4話 二つの輪〈残り60時間〉
その日、遥は、ノヴァの攻略プランどおりに練習した。
中庭の練習場で、杖を45度にかまえる。呪文を、教科書どおりにとなえる。
「炎よ、わが指先に宿れ」
何も起きない。
もう一度。何も起きない。百回目も、何も起きなかった。杖をにぎる手のひらに、まめができはじめていた。夕方の風が、汗ばんだ首すじを冷やしていく。
【成功確率の推定を、34%から29%に修正します】
「下がってるじゃん」
【申しわけありません。正確さを優先しました】
「手、いたい。まめができた」
【まめ、ですか。……豆が、手にできたのですか。それは、食べられますか】
「食べられません」
【失礼しました。辞書を確認しました。手のひらの皮がかたくなったもの、ですね。記録します。……遥さまの手は、2時間18分で、まめを一つ作りました。たくさん練習した証拠です】
ほめられているのか、ただ正確なだけなのか、わからなかった。けれど、少しだけ、笑えた。
まわりで練習していた生徒たちは、ひとり、またひとりと寮へ帰っていった。セレスティアが通りすぎるとき、ちらりとこちらを見て、何も言わずに去っていった。何か言われるより、そのほうが、こたえた。
遥は、杖を地面に投げだした。
(やっぱり、むりだ。どうせ、わたしには――)
「その杖は、地面に話しかけても、答えてはくれんぞ」
しわがれた声がした。
ふり向くと、白いひげの老人が立っていた。背中が少しまがり、ローブのすそは土でよごれている。手には、ねじれた木の杖。
【老魔導師オルドさまです。ハルカさまの指導教官。……記録によると、ハルカさまは補習を、3年間、一度も休んでいません】
「補習の時間じゃよ、ハルカ。今日も、来んかと思うたがな」
オルドは、遥の顔を、じっと見た。灰色の目が、少しだけ細くなる。
「……ほう。今日のおまえは、いつもと、目がちがうな」
遥の背中に、冷たいものが走った。
「ち、ちがいません」
「いや、ちがう。いつものおまえは、杖を投げたあと、もう二度と拾わん、という目をしておった。今日のおまえは、投げたくせに、まだ杖のほうを見ておる」
オルドは、それ以上は何も聞かずに、背中を向けて歩きだした。遥は、地面の杖を拾って、あわててそのあとを追った。
◇ ◇ ◇
オルドの研究室は、塔のてっぺんにあった。せまい部屋に、星図と、乾いた薬草のたばと、何に使うのかわからない真鍮の道具がつまっている。ストーブの上で、やかんがしゅんしゅんと鳴っていた。
オルドは、床に白いチョークで、大きな円をえがいた。その内側に、もう一つ、小さな円。
「魔法陣は、二つの輪でできておる。わかるか」
遥は、首をふった。オルドは、外側の大きな輪を、杖の先でたたいた。
「これは『手のとどかない輪』じゃ。試験官の好み。生まれつきの才能。3年の留年。まわりの笑い声。どれも、おまえが今すぐ変えられるものではない」
次に、内側の小さな輪を。
「これは『手のとどく輪』。おまえの呼吸。おまえのことば。おまえが、次にふみだす一歩。……ハルカ。おまえは、どっちの輪ばかり、見ておる?」
遥は、答えられなかった。
試験官の目。セレスティアの笑い声。講師のひとこと。陽菜の投稿。父との最後の夜。どれも、外側の輪だった。遥はずっと、外側の輪のことばかり考えて、うまくいかない理由を、そこに見つけてきた。
「もう一つ、教えてやろう」
オルドは、窓の外の空を指さした。日が沈み、東の空に、星がひとつ、またひとつと、ともりはじめていた。
「魔法とは、何もないところから火を生むことではない。この世には、ありえた世界が、糸のように数かぎりなくのびておる。火がともった世界。ともらなかった世界。魔法使いは、その中から、火がともった世界の糸を一本、自分のほうへ引きよせるのじゃ」
遥は、息をのんだ。
何かが起きるたびに、世界が枝分かれしている。どっちも、どこかで続いているかもしれない。――蒼汰の声が、耳の奥でかさなった。
「でもな、糸は、迷っておる者の手には、つかめん。学校で習った外側の輪ばかり見ておる者は、自分がどの糸をほしいのかさえ、わからなくなる。だから、まず、内側の輪に立つ。自分の手のとどくところに」
「……それだけで、光るんですか」
「それだけが、むずかしいのじゃよ」
オルドは、少しだけ遠い目をした。
「3年間、おまえは一度も、この補習を休まなかった。来るたびに、『どうせ、むり』と言いながらな。……わしは、それがずっと、ふしぎじゃった。むりだと思うておる者は、ふつう、来ん」
遥は、ハルカのノートのすみの文字を思いだした。『どうせ、わたしには、むり』。そう書きながら、ハルカは、何百回も魔法陣を書きなおしていた。
(投げ出してないじゃん。この子)
自分とは、ちがう。遥は、そう思った。ハルカは、どうせ、と言いながら、3年間、ここに来つづけた。遥は、どうせ、と言って、3か月でいなくなった。
同じ魂なのに。どこで、枝が分かれたのだろう。
オルドは、やかんのお湯で、うすい薬草茶をいれてくれた。湯気から、ミントに似た、すっとするにおいがのぼる。ひと口飲むと、からだの内側が、じんわりとあたたかくなった。
◇ ◇ ◇
寮にもどると、もう夜だった。ベッドにねころび、遥は天井の梁を見あげた。
「ノヴァ。……魔法を、成功させて」
【承知しました。成功させます。……申しわけありません。遥さま、具体的に、何をすればよいでしょうか。わたしは、遥さまのからだを動かすことはできません】
「そうじゃなくて。どうすればいいか、教えてって意味」
【承知しました。では、お答えします。魔法を成功させるには、魔法を成功させる必要があります】
「なにそれ」
【申しわけありません。ご質問が広すぎて、答えも広くなってしまいました。……遥さま。今、何ができて、何ができなくて、時間はどれくらいあるのか、教えていただけますか。わたしには、それが見えないのです】
遥は、天井を見つめたまま、考えた。
何ができるのか。何ができないのか。そんなことを、ちゃんと言葉にしたことは、なかった。いつも、「ぜんぶ、むり」でまとめてきた。
「……呪文は、三つ覚えた。炎と、風と、光。杖の持ち方は、自信がない。手のひらが、すぐ汗ですべる。それから、みんなに見られると、頭がまっ白になる。時間は――」
【残り、60時間04分です】
「残り60時間。……何から、練習すればいい?」
ノヴァは、少しのあいだ、だまった。
【ありがとうございます。とてもよくわかりました。それなら、答えは変わります。型の反復は、後まわしにしましょう。最初は、人のいない場所で、杖を持たずに、呼吸だけを練習してください。頭がまっ白になる原因を、先にとりのぞきます】
さっきとは、まるでちがう答えだった。
(言い方を変えただけなのに)
ちがう。言い方を変えたのではない。自分が何に困っているのかを、はじめて、自分で見たのだ。
遥は、ベッドの上であぐらをかき、目をとじた。息をすう。はく。オルドの言葉を思いだす。内側の輪。手のとどく、ところ。
指先に、かすかに、何かがふれた気がした。けれど、目をあけると、そこには何もなかった。
部屋は暗いまま。ろうそくは、ともらなかった。
【……記録します。成功は、まだです】
ノヴァの声が、いつもより少しだけ、やさしく聞こえた。




