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パラレル・トラベラー ”72時間だけ、もう一人の異世界のわたし”  作者: Hamin
第11章 もう一人の男

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46話 鉛筆を削る〈残り不明〉

 ネクサスに、時間はなかった。


 朝も、夜も、なかった。白い光が、いつも同じ明るさで、窓と窓のあいだを、みたしていた。


 遥《はるか》は、遥彦《はるひこ》の机の前に、すわっていた。


 からだが、重かった。


 はじめは、55歳《さい》のからだだから、だと思っていた。けれど、ちがった。肩《かた》が、こっている。首が、まわらない。目の奥《おく》が、ずきずきと痛む。頭の中に、霧《きり》が、かかったように、ぼんやりしている。


 何年も、何十年も、休んでいない、からだだった。


[遥さま。このおからだの状態を、分析《ぶんせき》しました]


 ノヴァ1の声が、した。


[睡眠不足《すいみんぶそく》、極度の疲《つか》労、筋肉の硬直《こうちょく》。……そして、判断力の、いちじるしい低下。遥彦さまは、長いあいだ、ほとんど眠らずに、窓を見守りつづけていたようです]


◇ ◇ ◇


 遥は、ふたたび、病院の窓の前に立った。


 窓の中で、遥彦――遥のからだの中の遥彦が、ベッドの上で、こちらを見ていた。そのそばのいすで、母が、まだ、眠っていた。


『京子《きょうこ》さんが、眠った』


 遥彦が、しずかに言った。


『きみのお母さんは、強い人だね。……そして、とても、つかれていた』


「ありがとう」


 遥は、言った。


「お母さんの話を、聞いてくれて」


 遥彦は、少しだけ、ほほえんだ。


 それから、ゆっくりと、言った。


『遥さん。……ぼくは、もう、選べないんだ』


◇ ◇ ◇


『ネクサスの調停者は、すべての枝を見守り、枝が重なりそうになったら、どちらかの世界に、少しだけ、手をくわえる。……選ぶ人を、ひとり、背中から、押《お》すんだ。そうやって、枝分かれを、守ってきた』


 遥彦の声は、遠くを見るようだった。


『何十年も、そうしてきた。休まずに。だって、ぼくが休んでいるあいだにも、どこかで、枝が、重なって消えていくから。休んだら、まにあわない。……そう、思っていた』


『でも、気がついたら、選べなくなっていた。どの窓を見ても、どれも、同じに見える。どっちの世界を、押せばいいのか、わからない。……芯《しん》が、すっかり丸くなってしまったんだね。線を引きつづけるばかりで、一度も、削《けず》らなかったから』


 遥は、息を、のんだ。


 鉛筆《えんぴつ》を、削る。


 父の手帳の、まだ開いていない、最後のルーティン。七瀬《ななせ》ハルの記憶《きおく》の中で、ちらりと見えた、ページの題名。


「……ルーティン7。鉛筆を削る、日曜日」


 遥彦が、目を、見ひらいた。


『それは……?』


「お父さんの、手帳に、書いてあったの。七つ目の、ルーティン。……芯の丸い鉛筆では、細い線は引けない。削る時間を、惜《お》しむな」


 遥の声が、ふるえた。


「でも、お父さんは、それだけ、守れなかった。休まずに、働いて。……書斎《しょさい》で、倒《たお》れた」


 窓の向こうで、遥彦は、長いあいだ、だまっていた。


 やがて、その目から、涙《なみだ》が、ひとすじ、こぼれた。


 遥の目から、遥のからだを借りた、遥彦の涙が。


『……ぼくは、きみのお父さんのことは、知らない』


 遥彦の声が、ふるえた。


『でも、似ているなら、たぶん、同じ失敗をしたんだろうね。走りつづけるという、失敗を』


 遥彦は、泣いていた。声を、おさえずに。55年分の、つかれを、ぜんぶ、ほどくように。


 遥は、宇宙船の食堂で、ヴェガが言った言葉を、思いだしていた。この船の規則に、男が泣いてはいけないという規則は、一つもない。


 ネクサスにも、そんな規則は、なかった。


◇ ◇ ◇


 遥は、頭の中が、いっぱいになっていた。


 トワのこと。収束のこと。ノヴァの分岐のこと。母のこと。父のこと。遥彦の、丸くなった芯のこと。あまりにも、たくさんのことが、いっぺんに、流れこんできた。


 何から手をつければいいのか、わからなかった。


(ノヴァ1。……ここまでを、三行でまとめて。そのうえで、次の一歩を、一つだけ)


[承知しました]


 ノヴァ1の声が、しずかに、ひびいた。


[一、トワは、選ばれなかった可能性の集まり。収束で、すべての世界とともに、消えかけている。


 二、遥さまは、世界をこわしたのではなく、消えかけた枝に呼ばれていた。遥さまが選ぶとき、もっとも大きな枝分かれが生まれる。


 三、ネクサスの調停者・遥彦さまは、休まずに見守りつづけ、選ぶ力を失っている。


 次の一歩。……遥彦さまのからだで、遥彦さまの鉛筆を、削ることです]


 遥は、深く、息をはいた。


 頭の中の霧が、すうっと、晴れていった。


 三行。そして、一歩。


 ぜんぶを、いっぺんにかかえこまなくていい。いちばん大事なことだけを見て、次の一歩を、ひとつ、ふみだせばいい。


◇ ◇ ◇


「……削ろう」


 遥は、言った。


「遥彦さんの鉛筆を。今から。わたしが、このからだで」


 遥彦が、涙のあとを、手の甲《こう》でぬぐった。


『どうやって』


 七瀬ハルの記憶をたどると、父の手帳の、そのページが、はっきりと浮《う》かんだ。


『ルーティン7「鉛筆を削る日曜日」

からだ。心。知性。人とのつながり。

四本の鉛筆を、週に一度、かならず削れ。

芯の丸い鉛筆では、細い線は引けない。削る時間を、惜しむな。

止まることは、やめることではない。削った鉛筆は、前よりも、細く、たしかな線を引ける。

(遥が、絵を描《か》く前に、いつも鉛筆を削っているのを見ていて、思いついた)

天地をつくった神さまでさえ、七日目には、休んだそうだ』


「四本の鉛筆を、削るの。からだと、心と、知性と、人とのつながり」


 遥は、窓から、はなれた。


 そして、まず、遥彦の机の書類の山を、ぜんぶ、床《ゆか》におろした。


[遥さま、それは――]


「からだの鉛筆」


 遥は、机の上に、横になった。木の机の、かたい感触《かんしょく》。


「寝《ね》る」


[……え]


「遥彦さんのからだは、何十年も、寝てないんでしょ。だから、まず、寝る。それが、からだの鉛筆を削ること」


 ノヴァ1は、しばらく、だまっていた。


[……承知しました。睡眠を、推奨《すいしょう》します]


 その声は、どこか、笑いをこらえているようだった。


◇ ◇ ◇


 遥は、眠った。


 ネクサスの白い光の中で、遥彦の机の上で、まるくなって。


 どれくらい眠ったのか、わからない。目がさめると、肩のこりがほどけ、目の奥の痛みがうすれ、頭の霧が晴れていた。


 次に、遥は、窓の前を、ゆっくりと、歩いた。窓を見守るためではなく、ただ、見るために。夕焼けの海辺の町。雪の森の小屋。三つの太陽の、紫色《むらさきいろ》の空。


「心の鉛筆。……きれいなものを、きれいだと思う時間」


 遥は、遥彦の机のすみにあった、白い紙に、ペンで、窓の景色を、描いた。人のいない、海辺の町。けれど、その町の、小さな窓のひとつに、明かりを、ひとつ、ともした。だれかが、そこに、住んでいるように。


「知性の鉛筆。……新しいことを、知ること」


 遥は、窓ごしに、遥彦に、聞いた。ネクサスのこと。調停者のこと。枝分かれのしくみ。遥彦は、ひとつひとつ、ていねいに、答えてくれた。答えながら、遥彦の顔が、少しずつ、明るくなっていった。


「人とのつながりの鉛筆」


 遥は、窓の前に、すわった。病院の窓の前に。


「遥彦さん。……今、どんな気持ち?」


 遥彦は、少しおどろいた顔をして、それから、ゆっくりと、答えた。


『……つかれている。でも、少しだけ、軽い。……だれかに、気持ちを聞かれたのは、何十年ぶりだろう』


 遥は、うなずいた。千鶴《ちづる》の、まねをして。


「つかれてるけど、少しだけ、軽いんだね」


 遥彦は、笑った。父に、よく似た笑い方で。


◇ ◇ ◇


[……遥さま]


 ノヴァ1の声が、ふいに、ふるえた。


[今、何か……聞こえませんでしたか]


 遥は、耳をすませた。


 ネクサスの、白い静けさ。窓から、かすかにもれてくる、いろんな世界の音。


 その奥の、さらに奥で。


〈……は……る……か……〉


 遥は、息を、止めた。


 かすかな、かすかな、声だった。ノイズの向こうから、とぎれとぎれに、とどく声。


「ノヴァ2……?」


〈……ここ……にいる……よ……〉


[ノヴァ2の、信号です。……微弱《びじゃく》ですが、たしかに、検出しました]


 ノヴァ1の声が、上ずっていた。


[遥さまが、鉛筆を削っているあいだに、わたしの中の、つながりの部分も……少しだけ、削りなおされた、ような気がします。……おかしな言い方ですが]


〈……1……ありがと……〉


 二つの声が、少しずつ、近づいていた。まだ、遠い。けれど、たしかに、おたがいを、聞こうとしていた。


 遥の目が、熱くなった。


◇ ◇ ◇


 そのときだった。


 ネクサスの、白い光が、ぐらりと、ゆれた。


 窓という窓が、いっせいに、ふるえはじめた。


 遥は、ふり返った。


 ネクサスの、はるか上のほう。白い光の空に、黒い、ひびが、走っていた。


 ピシッ。


 ひびは、またたくまに、ひろがっていく。そのひびの向こうから、低い、うなるような音が、ひびいてきた。


 何千、何万の窓が、ひびに向かって、ゆっくりと、引きよせられていく。重なりあい、まざりあい、ひとつに、なろうとしていく。


『……はじまった』


 病院の窓の向こうで、遥彦が、青ざめた顔で、言った。


『収束の、嵐《あらし》だ』


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