっと押しこむ。遥のくせとはちがう。遥なら、親指と人さし指で、つまむ。
(……これ、ハルのくせだ)
同じ魂でも、少しずつ、ちがう。そのことが、なぜか、遥を少しだけ落ちつかせた。
まわりを見る余裕が、ほんの少しだけ、もどってきた。
セレンの左右と前に、ほかの竜たちが、くさびの形にならんで飛んでいた。青い竜、緑の竜、茶色の竜。それぞれの背に、銀の胸当ての騎士が乗っている。はるか下、雲の切れまに、切り立った崖の上にきざまれた、巨大な石の城が見えた。崖の岩はだに、いくつもの洞窟が口をあけ、そこから、小さな竜たちが、出たり入ったりしている。
【竜騎士隊の本拠地、天空砦です。……ちなみに、現在の気温は、地上より約5度低くなっています。遥さま、上着を一枚、お持ちになればよかったですね】
(今、それ?)
思わず、心の中でつっこんだ。けれど、そのおかげで、さっきまでこおりついていた指先に、少しだけ、血がめぐりはじめた気がした。
「ハル!」
右から、声がした。
ふり向くと、すぐとなりを、赤い竜が飛んでいた。その背に、黒い髪を短く切りそろえた女の人が乗っている。日に焼けた肌。あごに、小さな白い傷あと。ハルと同じ、銀の胸当て。
「朝の哨戒、あと半分! 副隊長が、ぼーっとしてどうするの!」
女の人は、そう言って、白い歯を見せて笑った。
その瞬間だった。
どくん。
胸の奥で、心臓が、ひとつ大きくはねた。
どくん、どくん、どくん。
鼓動が、急に速くなる。ほおが、かっと熱くなる。手綱をにぎる手のひらに、じわりと汗がにじんだ。
(……え?)
こわいからではなかった。空の高さとは、関係のないところで、からだが、勝手に、さわいでいた。
【同じ隊の騎士、イリスさまです。乗っていらっしゃるのは、赤竜ルベルさま。……遥さま、心拍数が、急に138まで上がりました。だいじょうぶですか】
(わたしじゃない)
遥は、自分の胸に手を当てた。
(これ、わたしじゃない。……このからだが、ハルが、勝手に)
イリスが、もう一度こちらを見て、首をかしげた。
遥は、あわてて目をそらした。どこを見ればいいのかわからなくて、思わず、手綱を強く引いてしまった。
◇ ◇ ◇
セレンが、大きく右にかたむいた。
世界が、ぐるりと回った。
空と雲が入れかわり、からだが、竜の背から浮きあがりかける。太ももだけが、かろうじて、うろこにしがみついていた。耳のそばで、風が悲鳴をあげている。
遥は、こおりついた。
手も、足も、指一本も、動かない。息が、できない。頭の中が、まっ白になった。
【遥さま、手綱を左に――手綱、を、ひだ――】
ノヴァの声が、とぎれた。
ザザッ、と、耳の奥で、雑音が鳴った。
そして、次の瞬間。
声が、二つになった。
[手綱は左。高度を下げなさい。体重を、竜の進行方向と逆にかけること。あなたの今の判断は、統計的に、誤りです]
〈ねえ、遥。セレンの背中、あったかいね。……セレンは、どっちに行きたがってる?〉
同じ声だった。けれど、片方は、冷たく、きびきびとして、もう片方は、やわらかく、ゆっくりとしていた。
二つの声が、同時に、遥の頭の中でひびいていた。
(……ノヴァが、二人いる)
セレンが、もう一度、大きくゆれた。
はるか下の雲の海が、ぐんぐんと、近づいてきた。




