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パラレル・トラベラー ”72時間だけ、もう一人の異世界のわたし”  作者: Hamin
第11章 もう一人の男

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45話 〈向こうの私〉調停者、母と話す

 七瀬遥彦《ななせはるひこ》は、窓の向こうの、ネクサスの光が、ゆっくりと消えていくのを見とどけてから、目を閉じた。


 そして、もう一度、目をあけた。


 病院の、白い天井。消毒液のにおい。点滴《てんてき》の管が、細い腕《うで》に、つながっている。


 ベッドのそばのいすで、遥の母――京子《きょうこ》が、遥の手をにぎったまま、うとうとと、まどろんでいた。


 遥彦は、そっと、指を、動かした。


 京子が、はっと、目をさました。


「遥……!」


 京子の顔が、くしゃくしゃに、ゆがんだ。


「遥、目、さめたの? わかる? お母さんのこと、わかる?」


 遥彦は、ゆっくりと、うなずいた。


「……わかるよ」


 京子は、遥彦の手を、ぎゅっと、にぎりしめた。そして、顔をふせて、肩《かた》をふるわせた。


◇ ◇ ◇


 午後、病室の窓から、日がさしこんでいた。


 遥彦は、ベッドの上で、窓の外を、ずっと見ていた。


 空だった。


 青い空に、白い雲が、ゆっくりと流れている。病院の中庭の木で、せみが、じいじいと鳴いていた。窓のすきまから、夏の終わりの、少しだけ乾《かわ》いた風が、入ってくる。


 遥彦は、何十年も、窓の中の、ほかの世界の空ばかりを、見てきた。自分の目で、自分の空を見あげたのは、いつ以来だろう。


 病室の扉《とびら》を、だれかが、そっとノックした。


「……遥?」


 顔をのぞかせたのは、茶色の髪《かみ》を一つにまとめた、女の子だった。胸に、大きなスケッチブックを、かかえていた。


(……遥さんの、友だちだ。陽菜《ひな》さん)


 遥彦は、からだの記憶《きおく》を、たどった。


「遥、目、さめたって、おばさんから聞いて。……よかった」


 陽菜は、ベッドのそばに来ると、スケッチブックを、そっと、毛布の上に置いた。


「これ、遥が、前に、うちに忘れていったやつ。……中、ちょっとだけ、見ちゃった。ごめん」


 遥彦は、スケッチブックを開いた。


 人のいない、夜の駅のホーム。雨のバス停。夜明けの坂道。どのページも、しずかで、さみしくて、それなのに、どこかに、だれかを待っているような、絵だった。


「わたし、遥の絵、好き。……早く、また、描《か》いてね」


 遥彦は、陽菜の顔を、まっすぐに見た。


 この子は、ずっと、待っているのだ。遥が、自分の世界に、帰ってくるのを。


「……伝えておくよ」


「え?」


「いや。……ありがとう。きっと、描くよ」


 陽菜は、少しふしぎそうに、首をかしげた。それから、ほっとしたように、笑った。


◇ ◇ ◇


 夜になった。


 医者が来て、いくつか検査をして、「意識は、はっきりしています。原因はわかりませんが、明日、もう一度、くわしく調べましょう」と言って、帰っていった。


 病室には、京子と、遥彦だけが、残った。


 京子は、ベッドのそばのいすで、ずっと、遥彦の顔を、見つめていた。


「……3日も、目をさまさなかったのよ」


 京子は、ぽつりと言った。


「救急車で、運ばれて。病院の、白い廊下《ろうか》を、走って。……3年前と、同じだった。お父さんが、倒《たお》れた夜と」


 遥彦は、だまって、京子の話を聞いていた。


「あの夜も、わたし、ひとりで、廊下のいすに、すわってた。お医者さんが出てきて、首を、ふって。……そのあと、どうやって家に帰ったのか、覚えてないの」


 京子の目から、涙《なみだ》が、こぼれた。


「お父さんに、さよならも、言えなかった。ありがとうも、ごめんねも。……朝、いつもみたいに、『いってらっしゃい』って言ったのが、最後だった。今日も、遅《おそ》くなるの、って。いつも、遅かったから。……休んでって、一度も、ちゃんと、言えなかった」


◇ ◇ ◇


 遥彦は、ゆっくりと、からだを起こした。


 そして、京子の手の上に、自分の手を、重ねた。


 わかい、細い手だった。けれど、遥彦は、その手で、京子の手を、しずかに、つつみこんだ。


「京子さん」


 京子は、顔をあげた。


 娘《むすめ》の声だった。けれど、その呼び方は、娘のものではなかった。


「……ぼくは、きみの、夫じゃない。でも、少しだけ、似ているらしい」


 遥彦は、少し、照れたように、笑った。首を、少しかしげて。


 京子の目が、大きく、見ひらかれた。


 その笑い方。その首のかしげ方。


「ぼくも、ずっと、休まずに、働いてきた。大切な人に、休んでって言われても、聞かなかった。……たぶん、きみの夫も、同じだったんだと思う。きみのせいじゃない。休めなかったのは、ぼくたちのほうなんだ」


 京子は、何も言えずに、遥彦を見つめていた。


「だから、もし、よかったら。……ぼくに、言ってくれないか。きみが、言えなかったことを」


◇ ◇ ◇


 長い、沈黙《ちんもく》があった。


 病室の窓の外で、夜の雨が、しずかに、降りはじめていた。


 京子は、遥彦の手を、ぎゅっと、にぎった。


「……航《わたる》さん」


 ふるえる声だった。


「ありがとう。……わたしと、遥と、いっしょにいてくれて。ありがとう」


 京子の目から、涙が、とめどなく、あふれた。


「ごめんね。休んでって、ちゃんと、言えなくて。……ごめんね」


 遥彦は、だまって、うなずいた。


 京子は、何度も、何度も、ありがとうと、ごめんねを、くりかえした。それから、最後に、小さな声で、言った。


「……さよなら」


 遥彦は、京子の手を、そっと、にぎりかえした。


「うん。……さよなら」


◇ ◇ ◇


 その夜、京子は、病室の、ベッドのそばのいすで、眠《ねむ》った。


 ベッドのはしに、頭をあずけて。遥彦の手を、にぎったまま。


 すうすうと、しずかな寝息《ねいき》が、聞こえた。


 遥彦は、その寝顔を、長いあいだ、見つめていた。


 京子は、朝まで、一度も、目をさまさなかった。


 あとで、遥は知ることになる。


 母が、朝まで、一度も目をさまさずに眠ったのは、父が亡くなってから、3年ぶりのことだった、と。


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