50話 七つめの鍵穴
光の道の先に、白い扉が、閉じていた。
遥は、光の道を、一歩ずつ歩いて、その前に立った。
いつのまにか、遥彦のからだではなく、遥のからだにもどっていた。光の中だから、なのかもしれない。
扉は、白い光でできていた。その白さの奥に、小さな人影が、うっすらと透けて見えた。
小さな、女の子だった。
白いワンピース。はだし。長くも短くもない髪。顔は、よく見えなかった。見ようとするたびに、少しずつ、ちがって見えた。幼い女の子のようにも、遥と同じくらいの年の少女のようにも、ずっと年をとったおばあさんのようにも。
「……トワ?」
女の子は、うなずいた。
――やっと、会えたね。はるか。
その声は、夢の中で、何度も聞いた声だった。
◇ ◇ ◇
――ありがとう。来てくれて。
トワは、扉の向こうから、遥を見つめていた。
――あなたが、いろんな世界で、いろんなことを、選んでくれたから。消えかけていた枝が、また、少しずつ、分かれはじめた。……わたしの中の「もしも」たちも、みんな、よろこんでる。
遥は、トワの顔を、見つめた。
少しずつ、ちがって見える顔。その中に、ほんの一瞬、ピアノを弾いている自分の顔が、見えた気がした。バスケのボールを持っている自分。専門学校の講評会で、胸をはって、自分の絵の前に立っている自分。父と、笑いあっている自分。
選ばれなかった、遥たち。
「……わたし、あなたたちを、ずっと、投げ出してきた」
遥の声が、ふるえた。
――うん。
「ごめんね」
――ううん。
トワは、首をふった。
――あなたが投げ出したから、わたしたちは、ここにいる。……それに、わたしたちは、消えてない。いつか、だれかが、選んでくれる。あなたじゃなくても、べつの世界の、べつのだれかが。
◇ ◇ ◇
遥は、扉を見あげた。遥の部屋のドアノブにそっくりな、銀色の鍵穴だけが、暗いままだった。
六つの色の鍵を、その鍵穴にさしこむ。鍵の先は、すっと吸いこまれた。
けれど、回らなかった。どんなに力をこめても、びくともしない。
「……どうして」
――その鍵は、あなたの答えでしか、回らないの。
トワが、言った。
――七つめの鍵穴が光るのは、あなたの世界で。でも、この扉を開けるかどうかは、今、ここで、あなたが選んで。
遥は、はっとした。
ルーティン7。鉛筆を削る日曜日。
父が、最後まで、守れなかった、ルーティン。
それは、異世界の大事件では、なかった。毎週の、ふつうの日曜日に、自分の世界で、自分で選びつづけることだった。
――ここで、あなたが、決めること。
扉の白さの奥で、トワの影が、手をのばした。
――ネクサスに、残る? ここなら、すべての世界が、見える。いろんなあなたに、なれる。……それとも、帰る? あなたの、たった一つの世界へ。この、一回きりの人生へ。
◇ ◇ ◇
遥は、ふり返った。
ネクサスの窓が、見えた。何千、何万の窓。ハルカの世界。ハルの空。お遥の村。七瀬ハルの地下。ハルトの船。
どの世界にも、遥がいた。どの遥の人生も、うらやましいくらい、まぶしかった。
魔法が使える人生。竜と空を飛ぶ人生。子を守る母の人生。50年、だれかと生きた人生。星の海を飛ぶ人生。
そして、その中に、ひとつの窓があった。
病院の、白い部屋。
ベッドのそばのいすで、母が、眠っていた。遥の手を、にぎったまま。
遥は、その窓を、長いあいだ、見つめていた。
専門学校をやめた。友だちから逃げた。父に、ドアを閉めた。コンビニの仕事も、なくなった。
それでも。
(あの人の手を、にぎりかえせるのは、この世界の、わたしだけだ)
遥は、トワのほうを、向いた。
「わたし、帰る」
自分の声が、はっきりと、ネクサスにひびいた。
「どの世界の、わたしも、それぞれに、すてきだった。……だから、わたしは、わたしの一回を、生きる。途中で、また、投げ出すかもしれない。でも、そのときは、また、ひとつ目から、始めなおす」
遥は、ほほえんだ。
「始めなおせることが、いちばんの、ルーティンだから」
◇ ◇ ◇
遥は、鍵穴にささったままの鍵を、もう一度、にぎった。六つの色のぬくもりが、手のひらに、しみてくる。ハルカの補習。ハルの空。お遥の約束。千鶴の白湯。ハルトの船。遥彦の、削った鉛筆。
鍵を入れて、回した。
かちり。
小さな、小さな音だった。けれど、それは、だれかに決めてもらった答えではなく、遥が、自分の手で回した、はじめての音だった。
その瞬間だった。
遥の足もとから、光が、あふれた。
光は、木の根のように、四方八方へ、のびていった。一本が、二本に分かれ、二本が、四本に分かれ、四本が、八本に。
ネクサスじゅうに、光の枝が、ひろがっていった。
重なりかけていた窓と窓が、はなれていく。消えかけていた窓に、ふたたび、映像が、ともる。黒いひびが、はしから、少しずつ、とじていく。
【……】
どこかで、ノヴァの、かすかな、かすかな気配がした。声ではなかった。ただ、ほほえんでいるような、気配だった。
遥彦の窓が、見えた。病院のベッドの上で、遥彦が、遥に向かって、大きく、うなずいていた。
ハルカの魔法学校の窓。ハルの空の窓。お遥の村の窓。七瀬ハルの地下の窓。ハルトの船の窓。どの窓にも、光がもどり、そして、その窓の向こうで、また、新しい枝が、分かれていった。
収束が、止まっていた。
遥は、両手を、扉にあてた。
押した。
重かった。何千、何万の世界の重さが、扉の向こうから、押しかえしてくる。それでも、遥は、足をふんばって、押しつづけた。
扉が、ゆっくりと、ひらいた。
――ありがとう、はるか。
ひらいた扉の向こうで、トワが、ほほえんでいた。今度は、はっきりと、顔が見えた。
小さな女の子だった。いちごのケーキの前で、ろうそくを吹きけそうとしていた、写真の中の、5歳の遥に、そっくりな顔だった。
――いってらっしゃい。
トワは、手をふった。そして、その小さな姿は、光の粒になって、ゆっくりと、ほどけていった。
消えたのでは、なかった。
光の粒は、ネクサスじゅうにひろがった、何千、何万の光の枝の中へ、ひとつずつ、しずかに、とけこんでいった。
選ばれるのを、待つために。
◇ ◇ ◇
白い扉が、ゆっくりと、閉じていった。
遥のからだが、ふわりと、浮いた。
ほどけていく。光の粒になって。そして、どこか、なつかしい場所へ、ひっぱられていく。
最後に、遥は、扉を見た。鍵を回した、いちばん下の、銀色の鍵穴は、まだ暗かった。
けれど、その暗さは、もう、こわくなかった。
それは、これから、遥が、自分の世界で、ともす光だったから。




