6話 ノヴァの最適解〈残り12時間〉
旅行3日目の夕方。試験まで、あと1時間だった。
遥は、寮の部屋の床にすわりこんで、自分の手のひらを見つめていた。まめが、二つ。ひとつは、つぶれて、ひりひりする。
この二日間、やれることは、ぜんぶやった。
ノヴァに状況を伝えて、呼吸の練習から始めた。オルドの補習にも、二晩つづけて通った。人のいない時間に、中庭で、何百回も杖をふった。
それでも、一度も、光らなかった。
ゆうべの最後の練習。月の光の下で、遥は、ノヴァのプランどおりの「正統派の炎の型」を、くりかえした。杖の角度は45度。呪文は教科書どおり。
「炎よ、わが指先に宿れ」
何も起きなかった。
【……本番では、成功する可能性があります】
ノヴァは、そう言った。けれど、遥は気づいていた。ノヴァが、成功確率の数字を、昨日から一度も言わなくなったことに。
「ノヴァ」
遥は、床にすわったまま、聞いた。
「本当の成功確率、いくつ」
ノヴァは、すぐには答えなかった。窓の外で、夕方の鐘が、ひとつ鳴った。
【……11%です】
「なんで、言わなかったの」
【言わないほうが、遥さまの心拍数が安定すると、予測しました。……でも、遥さまにたずねられたら、正確にお答えするのが、わたしの仕事です】
11%。百回やって、89回は失敗する。
いつもの遥なら、ここで、やめていた。数字を見て、「ほらね、どうせ」と言って、ドアを閉めていた。
けれど、今、このドアの向こうには、ハルカの3年間があった。3年間、どうせ、と言いながら、補習に通いつづけた、もう一人の自分。
(わたしが、ここで逃げたら、あの子の3年が、ぜんぶ終わる)
遥は、立ちあがった。手のひらのまめが、ずきんと痛んだ。
「行く。11%でも」
【……承知しました】
ノヴァの声は、ほんの少しだけ、うれしそうだった。
◇ ◇ ◇
試験場へ向かう廊下で、オルドが待っていた。壁にもたれ、ねじれた杖に両手をのせている。
「行くのか」
「はい」
「そうか」
オルドは、それだけ言って、ふところから、小さな布の袋を取りだした。中には、乾いた薬草が少し。あの、ミントに似た、すっとするにおい。
「手のひらに、こすりつけておけ。汗で、杖がすべらんように。……それと、もう一つ」
オルドは、遥の胸のあたりを、杖の先で軽くたたいた。
「糸は、外にあるのではない。おまえが、どの糸をほしいのか、それを知っておるのは、おまえだけじゃ。試験官でも、首席の娘でも、おまえの耳の中のだれかでも、ない」
遥は、ぎくりとした。
(耳の中の、だれか)
オルドは、しわだらけの顔で、いたずらっぽく笑った。それから、廊下の奥へ、ゆっくりと歩いていった。
◇ ◇ ◇
実技試験は、学校の地下にある、円形の試験場で行われた。
階段をおりていくと、空気がひんやりと重くなる。石の壁に、青白い魔法の灯りが、等間かくにならんでいる。しめった土と、古い石のにおい。どこか深いところから、低い、うなるような音がかすかに聞こえていた。
まるいすりばちのような観客席には、生徒たちがぎっしりとすわっていた。ざわざわという声が、ドームの天井に反響して、雨の音のように降ってくる。
中央の台の上で、試験官のグラン教頭が、羊皮紙を読みあげた。
「本年の最終試験は、二人一組で行う。ハルカ・リーヴェル。組む相手は――セレスティア・アークライト」
客席が、どっとわいた。
首席と、3年留年の落ちこぼれ。笑い話のような組み合わせだった。
セレスティアが、遥のとなりに立った。金色の編みこみが、灯りを受けて光っている。彼女は、前を向いたまま、小さな声で言った。
「足を引っぱらないで。……あなたは、立っているだけでいいから」
その声は、意地悪というより、どこか、つかれて聞こえた。遥は、思わず彼女の横顔を見た。セレスティアのこぶしが、ローブのそでの中で、白くなるほどにぎりしめられていた。
(この子も、こわいんだ)
首席でいつづけることが。一度も負けられないことが。
遥は、それに気づいた自分に、少しおどろいた。いつもなら、笑われた相手のことなんて、「いやなやつ」で終わりにしていた。
【試験開始まで、あと2分です。遥さま、プランを確認します。正統派の炎の型。杖の角度、45度――】
(わかってる)
心臓の音が、うるさい。手のひらに、汗がにじむ。杖が、すべる。
客席から、だれかが言った。
「どうせ、またなんにも出ないよ」
どっと、笑い声。
頭が、まっ白になった。外側の輪。手のとどかない輪。わかっているのに、目が、耳が、勝手にそっちへ吸いよせられていく。
◇ ◇ ◇
「はじめ」
グラン教頭の声がひびいた。
セレスティアが、杖をかかげる。
「炎よ、わが指先に宿れ」
彼女の杖の先に、あざやかな赤い炎が、花のようにひらいた。客席から、ため息のような歓声。熱が、遥のほおまでとどく。
遥も、杖をかまえた。45度。
「炎よ、わが指先に、宿れ――」
何も、起きない。
くすくす、という笑い声が、波のように広がっていく。
【……遥さま、もう一度。プランどおりに。杖の角度が、47度になっています】
(2度くらい、いいでしょ)
【いいえ。プランの成功率は、正確な再現を前提に――】
そのときだった。
足もとが、ぐらりとゆれた。
最初は、自分がめまいを起こしたのだと思った。けれど、ちがった。客席の生徒たちも、いっせいに立ちあがっていた。試験場の灯りが、ちかちかとまたたく。
地の底から聞こえていた、あの低いうなりが、急に大きくなった。ゴウン、ゴウン、と、巨大な時計の歯車が回るような音。
【警告。足もとの深い場所に、強い魔力の反応があります。……データにない反応です】
ノヴァの声が、はじめて、少しだけふるえた。
「何、これ」
セレスティアの炎が、ふっと消えた。彼女は、杖をにぎったまま、床を見つめていた。
「……まさか。地下の大時計が、目をさましたの?」
「大時計?」
「王国の、いちばん古い魔導装置よ。何百年も止まっていたはず。ありえた世界の糸を読む装置だって、言われてる。……おとぎ話だと思ってた」
ありえた世界の、糸。
遥は、息をのんだ。オルドの言葉。蒼汰の言葉。枝分かれしていく、数えきれない世界。
次の瞬間、試験場のまんなかの床に、一本の黒い線が走った。
ピシッ。
線は、またたくまにクモの巣のように広がり、石の床が、音を立てて割れた。
割れ目の底から、青い光が、噴きあがった。
まぶしさに目をつぶる直前、遥は見た。光の中に、何千、何万という細い糸が、からみあいながらゆらめいているのを。そして、そのうちの何本かが、ふっ、と音もなく消えていくのを。
【……遥さま。残り、11時間58分です】
ノヴァの声だけが、いつもと同じように、正確だった。




