42話 帰れない〈残り0時間〉
旅行4日目、午前7時00分00秒。
遥は、〈アストレイア〉の、ハルトの居室のベッドの上で、目を閉じていた。
帰還の時間だった。
いつもなら、この瞬間、からだがふわりと浮くような感覚がして、気がつくと、自分の部屋の天井を見ている。
けれど。
何も、起きなかった。
午前7時00分30秒。
午前7時01分。
遥は、目を、あけた。
天井は、近かった。ハルトの、居室の天井だった。
「……ノヴァ1。帰還、まだ?」
[……確認、します]
ノヴァ1の声が、ふるえていた。
[パラレル・ツアーズの、サーバーと、接続、できません。……再接続を、試みます。……失敗。……もう一度。……失敗]
遥の背中に、つめたい汗が、流れた。
[遥さま。……パラレル・ツアーズの、サービスが、停止しています]
◇ ◇ ◇
遥は、ハルトの通信端末を、ひったくるように、つかんだ。
画面に、ノヴァの小さなアイコンが、映っている。その下に、一行だけ、文字が、点滅していた。
『本サービスはベータ版のため、予告なくサービスが停止することがあります』
あの夜明け前、こわくなって、アプリを消そうとした夜に、読んだ一行だった。
あのとき、遥は、ノヴァに聞いた。停止したら、どうなるの。帰れなくなるの。
ノヴァは、言った。――その質問には、現在、お答えできるデータがありません。
「……ルール1は? 72時間で、かならず帰還するって」
[ルール1は、サービスが、正常に、動いていることが、前提です]
ノヴァ1の声は、正確だった。正確すぎて、どこにも、逃げ場が、なかった。
[ベータ版の、不安定なパラレル・ツアーズのサービスが、停止しました。……ルール1が、破られました]
◇ ◇ ◇
それから、どれくらいたったのか、わからなかった。
遥は、ハルトのベッドのはしに、すわりこんでいた。
部屋の扉を、だれかが、ノックした。艦長だった。
「ハルト。朝のブリーフィングに、来なかったから。……どうした、顔色が」
遥は、答えられなかった。
艦長は、遥のとなりに、すわった。何も聞かずに。千鶴が、そうしたように。
しばらくして、遥は、ぽつりと言った。
「……帰れなく、なったんです」
艦長は、遥の顔を、じっと見た。それから、大きな手を、遥の肩に、そっと、置いた。
「どこへ、だい」
遥は、首をふった。説明できなかった。説明したら、ほんとうに、ここから、出られなくなる気がした。
[遥さま。……向こうの世界の、状況を、確認しました]
ノヴァ1の声は、消え入りそうだった。
[サービスの停止の直前に、最後に受信した、遥さまの世界の情報です]
画面に、文字が、浮かんだ。
『交換相手(ハルト・ナナセ)の状態:意識なし
旅行者のおからだ(七瀬遥):救急車により、病院へ搬送』
遥は、息が、止まった。
[帰還の時刻に、ハルトさまの魂も、遥さまのおからだから、はなれかけたまま、止まってしまったようです。……遥さまのおからだは、今、目をさまさないまま、病院のベッドにいます]
母の顔が、浮かんだ。
病院の、白い廊下。救急車のサイレン。3年前、父が倒れた夜と、同じ光景を、今、母が、ひとりで、見ているのだ。
あの夜、遥は、ドアを閉めていた。
今度は、ドアを開けることさえ、できない。
◇ ◇ ◇
居室の小さな窓の外で、宇宙は、きのうと同じように、黒く、冷たく、しずかだった。ここで遥が泣いても、さけんでも、あの黒は、何ひとつ、こたえない。遥がここにいることを、遥の世界のだれも、知らない。
遥は、立ちあがった。部屋の中を、歩きまわった。頭を、かきむしった。
いつもなら、ここで、逃げていた。
うまくいかないことがあると、理由をさがして、ドアを閉めて、ふとんをかぶって、ぜんぶ、なかったことにしてきた。専門学校も。ピアノも。バスケ部も。陽菜も。父との、最後の夜も。
途中でやめる、天才。
けれど、今、ここには、閉めるドアが、なかった。
逃げこむ場所が、どこにもなかった。投げ出したくても、投げ出す先が、ない。
ここは、遥の世界じゃない。ハルトの世界だ。遥のからだは、遠い病院のベッドの上にあり、ハルトの魂は、その中で、止まったままだ。
どこにも、帰れない。
六つのルーティンを、身につけた。
すきまの一秒。着地点から飛べ。急がない宝物から。ふたりとも勝つテーブル。耳が先、口はあと。1+1=3の魔法。
六つの鍵穴を、光らせた。
それなのに。
遥は、ハルトのベッドに、たおれこんだ。
大きなからだが、ベッドを、きしませた。
「……なんで」
低い、ハルトの声が、ふるえた。
「なんで、ここまで来て」
涙が、出た。ハルトの目から。遥の涙が。
[遥さま……]
ノヴァ1の声がした。けれど、その声に、こたえてくれるもうひとつの声は、もう、なかった。
ノヴァ2は、消えた。
ノヴァ1は、この旅の終わりに、削除される。いや、旅は、終わらない。終われない。
遥は、まくらに顔をうずめた。
いちばん、深い場所に、落ちていく気がした。
底が、見えなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、遥は、夢を見た。
白い廊下。白い扉。
七つの鍵穴のうち、六つが、それぞれの色で、光っている。
いちばん下の、飾りのない、銀色のプレートの鍵穴だけが、まだ、暗かった。遥の部屋の、ドアノブにそっくりな、プレート。
扉の向こうから、声がした。
――はるか。
はじめて、名前を、呼ばれた。
――こっちへ、おいで。
扉の横に、もうひとつ、扉があることに、遥は、気がついた。
今まで、一度も、見たことのない扉だった。
白くもない。銀色でもない。すきとおった、ガラスのような、扉。
その向こうに、星空が、見えた。いや、星空ではなかった。数えきれない、光の糸が、木の枝のように、どこまでも、どこまでも、分かれて、のびていた。
そして、その枝の多くが、ゆっくりと、ひとつに、より合わさろうとしていた。
――カタログには、のっていない、場所。
トワの声が、言った。
――でも、あなたは、ここに、来なくちゃいけない。
ガラスの扉には、鍵穴も、取っ手もなかった。遥は、手のひらを、そっと当てた。氷のように、つめたかった。
(……行かなきゃ)
遥は、押した。ガラスの扉が、音もなく、向こうへ、かたむいていった。




