43話 すべての並行宇宙が見える部屋〈残り不明〉
ガラスの扉を、くぐった。
そのとたん、からだが、ほどけはじめた。
ハルトの大きな手が、指先から、光の粒になっていく。肩の重さが、足の長さが、低い声が、ひとつずつ遠ざかる。こわくはなかった。ふしぎと、なつかしかった。
そして、また、ひとつにまとまった。
遥は、目をあけた。
白い天井。いや、天井ではなかった。どこまでも高く、どこまでも白い、光の空間。
ゆっくりと、身を起こす。
重かった。
ハルトの若い重さではない。しずんだ、つかれた重さ。背中が、少しまがっている。手の甲には、しみがいくつか。七瀬ハルほどではないが、若くはない手だった。
[……遥さま]
ノヴァ1の声が、した。耳の奥で、かすかに、ノイズまじりに。
[ご無事ですか。……現在地を、確認します。……データが、ありません。この場所は、パラレル・ツアーズのカタログに、のっていません]
カタログにない、場所。
ルール5。カタログにない並行宇宙が存在する。そこには、立ち入らないこと。
「……破っちゃったね、ルール5」
[はい。ルール1に続いて、二つ目です]
ノヴァ1の声は、いつもどおり、正確だった。けれど、どこか、少しだけ、ほっとしたような響きがあった。
[交換相手の情報を、表示します。……こちらは、サーバーからではなく、この場所そのものから、届いた情報です]
目の前に、文字が浮かんだ。
『第6世界 並行宇宙の中心「ネクサス」
交換相手:七瀬遥彦(はるひこ)(55歳・男性)
職業:調停者』
遥彦。
[それから、ご報告です。遥さまがハルトさまのおからだをはなれたことで、ハルトさまの魂は、ご自分のからだに、もどれたようです。遥さまのおからだには、今、遥彦さまの魂が入っています]
遥は、深く、息をはいた。
ハルトは、帰れた。それだけで、少しだけ、胸が軽くなった。
◇ ◇ ◇
遥は、立ちあがった。
ひざが、ぎしりと、鳴った。七瀬ハルのときほどではない。けれど、長いあいだ、同じ姿勢ですわりつづけていたような、こわばりだった。
光の空間に、目がなれてくると、まわりが、見えてきた。
壁が、なかった。
かわりに、窓があった。
何千、何万、数えきれないほどの、窓。上にも、下にも、右にも、左にも。まるで、巨大な木の、枝の先の一枚一枚の葉のように、窓が、どこまでも、ひろがっていた。
その一つ一つに、ちがう世界が、映っていた。
ある窓には、夕焼けの海辺の町。ある窓には、雪にうもれた森の小屋。ある窓には、見たこともない、紫色の空と、三つの太陽。
そして、遥は、見つけた。
すぐ近くの、ひとつの窓に、石造りの、天井の高い広間が、映っていた。紺色のローブの生徒たち。焼きたてのパンの湯気。
ハルカの、魔法学校だった。
その少し上の窓に、雲の海を飛ぶ、銀色の竜。
その横に、かやぶき屋根の、山里の村。
灰色の地下の廊下。結晶の平原。
ぜんぶ、遥が、旅をしてきた世界だった。
「……すべての並行宇宙が、見える部屋」
遥は、つぶやいた。
◇ ◇ ◇
窓のあいだを、歩いてみた。
足もとに、床はなかった。光の上を、歩いていた。それなのに、足は、ちゃんと、何かをふみしめていた。
窓に近づくと、その世界の音が、かすかに聞こえた。魔法学校の鐘の音。竜の羽ばたき。いろりの火のはぜる音。
けれど、遥は、気づいた。
窓のいくつかが、暗かった。
映像が、ちらちらとまたたいている。いや、またたいているのではない。となりの窓と、重なりあおうとしているのだ。二つの映像がにじみ、まざりあい、ひとつの窓になる。
もうひとつの窓は、ただの白い光になって、消えた。
遥の背中に、つめたいものが走った。
枝が、分かれなくなる。みんなが同じものを選ぶと、世界は、ひとつに、重なっていく。
蒼汰の論文の話。マザーの世界。シグナの、消えていった仲間たち。
「……ここでも、起きてる」
いや、ちがう。
ここで、起きていることが、すべての世界で、起きているのだ。
◇ ◇ ◇
光の空間のまんなかに、古い木の机が、ひとつあった。角が、まるくなっている。
遥は、その前で、立ちつくした。
書類の山。冷めきったコーヒー。付箋だらけのノート。
父の書斎の机に、そっくりだった。
机の上に、一冊の手帳が、開いたまま、置かれていた。遥彦の、手帳だった。
角ばった、几帳面な字。
『今日も、二つの枝が、重なって消えた。止められなかった。……明日は、もっと、うまくやる』
その下に、もう一行。
『最後に眠ったのは、いつだったか。思いだせない』
その字を、指でなぞる。手が、ふるえた。
父の字に、そっくりだった。
遥は、無意識に、右の耳たぶを、つまんでいた。そして、いつもなら、すぐにはなす指が、なぜか、はなれなかった。つまんだまま、しばらく、動かなかった。
(……これが、遥彦さんの、くせ)
はなしたくないものを、つかんだまま、はなせない人の、くせのような気がした。




