51話 ただいま、この世界
最初に気づいたのは、手のぬくもりだった。
だれかが、右手を、にぎっている。少しかさついた、あたたかい手。ときどき、指先が、ぴくりと動く。眠っている人の手だった。
遥は、目をあけた。
白い天井。消毒液のにおい。窓のカーテンのすきまから、朝の光が、細くさしこんでいる。
ベッドのはしに、母の頭があった。いすにすわったまま、ベッドにつっぷして、遥の手をにぎったまま、眠っていた。白髪が、何本か、まじっていた。前からだったのだろうか。それとも、この数日で、ふえたのだろうか。
遥は、母の手を、そっと、にぎりかえした。
母が、びくりと、顔をあげた。
目が合った。
「……遥?」
母の声は、かすれていた。
遥は、うなずいた。のどが、からからで、声が、うまく出なかった。それでも、言った。
「……ただいま」
母の顔が、くしゃくしゃに、ゆがんだ。
「おかえり」
母は、遥の手を、両手で、ぎゅっと、つつんだ。
「おかえり、遥」
3年間、言えなかった言葉だった。母も、遥も。
◇ ◇ ◇
しばらくして、記憶が、流れこんできた。
ハルトの、72時間。
肩の上の重りが消えた、ふしぎな軽さ。母と食べた、肉じゃがと焼き魚。「毎回、ちがう人と、ごはんを食べてるみたい」。暗い坂道の、うしろの足音。大きな電気製品の店の、ピンクのノートパソコン。
そして、帰還の時刻に、からだからはなれかけて、止まってしまった、長い長い、暗い時間。
それから、遥彦の、数日間。
何十年ぶりに、自分の目で見あげた、病院の窓の空。陽菜が持ってきてくれたスケッチブック。「早く、また、描いてね」。
夜の雨の音。母の「航さん」。「ありがとう」。「ごめんね」。「さよなら」。
そして、ベッドのはしで眠る母の、しずかな寝息。
遥は、目を閉じた。
ハルトも、遥彦も、遥のいないあいだ、この世界で、遥の大切な人たちを、守ってくれていた。
◇ ◇ ◇
退院の日は、よく晴れていた。
家に帰ると、遥は、まっすぐに、二階へあがった。
父の書斎の、ドアの前に、立った。
息をすう。一秒。
ドアを、開けた。
紙と、ほこりと、ほんの少しだけ、コーヒーのにおい。窓から、秋のはじめの、やわらかな光がさしこんでいた。
机の上に、黒い革の手帳。
遥は、いすにすわり、手帳を開いた。
ルーティン0から、ゆっくりと、ページをめくっていく。メガネをかけかえる。すきまの一秒。着地点から飛べ。急がない宝物から。ふたりとも勝つテーブル。耳が先、口はあと。1+1=3の魔法。
そして、ルーティン7。鉛筆を削る日曜日。
そのページには、付箋が、一枚も、なかった。
ほかのどのページにも、父の小さな書きこみや、付箋がびっしりと貼られていたのに。この七つ目のページだけは、真っ白だった。
父は、ここに、何も書けなかったのだ。一度も、実行できなかったから。
遥は、最後のページを、開いた。
◇ ◇ ◇
七瀬ハルの記憶の中で、一度、読んだ字だった。
けれど、自分の目で読むのは、はじめてだった。
少しふるえた、父の字。
『遥へ。
この手帳を、お前が開く日が来るかどうか、お父さんには、わからない。もし開いたなら、少しだけ、聞いてほしい。
このルーティンを、ぜんぶ守れなくてもいい。ひとつでいい。それでもだめなら、またひとつ目から。始めなおせることが、いちばんのルーティンだ。
お父さんは、七つ目を、守れなかった。休むのが、こわかった。止まったら、もう、二度と走れなくなる気がしていた。
だから、お前は、ちゃんと休め。
ちゃんと休んで、ちゃんと、また始めろ。
最近、お前は、あまり話してくれない。お父さんが、ちゃんと聞いていないからだと思う。今夜こそ、聞こうと思っている。
お前の絵が、好きだ。人がいない絵でも、お父さんには、そこに、いつも、お前が見える。
次の7月4日には、ちゃんと、おめでとうを言わせてくれ。自分の足で、立てよ。
父より』
日付は、父が倒れた、その日だった。
◇ ◇ ◇
遥は、手帳を、胸に当てた。
今夜こそ、聞こうと思っている。
あの夜。父は、遥の話を、聞こうとしていたのだ。そして、遥は、ドアを閉めた。
どうせ、お父さんには、わたしの気持ちなんか、わからない。
涙が、手帳の革の上に、ぽたぽたと、落ちた。
「……ごめんね」
遥は、声に出して、言った。
だれもいない書斎に。机に。父のいすに。
「あのとき、ドアを閉めて、ごめんね。……聞こうとしてくれて、ありがとう」
窓の外で、すずめが、鳴いた。
カーテンが、ふわりと、ゆれた。
返事は、なかった。けれど、遥には、それで、よかった。
3年間、のどの奥につかえていた言葉が、やっと、外に出た。それだけで、からだの奥の、ずっとかたかった場所が、少しだけ、ほどけた気がした。
◇ ◇ ◇
その夜、遥は、自分の机で、『人生のコンパス(下書き)』のノートを、開いた。
『七瀬遥は、描くことから、もう逃げなかった』
『だいじょうぶ。』
『七瀬遥は、人の話を、最後まで聞いた』
そして、その下に、ハルトの字があった。
まっすぐで、少し右上がりの、几帳面な字。
『七瀬遥は、ひとりで、だいじょうぶなふりをしなかった』
遥は、その一行を、長いあいだ、見つめていた。
だいじょうぶなふり。
どうせ、と言って、逃げてきた。けれど、その「どうせ」の裏で、遥は、いつも、だいじょうぶなふりをしていた。母にも、陽菜にも、店長にも、自分にも。ひとりで、平気なふりを。
ハルトは、〈アストレイア〉で、「だいじょうぶでなければならない」重りを、背負っていた。そして、遥のからだで、その重りを、はじめて、おろした。
だから、この一行を、書けたのだ。
遥は、ペンを取った。
そして、四つの言葉のいちばん下に、自分の字で、最後の一行を、書いた。
『七瀬遥は、何度でも、始めなおした』
書きおえると、遥は、ノートの表紙の『(下書き)』の文字に、線を一本、引いた。




