45話 〈向こうの私〉調停者、母と話す
七瀬遥彦は、窓の向こうの、ネクサスの光が、ゆっくりと消えていくのを見とどけてから、目を閉じた。
そして、もう一度、目をあけた。
病院の、白い天井。消毒液のにおい。点滴の管が、細い腕に、つながっている。
ベッドのそばのいすで、遥の母――京子が、遥の手をにぎったまま、うとうとと、まどろんでいた。
遥彦は、そっと、指を、動かした。
京子が、はっと、目をさました。
「遥……!」
京子の顔が、くしゃくしゃに、ゆがんだ。
「遥、目、さめたの? わかる? お母さんのこと、わかる?」
遥彦は、ゆっくりと、うなずいた。
「……わかるよ」
京子は、遥彦の手を、ぎゅっと、にぎりしめた。そして、顔をふせて、肩をふるわせた。
◇ ◇ ◇
午後、病室の窓から、日がさしこんでいた。
遥彦は、ベッドの上で、窓の外を、ずっと見ていた。
空だった。
青い空に、白い雲が、ゆっくりと流れている。病院の中庭の木で、せみが、じいじいと鳴いていた。窓のすきまから、夏の終わりの、少しだけ乾いた風が、入ってくる。
遥彦は、何十年も、窓の中の、ほかの世界の空ばかりを、見てきた。自分の目で、自分の空を見あげたのは、いつ以来だろう。
病室の扉を、だれかが、そっとノックした。
「……遥?」
顔をのぞかせたのは、茶色の髪を一つにまとめた、女の子だった。胸に、大きなスケッチブックを、かかえていた。
(……遥さんの、友だちだ。陽菜さん)
遥彦は、からだの記憶を、たどった。
「遥、目、さめたって、おばさんから聞いて。……よかった」
陽菜は、ベッドのそばに来ると、スケッチブックを、そっと、毛布の上に置いた。
「これ、遥が、前に、うちに忘れていったやつ。……中、ちょっとだけ、見ちゃった。ごめん」
遥彦は、スケッチブックを開いた。
人のいない、夜の駅のホーム。雨のバス停。夜明けの坂道。どのページも、しずかで、さみしくて、それなのに、どこかに、だれかを待っているような、絵だった。
「わたし、遥の絵、好き。……早く、また、描いてね」
遥彦は、陽菜の顔を、まっすぐに見た。
この子は、ずっと、待っているのだ。遥が、自分の世界に、帰ってくるのを。
「……伝えておくよ」
「え?」
「いや。……ありがとう。きっと、描くよ」
陽菜は、少しふしぎそうに、首をかしげた。それから、ほっとしたように、笑った。
◇ ◇ ◇
夜になった。
医者が来て、いくつか検査をして、「意識は、はっきりしています。原因はわかりませんが、明日、もう一度、くわしく調べましょう」と言って、帰っていった。
病室には、京子と、遥彦だけが、残った。
京子は、ベッドのそばのいすで、ずっと、遥彦の顔を、見つめていた。
「……3日も、目をさまさなかったのよ」
京子は、ぽつりと言った。
「救急車で、運ばれて。病院の、白い廊下を、走って。……3年前と、同じだった。お父さんが、倒れた夜と」
遥彦は、だまって、京子の話を聞いていた。
「あの夜も、わたし、ひとりで、廊下のいすに、すわってた。お医者さんが出てきて、首を、ふって。……そのあと、どうやって家に帰ったのか、覚えてないの」
京子の目から、涙が、こぼれた。
「お父さんに、さよならも、言えなかった。ありがとうも、ごめんねも。……朝、いつもみたいに、『いってらっしゃい』って言ったのが、最後だった。今日も、遅くなるの、って。いつも、遅かったから。……休んでって、一度も、ちゃんと、言えなかった」
◇ ◇ ◇
遥彦は、ゆっくりと、からだを起こした。
そして、京子の手の上に、自分の手を、重ねた。
わかい、細い手だった。けれど、遥彦は、その手で、京子の手を、しずかに、つつみこんだ。
「京子さん」
京子は、顔をあげた。
娘の声だった。けれど、その呼び方は、娘のものではなかった。
「……ぼくは、きみの、夫じゃない。でも、少しだけ、似ているらしい」
遥彦は、少し、照れたように、笑った。首を、少しかしげて。
京子の目が、大きく、見ひらかれた。
その笑い方。その首のかしげ方。
「ぼくも、ずっと、休まずに、働いてきた。大切な人に、休んでって言われても、聞かなかった。……たぶん、きみの夫も、同じだったんだと思う。きみのせいじゃない。休めなかったのは、ぼくたちのほうなんだ」
京子は、何も言えずに、遥彦を見つめていた。
「だから、もし、よかったら。……ぼくに、言ってくれないか。きみが、言えなかったことを」
◇ ◇ ◇
長い、沈黙があった。
病室の窓の外で、夜の雨が、しずかに、降りはじめていた。
京子は、遥彦の手を、ぎゅっと、にぎった。
「……航さん」
ふるえる声だった。
「ありがとう。……わたしと、遥と、いっしょにいてくれて。ありがとう」
京子の目から、涙が、とめどなく、あふれた。
「ごめんね。休んでって、ちゃんと、言えなくて。……ごめんね」
遥彦は、だまって、うなずいた。
京子は、何度も、何度も、ありがとうと、ごめんねを、くりかえした。それから、最後に、小さな声で、言った。
「……さよなら」
遥彦は、京子の手を、そっと、にぎりかえした。
「うん。……さよなら」
◇ ◇ ◇
その夜、京子は、病室の、ベッドのそばのいすで、眠った。
ベッドのはしに、頭をあずけて。遥彦の手を、にぎったまま。
すうすうと、しずかな寝息が、聞こえた。
遥彦は、その寝顔を、長いあいだ、見つめていた。
京子は、朝まで、一度も、目をさまさなかった。
あとで、遥は知ることになる。
母が、朝まで、一度も目をさまさずに眠ったのは、父が亡くなってから、3年ぶりのことだった、と。




