37話 〈向こうの私〉ハルト、遥の部屋で
ハルト・ナナセが最初に気づいたのは、からだの、軽さだった。
肩に、何も乗っていない。
それは、筋肉が少ないからだけでは、なかった。いつも、肩の上に、ずっしりと乗っていた何か――「だいじょうぶでなければならない」という重り――が、ふっと、消えていた。
ハルトは、ベッドの上で、しばらく、ぼんやりと天井を見ていた。
それから、人さし指の先で、耳たぶのふちを、そっと、なぞった。
(……ここが、もう一人のおれの世界)
声に出すと、高い、すきとおった声が出た。ハルトは、少しおどろいて、それから、少しだけ、笑った。
◇ ◇ ◇
案内を読み、黒い板――この世界では「スマホ」と呼ぶらしい――の使い方を覚えると、ハルトは、遥の部屋を、ゆっくりと見てまわった。
本棚に、たくさんのスケッチブック。机の上に、描きかけの絵。竜と人がならんで飛ぶ、夜明けの空。人の顔は、描かれていない。けれど、空の中に、小さな竜騎士の影が、ふたつ。
机のすみに、一冊のノートがあった。
『人生のコンパス(下書き)』
ハルトは、ノートを開いた。
『七瀬遥は、描くことから、もう逃げなかった』
『だいじょうぶ。』
『七瀬遥は、人の話を、最後まで聞いた』
三つの、ちがう字だった。一つ目と三つ目は、同じ人の字。二つ目だけ、ちがう。年をとった人の、ふるえた、やさしい字。
ハルトは、そのノートを、長いあいだ、見つめていた。
この子は、自分が、どんな人間でありたいかを、書いているのだ。何度も、まよいながら。ほかのだれかの言葉にも、助けられながら。
ハルトは、自分の航路ノートを思った。計算と、データと、正しい答えばかりが、びっしりと書かれたノート。自分が、どんな人間でありたいかなんて、一行も、書いたことがなかった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、ハルトは、遥の母――京子と、いっしょに、夕ごはんを食べた。
週に一度、母が早く帰ってくる日だったらしい。食卓には、肉じゃがと、みそ汁と、焼き魚がならんでいた。
「遥、きょうは、静かね」
京子が、少し心配そうに言った。
「……つかれてるだけです。……だけ、だよ」
ハルトは、あわてて、言いなおした。
京子は、くすりと笑った。
「最近、遥、ときどき、ていねいな言葉になるわね。なんだか、毎回、ちがう人と、ごはんを食べてるみたい」
ハルトは、みそ汁を、のどにつまらせそうになった。
◇ ◇ ◇
夜9時すぎ。
ハルトは、近くのコンビニまで、歩いて出かけた。遥の母が、明日の朝のパンを、買いわすれたと言っていたからだ。
坂道は、暗かった。
街灯と街灯のあいだが、ひろい。家々《いえいえ》の窓の明かりも、まばらだった。
うしろから、足音がした。
ハルトは、ふり返った。
男が、ひとり、歩いていた。たぶん、ただ、同じ方向に歩いているだけだった。
それなのに、ハルトの心臓は、ばくばくと、速くなった。
足が、勝手に、早足になる。手のひらに、汗がにじむ。スマホを、ぎゅっとにぎりしめる。
(……なんで、こんなに、こわいんだ)
〈アストレイア〉のハルトなら、夜の道で、うしろに足音がしても、気にもしなかった。ふり返りもしなかっただろう。
けれど、今、ハルトは、細い肩と、細い腕の、19歳の女の子のからだで、暗い坂道を歩いていた。
もし、うしろの男が、何かをしてきたら。このからだで、何ができるだろう。
男は、ハルトを追いこして、角を曲がっていった。何ごともなかった。
ハルトは、立ちどまって、深く、息をはいた。足が、少し、ふるえていた。
(遥は、毎晩、こんな道を、歩いていたのか)
夜勤の帰り。明け方の坂道。だれにも言わずに。
◇ ◇ ◇
コンビニの帰りに、ハルトは、駅前の、大きな電気製品の店に寄った。
遥のノートパソコンが、古くて、動きがおそいのが、気になっていたのだ。絵を描くには、もっと、性能のいいものが、いるだろう。
ハルトは、店員に、ていねいに、質問した。
「このモデルの、グラフィック処理の性能は、どのくらいですか。それから、ペンの入力の遅延は、何ミリ秒ですか」
若い男の店員は、ハルトの顔を見て、にこにこと笑った。
「あー、そういうのは、ちょっと、むずかしいですよね。女の子なら、こっちのピンクのとか、どうですか? かわいいし、軽いし」
ハルトは、だまって、店員の顔を見た。
自分の質問は、聞かれなかった。顔と、からだと、声だけで、何がわかって、何がわからないかを、決められてしまった。
〈アストレイア〉の会議室で、多数決で負けたときと、どこか、似ていた。いや、ちがう。あれは、意見を聞いたうえでの、負けだった。これは、意見を、聞かれもしなかった。
ハルトは、何も買わずに、店を出た。
◇ ◇ ◇
その夜、ハルトは、遥の机の前に、すわった。
『人生のコンパス(下書き)』
ハルトは、ペンを取った。
三行の言葉の、いちばん下に、ハルトは、少しのあいだ、迷ってから、一行だけ、書き足した。
書きおえると、ハルトは、ノートを、そっと閉じた。
何を書いたのかは、だれにも、言わなかった。
窓の外で、夏の終わりの虫が、りりりと、鳴いていた。




