↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
パラレル・トラベラー ”72時間だけ、もう一人の異世界のわたし”  作者: Hamin
終章 この世界の、この一回

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
51/52

51話 ただいま、この世界

 最初に気づいたのは、手のぬくもりだった。


 だれかが、右手を、にぎっている。少しかさついた、あたたかい手。ときどき、指先が、ぴくりと動く。眠《ねむ》っている人の手だった。


 遥《はるか》は、目をあけた。


 白い天井。消毒液のにおい。窓のカーテンのすきまから、朝の光が、細くさしこんでいる。


 ベッドのはしに、母の頭があった。いすにすわったまま、ベッドにつっぷして、遥の手をにぎったまま、眠っていた。白髪(かみ)が、何本か、まじっていた。前からだったのだろうか。それとも、この数日で、ふえたのだろうか。


 遥は、母の手を、そっと、にぎりかえした。


 母が、びくりと、顔をあげた。


 目が合った。


「……遥?」


 母の声は、かすれていた。


 遥は、うなずいた。のどが、からからで、声が、うまく出なかった。それでも、言った。


「……ただいま」


 母の顔が、くしゃくしゃに、ゆがんだ。


「おかえり」


 母は、遥の手を、両手で、ぎゅっと、つつんだ。


「おかえり、遥」


 3年間、言えなかった言葉だった。母も、遥も。


◇ ◇ ◇


 しばらくして、記憶《きおく》が、流れこんできた。


 ハルトの、72時間。


 肩《かた》の上の重りが消えた、ふしぎな軽さ。母と食べた、肉じゃがと焼き魚。「毎回、ちがう人と、ごはんを食べてるみたい」。暗い坂道の、うしろの足音。大きな電気製品の店の、ピンクのノートパソコン。


 そして、帰還《きかん》の時刻に、からだからはなれかけて、止まってしまった、長い長い、暗い時間。


 それから、遥彦《はるひこ》の、数日間。


 何十年ぶりに、自分の目で見あげた、病院の窓の空。陽菜《ひな》が持ってきてくれたスケッチブック。「早く、また、描《か》いてね」。


 夜の雨の音。母の「航《わたる》さん」。「ありがとう」。「ごめんね」。「さよなら」。


 そして、ベッドのはしで眠る母の、しずかな寝息《ねいき》。


 遥は、目を閉じた。


 ハルトも、遥彦も、遥のいないあいだ、この世界で、遥の大切な人たちを、守ってくれていた。


◇ ◇ ◇


 退院の日は、よく晴れていた。


 家に帰ると、遥は、まっすぐに、二階へあがった。


 父の書斎《しょさい》の、ドアの前に、立った。


 息をすう。一秒。


 ドアを、開けた。


 紙と、ほこりと、ほんの少しだけ、コーヒーのにおい。窓から、秋のはじめの、やわらかな光がさしこんでいた。


 机の上に、黒い革の手帳。


 遥は、いすにすわり、手帳を開いた。


 ルーティン0から、ゆっくりと、ページをめくっていく。メガネをかけかえる。すきまの一秒。着地点から飛べ。急がない宝物から。ふたりとも勝つテーブル。耳が先、口はあと。1+1=3の魔法《まほう》。


 そして、ルーティン7。鉛筆《えんぴつ》を削《けず》る日曜日。


 そのページには、付箋《ふせん》が、一枚も、なかった。


 ほかのどのページにも、父の小さな書きこみや、付箋がびっしりと貼《は》られていたのに。この七つ目のページだけは、真っ白だった。


 父は、ここに、何も書けなかったのだ。一度も、実行できなかったから。


 遥は、最後のページを、開いた。


◇ ◇ ◇


 七瀬《ななせ》ハルの記憶の中で、一度、読んだ字だった。


 けれど、自分の目で読むのは、はじめてだった。


 少しふるえた、父の字。


『遥へ。


 この手帳を、お前が開く日が来るかどうか、お父さんには、わからない。もし開いたなら、少しだけ、聞いてほしい。


 このルーティンを、ぜんぶ守れなくてもいい。ひとつでいい。それでもだめなら、またひとつ目から。始めなおせることが、いちばんのルーティンだ。


 お父さんは、七つ目を、守れなかった。休むのが、こわかった。止まったら、もう、二度と走れなくなる気がしていた。


 だから、お前は、ちゃんと休め。


 ちゃんと休んで、ちゃんと、また始めろ。


 最近、お前は、あまり話してくれない。お父さんが、ちゃんと聞いていないからだと思う。今夜こそ、聞こうと思っている。


 お前の絵が、好きだ。人がいない絵でも、お父さんには、そこに、いつも、お前が見える。


 次の7月4日には、ちゃんと、おめでとうを言わせてくれ。自分の足で、立てよ。


 父より』


 日付は、父が倒《たお》れた、その日だった。


◇ ◇ ◇


 遥は、手帳を、胸に当てた。


 今夜こそ、聞こうと思っている。


 あの夜。父は、遥の話を、聞こうとしていたのだ。そして、遥は、ドアを閉めた。


 どうせ、お父さんには、わたしの気持ちなんか、わからない。


 涙《なみだ》が、手帳の革の上に、ぽたぽたと、落ちた。


「……ごめんね」


 遥は、声に出して、言った。


 だれもいない書斎に。机に。父のいすに。


「あのとき、ドアを閉めて、ごめんね。……聞こうとしてくれて、ありがとう」


 窓の外で、すずめが、鳴いた。


 カーテンが、ふわりと、ゆれた。


 返事は、なかった。けれど、遥には、それで、よかった。


 3年間、のどの奥《おく》につかえていた言葉が、やっと、外に出た。それだけで、からだの奥の、ずっとかたかった場所が、少しだけ、ほどけた気がした。


◇ ◇ ◇


 その夜、遥は、自分の机で、『人生のコンパス(下書き)』のノートを、開いた。


『七瀬遥《ななせはるか》は、描くことから、もう逃《に》げなかった』


『だいじょうぶ。』


『七瀬遥は、人の話を、最後まで聞いた』


 そして、その下に、ハルトの字があった。


 まっすぐで、少し右上がりの、几帳面《きちょうめん》な字。


『七瀬遥は、ひとりで、だいじょうぶなふりをしなかった』


 遥は、その一行を、長いあいだ、見つめていた。


 だいじょうぶなふり。


 どうせ、と言って、逃げてきた。けれど、その「どうせ」の裏で、遥は、いつも、だいじょうぶなふりをしていた。母にも、陽菜にも、店長にも、自分にも。ひとりで、平気なふりを。


 ハルトは、〈アストレイア〉で、「だいじょうぶでなければならない」重りを、背負っていた。そして、遥のからだで、その重りを、はじめて、おろした。


 だから、この一行を、書けたのだ。


 遥は、ペンを取った。


 そして、四つの言葉のいちばん下に、自分の字で、最後の一行を、書いた。


『七瀬遥は、何度でも、始めなおした』


 書きおえると、遥は、ノートの表紙の『(下書き)』の文字に、線を一本、引いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。