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パラレル・トラベラー ”72時間だけ、もう一人の異世界のわたし”  作者: Hamin
第9章 男として生きる72時間

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37話 〈向こうの私〉ハルト、遥の部屋で

 ハルト・ナナセが最初に気づいたのは、からだの、軽さだった。


 肩《かた》に、何も乗っていない。


 それは、筋肉が少ないからだけでは、なかった。いつも、肩の上に、ずっしりと乗っていた何か――「だいじょうぶでなければならない」という重り――が、ふっと、消えていた。


 ハルトは、ベッドの上で、しばらく、ぼんやりと天井を見ていた。


 それから、人さし指の先で、耳たぶのふちを、そっと、なぞった。


(……ここが、もう一人のおれの世界)


 声に出すと、高い、すきとおった声が出た。ハルトは、少しおどろいて、それから、少しだけ、笑った。


◇ ◇ ◇


 案内を読み、黒い板――この世界では「スマホ」と呼ぶらしい――の使い方を覚えると、ハルトは、遥《はるか》の部屋を、ゆっくりと見てまわった。


 本棚(たな)に、たくさんのスケッチブック。机の上に、描《か》きかけの絵。竜《りゅう》と人がならんで飛ぶ、夜明けの空。人の顔は、描かれていない。けれど、空の中に、小さな竜騎士《りゅうきし》の影《かげ》が、ふたつ。


 机のすみに、一冊のノートがあった。


『人生のコンパス(下書き)』


 ハルトは、ノートを開いた。


『七瀬遥《ななせはるか》は、描くことから、もう逃《に》げなかった』


『だいじょうぶ。』


『七瀬遥は、人の話を、最後まで聞いた』


 三つの、ちがう字だった。一つ目と三つ目は、同じ人の字。二つ目だけ、ちがう。年をとった人の、ふるえた、やさしい字。


 ハルトは、そのノートを、長いあいだ、見つめていた。


 この子は、自分が、どんな人間でありたいかを、書いているのだ。何度も、まよいながら。ほかのだれかの言葉にも、助けられながら。


 ハルトは、自分の航路ノートを思った。計算と、データと、正しい答えばかりが、びっしりと書かれたノート。自分が、どんな人間でありたいかなんて、一行も、書いたことがなかった。


◇ ◇ ◇


 その日の夕方、ハルトは、遥の母――京子《きょうこ》と、いっしょに、夕ごはんを食べた。


 週に一度、母が早く帰ってくる日だったらしい。食卓《しょくたく》には、肉じゃがと、みそ汁《しる》と、焼き魚がならんでいた。


「遥、きょうは、静かね」


 京子が、少し心配そうに言った。


「……つかれてるだけです。……だけ、だよ」


 ハルトは、あわてて、言いなおした。


 京子は、くすりと笑った。


「最近、遥、ときどき、ていねいな言葉になるわね。なんだか、毎回、ちがう人と、ごはんを食べてるみたい」


 ハルトは、みそ汁を、のどにつまらせそうになった。


◇ ◇ ◇


 夜9時すぎ。


 ハルトは、近くのコンビニまで、歩いて出かけた。遥の母が、明日の朝のパンを、買いわすれたと言っていたからだ。


 坂道は、暗かった。


 街灯と街灯のあいだが、ひろい。家々《いえいえ》の窓の明かりも、まばらだった。


 うしろから、足音がした。


 ハルトは、ふり返った。


 男が、ひとり、歩いていた。たぶん、ただ、同じ方向に歩いているだけだった。


 それなのに、ハルトの心臓は、ばくばくと、速くなった。


 足が、勝手に、早足になる。手のひらに、汗《あせ》がにじむ。スマホを、ぎゅっとにぎりしめる。


(……なんで、こんなに、こわいんだ)


 〈アストレイア〉のハルトなら、夜の道で、うしろに足音がしても、気にもしなかった。ふり返りもしなかっただろう。


 けれど、今、ハルトは、細い肩と、細い腕《うで》の、19歳《さい》の女の子のからだで、暗い坂道を歩いていた。


 もし、うしろの男が、何かをしてきたら。このからだで、何ができるだろう。


 男は、ハルトを追いこして、角を曲がっていった。何ごともなかった。


 ハルトは、立ちどまって、深く、息をはいた。足が、少し、ふるえていた。


(遥は、毎晩、こんな道を、歩いていたのか)


 夜勤の帰り。明け方の坂道。だれにも言わずに。


◇ ◇ ◇


 コンビニの帰りに、ハルトは、駅前の、大きな電気製品の店に寄った。


 遥のノートパソコンが、古くて、動きがおそいのが、気になっていたのだ。絵を描くには、もっと、性能のいいものが、いるだろう。


 ハルトは、店員に、ていねいに、質問した。


「このモデルの、グラフィック処理の性能は、どのくらいですか。それから、ペンの入力の遅《おそ》延は、何ミリ秒ですか」


 若い男の店員は、ハルトの顔を見て、にこにこと笑った。


「あー、そういうのは、ちょっと、むずかしいですよね。女の子なら、こっちのピンクのとか、どうですか? かわいいし、軽いし」


 ハルトは、だまって、店員の顔を見た。


 自分の質問は、聞かれなかった。顔と、からだと、声だけで、何がわかって、何がわからないかを、決められてしまった。


 〈アストレイア〉の会議室で、多数決で負けたときと、どこか、似ていた。いや、ちがう。あれは、意見を聞いたうえでの、負けだった。これは、意見を、聞かれもしなかった。


 ハルトは、何も買わずに、店を出た。


◇ ◇ ◇


 その夜、ハルトは、遥の机の前に、すわった。


『人生のコンパス(下書き)』


 ハルトは、ペンを取った。


 三行の言葉の、いちばん下に、ハルトは、少しのあいだ、迷ってから、一行だけ、書き足した。


 書きおえると、ハルトは、ノートを、そっと閉じた。


 何を書いたのかは、だれにも、言わなかった。


 窓の外で、夏の終わりの虫が、りりりと、鳴いていた。


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