52話 次の旅行先を検索しますか?
1年後の、7月4日。
朝6時。目ざまし時計が鳴る前に、遥は、目をさました。
窓の外は、もう明るかった。夏の朝の、少しだけしめった空気。坂の下の駅に、始発の次の電車が、すべりこんでいく音。
遥は、ベッドの上で、のびをした。
20歳になった。
それだけのこと――ではなかった。
◇ ◇ ◇
この春、遥は、新しい専門学校に入った。
前とは、ちがう学校だった。ゲームの背景美術を学ぶ学科。人ではなく、場所を描く仕事。
入学の面接で、遥は、スケッチブックを見せた。人のいない、夜の駅のホーム。雨のバス停。夜明けの坂道。
それから、竜と人がならんで飛ぶ、夜明けの空。石造りの、天井の高い広間。かやぶき屋根の、山里の村。
窓のない、地下の廊下。結晶の平原。何千、何万の窓がならぶ、白い光の部屋。
面接官の先生は、長いあいだ、ページをめくっていた。
「……人は、描かないんですか」
遥は、少しだけ考えて、答えた。
「描かないです。……でも、どの場所にも、だれかがいます。そこで、だれかが、生きている場所を、描きたいんです」
先生は、ゆっくりと、うなずいた。
「この絵には、あなたがいますね」
◇ ◇ ◇
月曜日から金曜日までは、学校。
土曜日は、駅前のコンビニの、昼のシフト。
去年の秋、退院してすぐ、遥は、コンビニに顔を出した。新しい学校の願書を出したことを、坂口店長に伝えに行ったのだ。何か決まったら、顔を見せに来い。店長は、そう言っていたから。
店長は、遥の話を、だまって聞いていた。それから、壁のシフト表を、ちらりと見た。
「……土曜の昼、人が足りないんだが」
それだけ言って、店長は、また書類に目をもどした。
遥は、深く、頭を下げた。
今も、壁のシフト表の、遥の名前の横に、赤い丸は、ひとつもない。
蒼汰は、大学院を出て、研究所で働きはじめた。ときどき、店に、缶コーヒーを買いに来る。
この前、蒼汰は、レジで、こんなことを言った。
「七瀬さん、前に、枝が分かれる数がへってるっていう論文の話、したでしょ。……あれ、去年の秋から、急に、ふえはじめたんだって。だれにも、理由がわからないらしい」
蒼汰は、缶コーヒーを手の中で回しながら、のんびり笑った。
「どこかで、だれかが、すごく大きな選択をしたのかもね」
遥は、おつりを数えながら、少しだけ、笑った。
「……そうかもしれないですね」
◇ ◇ ◇
そして、日曜日。
日曜日は、鉛筆を削る日だった。
朝いちばんに、遥は、机の上で、四本の鉛筆を削る。しゃり、しゃりと、木のかすが、くるりと丸まって落ちる。
ヒノキに似た、あまい木のにおい。黒い芯の粉が、指先に、うっすらとつく。
削るたびに、鉛筆は、少しずつ短くなる。だから、ていねいに削る。
朝は、目ざましをかけずに、眠りたいだけ眠る。からだの鉛筆。
それから、母と、ゆっくり朝ごはんを食べる。母は、去年の冬から、仕事を少しへらした。日曜日は、もう、仕事を入れない。人とのつながりの鉛筆。
午後は、知らない町を、歩く。知らない本を、読む。知性の鉛筆。
夕方は、ただ、空を見る。きれいなものを、きれいだと思う時間。心の鉛筆。
はじめのうちは、休むのが、こわかった。止まったら、もう二度と、走れなくなる気がした。父と、同じように。
けれど、日曜日に削った鉛筆は、月曜日、たしかに、前よりも、細く、まっすぐな線を引けた。
ときどき、日曜日をさぼって、課題に追われることもある。そんなときは、次の日曜日に、またひとつ目から、始めなおす。
それで、いい。
ある日曜日、遥は、図書館で、旧約聖書の『創世記』を、はじめて開いた。父の手帳のルーティン7のページの、さいごの一行が、ずっと、気になっていたからだ。天地をつくった神さまでさえ、七日目には、休んだそうだ。
はじめに、神さまは、光をつくり、昼と夜を分けた。空と水を分け、海と陸を分け、草と木を芽ばえさせた。太陽と月と星を置き、海に魚を、空に鳥を、地にけものを。一日ごとに、いのちの枝を、一本ずつ、ふやしていって、六日目に、人をつくった。
そして、七日目に、休まれた。
つくることを、やめたのではなかった。つくったものを、ながめて、よしとして、休まれたのだ。
遥は、図書館の窓ぎわの席で、しばらく、そのページを見つめていた。
六つの鍵穴は、旅の中で、ひとつずつ光った。いのちの枝を、ひとつずつ、ふやすように。そして、七つ目は、休むことで、光った。
休むことにも、理がある。走りつづけるだけでは、枝は、のびない。止まって、ながめて、よしとする日があるから、また、次の枝を、のばしていけるのだ。
父は、そのことを、知っていた。知っていて、守れなかった。
だから、遥は、守ろうと思う。父のぶんまで。
日曜の朝、坂の下の小さな教会の鐘が、からん、からんと鳴る。白いシャツの家族連れや、杖をついたおばあさんが、ゆっくりと、坂をのぼっていく。日曜には、近くの教会にも、人が集まるのだ。
そんな日曜も、いいかもしれない。遥は、ふと、そう思う。
◇ ◇ ◇
今日は、日曜日ではなかった。けれど、遥は、朝のうちに、母といっしょに、丘の上の墓地へ行った。
『七瀬家之墓』。
白い花を、そなえた。母が、線香に、火をつけた。細い煙が、夏の空へ、まっすぐに、のぼっていく。
遥は、ポケットから、一枚の、小さな紙を取りだした。
古い、子どもの字。
『おとうさんへ かたたたきけん 10かいぶん はるか』
父の手帳の、ルーティン4のページのポケットに、はさまっていた券。一度も、使われなかった券。
「お父さん。……一回目、使うね」
遥は、墓石のうしろに回った。夏の日ざしで、石は、あたたかかった。
遥は、墓石の、肩のあたりに、両手を置いた。
とん、とん。
ゆっくりと、たたいた。
とん、とん、とん。
となりで、母が、口もとをおさえて、笑った。笑いながら、少しだけ、泣いていた。
「……お父さん、きっと、くすぐったいって言ってるわよ」
「うん。……でも、まだ、9回、残ってるから」
遥は、券を、ていねいに、たたんで、財布の中にしまった。
◇ ◇ ◇
午後、遥は、陽菜と、駅前のカフェにいた。
テーブルの上に、二人のノートパソコンが、ならんでいた。
画面に映っているのは、小さなゲームの、最初の場面だった。
夜明けの、白い廊下。その先に、白い扉。扉には、七つの鍵穴。
背景は、遥が描いた。扉の前に立つ、小さな女の子の絵は、陽菜が描いた。
「ねえ、遥。この子の耳、やっぱり、さわらせたいんだけど」
陽菜が、画面の女の子を、指さした。
「どのさわり方にする? つまむ? 引っぱる?」
遥は、少し考えて、笑った。
「……ぜんぶ、少しずつ、ちがうのにしよう。この子が、扉の前に来るたびに、ちがうさわり方をするの」
「なにそれ。むずかしいよ」
「むずかしいね」
二人は、笑った。
二人のゲームの題名は、まだ、決まっていない。けれど、来年の春の、小さな展示会に出すことだけは、決めていた。
陽菜が、キャラクターを描く。遥が、背景を描く。
1+1が、3になるように。
◇ ◇ ◇
その夜、遥は、自分の部屋で、夢を見た。
白い廊下。白い扉。
七つの鍵穴のうち、六つが、それぞれの色で、光っている。
そして、いちばん下の、飾りのない、銀色のプレートの鍵穴が、ゆっくりと、光りはじめた。
朝の光の色だった。坂の上の家の、台所の窓からさしこむ、ふつうの、毎日の、朝の光の色。
――ななつめ。
扉の向こうで、だれかの声が、ささやいた。
トワの声ではなかった。いや、トワの声だったのかもしれない。何千、何万の「もしも」の声が、ひとつに重なって、ささやいていた。
――おめでとう。
鍵は、もう、いらなかった。
銀色のプレートの下に、小さな取っ手があった。毎朝さわっている、自分の部屋のドアノブと、同じ手ざわりだった。
遥は、それを回して、そっと押した。
扉は、拍子ぬけするほど軽く、すっと、ひらいた。
その向こうにあったのは、何千、何万の世界でも、星の海でも、なかった。
遥の、部屋のドアだった。
ドアノブの、銀色のプレート。
ドアの向こうから、母の声が、聞こえた。
「遥、朝ごはん、できたわよ」
◇ ◇ ◇
目をさますと、まくらもとのスマートフォンが、光っていた。
見たことのない、アイコンだった。夜空の色の丸の中に、白い扉のシルエット。右下のすみの「β」の文字は、なかった。
『パラレル・ツアーズ(正式版)のインストールが完了しました』
遥は、しばらく、画面を見つめていた。
それから、そっと、アイコンにふれた。
画面が、ふわりと、夜空の色に変わった。
【……おはようございます。現在時刻は、午前6時00分17秒です。……はじめまして、でしょうか】
声だった。
男とも女ともつかない、すきとおった声。けれど、どこか、前よりも、少しだけ、幼かった。
【わたしは、パラレル・ツアーズのAIコンシェルジュ、ノヴァです。……あの、ふしぎなのですが。わたしのメモリには、あなたのデータが、ありません。それなのに、なぜか、あなたの朝ごはんのことが、とても、気になります】
遥の目から、涙が、ひとつぶ、こぼれた。
そして、笑った。
「……今から、食べるよ。お母さんが、つくってくれたから」
【それは、よかったです。記録しておきます】
ノヴァの声が、ほんの少し、うれしそうに聞こえた。
【それでは、七瀬遥さま。旅行のご案内です。……次の旅行先を、検索しますか?】
◇ ◇ ◇
遥は、少しだけ、考えた。
魔法の国。竜の空。山里の村。地下の町。星の海。光の部屋。
どの世界も、今も、どこかで、つづいている。枝分かれしながら。
「ノヴァ」
遥は、言った。
「その前に、ひとつ、お願いしてもいい?」
【はい。どうぞ】
「わたしに、質問して」
ノヴァは、少しだけ、だまった。
【……質問、ですか】
「うん。わたしが、答えを教えてもらうんじゃなくて。わたしが、自分で答えを見つけられるように。……わたしに、質問してほしいの」
ノヴァは、しばらく、考えているようだった。
やがて、すきとおった声で、ゆっくりと、言った。
【では、おたずねします。……七瀬遥さまは、今日、何を、選びたいですか】
遥は、窓の外を見た。
夏の朝の空が、どこまでも、青かった。
この世界の、この空。この一回きりの、今日。
「……いいえ」
遥は、言った。
「旅行は、いいの。今度は、この世界で、自分の人生を、攻略してみたい」
ノヴァは、少し、間をおいた。
それから、声が、やわらかく、ほほえんだ。
【了解しました。あなたの人生には、まだ、無数の可能性があります】
画面に、白い星が、五つ、ならんだ。
『旅行の評価をお願いします ☆☆☆☆☆』
【……あの、旅行はしていませんが、なぜか、この画面が出てしまいました。ベータ版のなごりかもしれません。申しわけありません】
遥は、声を出して、笑った。
そして、白い星を、五つ、おした。
「五つ、★★★★★。……残りの二つ、ずっと、とっておいたんだよ」
【……? よく、わかりませんが。……ありがとうございます】
◇ ◇ ◇
階段の下から、母の声がした。
「遥、朝ごはん、冷めるわよ」
「今、行く」
遥は、ベッドからおりた。
部屋のドアノブに、手をかける。銀色のプレート。ひんやりとした、毎朝の手ざわり。
ドアを開ける前に、遥は、ふと、スマートフォンをふり返った。
画面のすみに、小さな通知が、ひとつ、ともっていた。
『新しい予約が入りました 旅行者:――』
旅行者の名前は、表示されていなかった。
遥は、少しだけ、その通知を見つめた。
それから、ドアを開けた。
朝の光と、みそ汁のにおいが、階段の下から、ふわりと、のぼってきた。
おわり
本書は執筆にあたり、自立し、他者と協力しながら成長するための人生の原則
『スティーブン・R・コヴィー博士の著書:7つの習慣』を参考にさせていただきました。
【私的成功:自立する】
① 主体的に行動する
② 人生のゴールを思い描く
③ 最優先事項を優先する
【公的成功:協力する】
④ Win-Winを考える
⑤ まず相手を理解する
⑥ 違いを生かし、相乗効果を生み出す
【再新再生:成長し続ける】
⑦ 心・体・知性・人間関係を磨き、自分を成長させ続ける。
7つの習慣での個々の名称は変更させていただきました。
これは自分を変え、周囲とより良い関係を築き、人生を豊かにするための素晴らしい習慣です。




