5話 〈向こうの私〉ハルカ、コンビニに立つ
ハルカ・リーヴェルが最初に気づいたのは、静けさだった。
鐘が鳴らない。石の壁がない。かわりに、天井から、ブウン、という低い音と、ひんやりした風がふきおりてくる。見あげると、白い四角い箱が、壁の高いところで、息をはいていた。
(風の精霊を、箱にとじこめてあるの……?)
ハルカは、おそるおそるベッドからおりた。からだが、軽い。髪が、短い。手鏡のかわりに、机の上に、黒くて平たい板が置かれていた。ふれると、板が光った。
『ようこそ、ハルカ・リーヴェルさま。こちらは、交換相手さま向けのご案内です。
あなたは今、七瀬遥さまのおからだで、七瀬遥さまの世界にいらっしゃいます。
72時間後、自動的に、元の世界へお帰りいただけます』
ハルカは、板を持ったまま、しばらく動けなかった。
それから、右の耳たぶを、くいっ、くいっと、二回引っぱった。考えごとをするときの、くせ。
窓の外は、見たこともない景色だった。坂の下を、四角い鉄の箱が、何十も連なって走っていく。馬もいないのに。空には、銀色の鳥が、音もなくすべっていた。
(ここが、もう一人のわたしの世界)
そして、ハルカは思いだした。自分の誕生日、7月4日の夜に見た夢を。白い扉。七つの鍵穴。扉の向こうで、だれかが呼んでいた名前。
――トワ。
同じ夢を、この世界のわたしも、見たのだろうか。
◇ ◇ ◇
家には、だれもいなかった。
台所のテーブルに、メモが一枚。『今日も遅くなります。母』。その横に、昨日の日付のメモ。『誕生日おめでとう。ケーキは冷蔵庫』。
ハルカは、冷蔵庫を開けた。冷たい白い光と、冷たい息。中には、ほとんど何も入っていなかった。
ふと、階段の上を見た。二階の、とじられたドア。この家のどこよりも、そこだけ、時間が止まっているような気がした。
ハルカは、階段をのぼった。ドアの前に立つと、すきまから、古い紙のにおいがした。
ドアノブに手をかけて、少し迷った。それから、ほんの少しだけ開けて、中をのぞいた。
本と、書類の山。机の上に、黒い革の手帳。その横に、写真立てが一つ。小さな女の子が、いちごのケーキの前で、ろうそくを吹きけそうとしている。そのうしろで、メガネの男の人が、女の子の頭に手をのせて、笑っていた。ケーキには、チョコレートの板。『7/4 はるか』。
ハルカは、そっとドアを閉めた。
(ここは、わたしが入っていい場所じゃない)
相手の人生を、こわしてはいけない。案内の板にも、そう書いてあった。
板が、ぶるっとふるえた。画面に、文字が出る。
『本日のシフト 22:00〜6:00』
ハルカは、案内の続きを読んだ。この世界の遥は、「コンビニ」という店で、夜のあいだ働いているらしい。
(わたしの代わりに、あの子は、試験を受けるかもしれない。……だったら、わたしも、あの子の代わりに、ちゃんと働かなきゃ)
◇ ◇ ◇
夜の9時50分。ハルカは、店の前に立っていた。
まぶしかった。夜なのに、店の中は昼のように明るい。ガラスの扉の前に立つと、扉が、ひとりでに左右に開いた。軽やかな音楽が鳴る。
(呪文もとなえていないのに!)
ハルカは思わず、一歩さがった。扉が閉まる。もう一歩、前へ。扉が開く。
「……七瀬さん? 何してるの」
店の奥から、やさしそうな青年が顔を出した。案内の板によれば、夜勤の相棒、柏木蒼汰さんだ。
「あの、この扉は、どんな精霊が――いえ。なんでもありません」
「精霊?」
「おはようございます。今夜も、よろしくおねがいします」
ハルカは、魔法学校で習ったとおり、右手を胸にあてて、ふかぶかと頭を下げた。蒼汰は、目をぱちくりさせた。
レジの奥では、50代くらいの男の人が、書類を見ていた。坂口店長だ。店長は、ハルカを見ると、少しおどろいた顔をした。
「七瀬。……10分前に来たの、はじめてじゃないか」
壁に貼られた紙に、この店で働く人たちの名前がならんでいた。遥の名前の横にだけ、赤い丸が、いくつもついている。小さな字で、『遅刻』。
ハルカは、その赤い丸を、ひとつずつ数えた。七つあった。
それから、店長の前に立ち、もう一度、ふかぶかと頭を下げた。
「これまで、何度も遅れて、ほんとうに申しわけありませんでした。……わたしにも、事情は、あったのだと思います。でも、待たされた人には、関係のないことです」
店長は、しばらくだまっていた。それから、書類に目をもどして、ぼそりと言った。
「……今日は、たのむぞ」
店長の声は、ぶっきらぼうだった。けれど、ハルカには、その声のおくに、ほんの少しだけ、ほっとしたような響きが聞こえた。
◇ ◇ ◇
コンビニは、魔法の店だった。
黒い棒を、商品の白黒のしまにかざすと、ピッと鳴って、値段がわかる。光の呪文にちがいない。四角い箱にお弁当を入れて、ボタンを押すと、中で、あたたかい光がくるくる回る。火を使わずに、食べ物が温まる。
(この世界の人たちは、みんな、魔法使いなんだ)
そう思った。それなのに、だれも、自分を魔法使いだとは思っていないらしい。
午前0時すぎ。小さなおばあさんが、牛乳を一本、レジに置いた。財布から小銭を出そうとして、手がふるえ、一円玉や十円玉が、カウンターの上に散らばった。
「ごめんなさいねえ。目が、もうよく見えなくて」
「だいじょうぶです。いっしょに、数えましょう」
ハルカは、硬貨を一枚ずつ、おばあさんの手のひらの上にならべていった。魔法学校で、薬草の種を数える練習を、何百回もしてきた。こういうことは、得意だった。
「十円が、三枚。一円が、八枚。……ぴったりです」
おばあさんは、しわだらけの顔で、うれしそうに笑った。
「あんた、いつもの子だよね。今日は、なんだか、やさしい顔してる」
おばあさんが帰ったあと、品出しをしていた蒼汰が、ぽつりと言った。
「あのおばあちゃん、いつも、七瀬さんのレジに並ぶんだよ。前に、七瀬さんが、杖を拾ってあげたことがあるんだって」
ハルカは、おどろいて、自動ドアの向こうを見た。
(この世界のわたしも、ちゃんと、だれかにやさしくしてるんだ)
ただ、それを、自分で知らないだけで。
午前3時。休けいの時間。バックヤードのいすにすわって、ハルカは窓の外を見あげた。この世界の夜空は、明るすぎて、星が少ししか見えない。
「星、好きなの?」
蒼汰が、缶コーヒーを二本持ってきて、一本をハルカにくれた。冷たい缶の表面に、水のつぶがついている。ふたを開けると、こうばしくて、少し苦いにおいがした。
「わたしの国では――いえ、わたしの家では、こう言うんです。選ばれなかった道は、空の星になる。だから、星が多い夜は、だれかが、たくさん迷った夜なんだって」
蒼汰は、缶を口にはこぶ手を止めた。
「それ、すごいね。多世界解釈みたいだ」
「たせかい……?」
「選ぶたびに、世界が枝分かれするって考え方。選ばなかったほうの世界も、消えずに、どこかで続いてるかもしれないっていう。……七瀬さんに、この前話したの、覚えてない?」
ハルカは、少しだけ考えて、それから、首を横にふった。
「ごめんなさい。……でも、その話、きっと、本当だと思います」
蒼汰は、ハルカの顔をじっと見た。
「なんか、今日の七瀬さん、別の世界から来た人みたいだね」
ハルカの心臓が、どくんと鳴った。蒼汰は、すぐに笑って、「ごめん、変なこと言った」と、缶コーヒーを飲みほした。
◇ ◇ ◇
朝6時。夜勤を終えて、ハルカは坂の上の家にもどった。
鍵を開けると、家はしんとしていた。玄関に、女の人のくつが一足。二階から、かすかな寝息が聞こえる。遥の母、京子さんが、夜おそく帰ってきたのだろう。
ハルカは、台所のテーブルについた。引き出しから、紙とペンを出す。ペンは、羽根ペンよりもずっと書きやすかった。手が、この世界の文字の形を、覚えていた。
何を書こうか、しばらく迷った。
この家で、たった一日すごしただけで、わかったことがある。冷蔵庫の中が、ほとんどからっぽなこと。二階のとじられたドア。テーブルの上の、短いメモ。おたがいを思っているのに、すれちがいつづけている二人。
自分の家も、少しだけ、似ていた。
ハルカは、ペンを走らせた。
『京子さまへ』
書いてから、少し考えて、線を引いて消した。
『お母さんへ』
窓の外で、すずめが鳴いた。夏の朝の光が、テーブルの上を、ゆっくりと横切っていった。




