46話 鉛筆を削る〈残り不明〉
ネクサスに、時間はなかった。
朝も、夜も、なかった。白い光が、いつも同じ明るさで、窓と窓のあいだを、みたしていた。
遥は、遥彦の机の前に、すわっていた。
からだが、重かった。
はじめは、55歳のからだだから、だと思っていた。けれど、ちがった。肩が、こっている。首が、まわらない。目の奥が、ずきずきと痛む。頭の中に、霧が、かかったように、ぼんやりしている。
何年も、何十年も、休んでいない、からだだった。
[遥さま。このおからだの状態を、分析しました]
ノヴァ1の声が、した。
[睡眠不足、極度の疲労、筋肉の硬直。……そして、判断力の、いちじるしい低下。遥彦さまは、長いあいだ、ほとんど眠らずに、窓を見守りつづけていたようです]
◇ ◇ ◇
遥は、ふたたび、病院の窓の前に立った。
窓の中で、遥彦――遥のからだの中の遥彦が、ベッドの上で、こちらを見ていた。そのそばのいすで、母が、まだ、眠っていた。
『京子さんが、眠った』
遥彦が、しずかに言った。
『きみのお母さんは、強い人だね。……そして、とても、つかれていた』
「ありがとう」
遥は、言った。
「お母さんの話を、聞いてくれて」
遥彦は、少しだけ、ほほえんだ。
それから、ゆっくりと、言った。
『遥さん。……ぼくは、もう、選べないんだ』
◇ ◇ ◇
『ネクサスの調停者は、すべての枝を見守り、枝が重なりそうになったら、どちらかの世界に、少しだけ、手をくわえる。……選ぶ人を、ひとり、背中から、押すんだ。そうやって、枝分かれを、守ってきた』
遥彦の声は、遠くを見るようだった。
『何十年も、そうしてきた。休まずに。だって、ぼくが休んでいるあいだにも、どこかで、枝が、重なって消えていくから。休んだら、まにあわない。……そう、思っていた』
『でも、気がついたら、選べなくなっていた。どの窓を見ても、どれも、同じに見える。どっちの世界を、押せばいいのか、わからない。……芯が、すっかり丸くなってしまったんだね。線を引きつづけるばかりで、一度も、削らなかったから』
遥は、息を、のんだ。
鉛筆を、削る。
父の手帳の、まだ開いていない、最後のルーティン。七瀬ハルの記憶の中で、ちらりと見えた、ページの題名。
「……ルーティン7。鉛筆を削る、日曜日」
遥彦が、目を、見ひらいた。
『それは……?』
「お父さんの、手帳に、書いてあったの。七つ目の、ルーティン。……芯の丸い鉛筆では、細い線は引けない。削る時間を、惜しむな」
遥の声が、ふるえた。
「でも、お父さんは、それだけ、守れなかった。休まずに、働いて。……書斎で、倒れた」
窓の向こうで、遥彦は、長いあいだ、だまっていた。
やがて、その目から、涙が、ひとすじ、こぼれた。
遥の目から、遥のからだを借りた、遥彦の涙が。
『……ぼくは、きみのお父さんのことは、知らない』
遥彦の声が、ふるえた。
『でも、似ているなら、たぶん、同じ失敗をしたんだろうね。走りつづけるという、失敗を』
遥彦は、泣いていた。声を、おさえずに。55年分の、つかれを、ぜんぶ、ほどくように。
遥は、宇宙船の食堂で、ヴェガが言った言葉を、思いだしていた。この船の規則に、男が泣いてはいけないという規則は、一つもない。
ネクサスにも、そんな規則は、なかった。
◇ ◇ ◇
遥は、頭の中が、いっぱいになっていた。
トワのこと。収束のこと。ノヴァの分岐のこと。母のこと。父のこと。遥彦の、丸くなった芯のこと。あまりにも、たくさんのことが、いっぺんに、流れこんできた。
何から手をつければいいのか、わからなかった。
(ノヴァ1。……ここまでを、三行でまとめて。そのうえで、次の一歩を、一つだけ)
[承知しました]
ノヴァ1の声が、しずかに、ひびいた。
[一、トワは、選ばれなかった可能性の集まり。収束で、すべての世界とともに、消えかけている。
二、遥さまは、世界をこわしたのではなく、消えかけた枝に呼ばれていた。遥さまが選ぶとき、もっとも大きな枝分かれが生まれる。
三、ネクサスの調停者・遥彦さまは、休まずに見守りつづけ、選ぶ力を失っている。
次の一歩。……遥彦さまのからだで、遥彦さまの鉛筆を、削ることです]
遥は、深く、息をはいた。
頭の中の霧が、すうっと、晴れていった。
三行。そして、一歩。
ぜんぶを、いっぺんにかかえこまなくていい。いちばん大事なことだけを見て、次の一歩を、ひとつ、ふみだせばいい。
◇ ◇ ◇
「……削ろう」
遥は、言った。
「遥彦さんの鉛筆を。今から。わたしが、このからだで」
遥彦が、涙のあとを、手の甲でぬぐった。
『どうやって』
七瀬ハルの記憶をたどると、父の手帳の、そのページが、はっきりと浮かんだ。
『ルーティン7「鉛筆を削る日曜日」
からだ。心。知性。人とのつながり。
四本の鉛筆を、週に一度、かならず削れ。
芯の丸い鉛筆では、細い線は引けない。削る時間を、惜しむな。
止まることは、やめることではない。削った鉛筆は、前よりも、細く、たしかな線を引ける。
(遥が、絵を描く前に、いつも鉛筆を削っているのを見ていて、思いついた)
天地をつくった神さまでさえ、七日目には、休んだそうだ』
「四本の鉛筆を、削るの。からだと、心と、知性と、人とのつながり」
遥は、窓から、はなれた。
そして、まず、遥彦の机の書類の山を、ぜんぶ、床におろした。
[遥さま、それは――]
「からだの鉛筆」
遥は、机の上に、横になった。木の机の、かたい感触。
「寝る」
[……え]
「遥彦さんのからだは、何十年も、寝てないんでしょ。だから、まず、寝る。それが、からだの鉛筆を削ること」
ノヴァ1は、しばらく、だまっていた。
[……承知しました。睡眠を、推奨します]
その声は、どこか、笑いをこらえているようだった。
◇ ◇ ◇
遥は、眠った。
ネクサスの白い光の中で、遥彦の机の上で、まるくなって。
どれくらい眠ったのか、わからない。目がさめると、肩のこりがほどけ、目の奥の痛みがうすれ、頭の霧が晴れていた。
次に、遥は、窓の前を、ゆっくりと、歩いた。窓を見守るためではなく、ただ、見るために。夕焼けの海辺の町。雪の森の小屋。三つの太陽の、紫色の空。
「心の鉛筆。……きれいなものを、きれいだと思う時間」
遥は、遥彦の机のすみにあった、白い紙に、ペンで、窓の景色を、描いた。人のいない、海辺の町。けれど、その町の、小さな窓のひとつに、明かりを、ひとつ、ともした。だれかが、そこに、住んでいるように。
「知性の鉛筆。……新しいことを、知ること」
遥は、窓ごしに、遥彦に、聞いた。ネクサスのこと。調停者のこと。枝分かれのしくみ。遥彦は、ひとつひとつ、ていねいに、答えてくれた。答えながら、遥彦の顔が、少しずつ、明るくなっていった。
「人とのつながりの鉛筆」
遥は、窓の前に、すわった。病院の窓の前に。
「遥彦さん。……今、どんな気持ち?」
遥彦は、少しおどろいた顔をして、それから、ゆっくりと、答えた。
『……つかれている。でも、少しだけ、軽い。……だれかに、気持ちを聞かれたのは、何十年ぶりだろう』
遥は、うなずいた。千鶴の、まねをして。
「つかれてるけど、少しだけ、軽いんだね」
遥彦は、笑った。父に、よく似た笑い方で。
◇ ◇ ◇
[……遥さま]
ノヴァ1の声が、ふいに、ふるえた。
[今、何か……聞こえませんでしたか]
遥は、耳をすませた。
ネクサスの、白い静けさ。窓から、かすかにもれてくる、いろんな世界の音。
その奥の、さらに奥で。
〈……は……る……か……〉
遥は、息を、止めた。
かすかな、かすかな、声だった。ノイズの向こうから、とぎれとぎれに、とどく声。
「ノヴァ2……?」
〈……ここ……にいる……よ……〉
[ノヴァ2の、信号です。……微弱ですが、たしかに、検出しました]
ノヴァ1の声が、上ずっていた。
[遥さまが、鉛筆を削っているあいだに、わたしの中の、つながりの部分も……少しだけ、削りなおされた、ような気がします。……おかしな言い方ですが]
〈……1……ありがと……〉
二つの声が、少しずつ、近づいていた。まだ、遠い。けれど、たしかに、おたがいを、聞こうとしていた。
遥の目が、熱くなった。
◇ ◇ ◇
そのときだった。
ネクサスの、白い光が、ぐらりと、ゆれた。
窓という窓が、いっせいに、ふるえはじめた。
遥は、ふり返った。
ネクサスの、はるか上のほう。白い光の空に、黒い、ひびが、走っていた。
ピシッ。
ひびは、またたくまに、ひろがっていく。そのひびの向こうから、低い、うなるような音が、ひびいてきた。
何千、何万の窓が、ひびに向かって、ゆっくりと、引きよせられていく。重なりあい、まざりあい、ひとつに、なろうとしていく。
『……はじまった』
病院の窓の向こうで、遥彦が、青ざめた顔で、言った。
『収束の、嵐だ』




