35話 はじめての、男のからだ〈残り72時間〉
最初に気づいたのは、声だった。
「……ここ、どこ」
自分の口から出た声が、低かった。
のどの奥で、ごろりと鳴るような声。遥の声より、ずっと深くて、重い。自分がしゃべったのに、となりにだれかがいるような気がして、遥は、思わず、口をおさえた。
その手が、大きかった。
[おはようございます。旅行1日目、午前7時00分01秒。魂の交換は、正常に完了しました]
〈おはよう、遥。……びっくりしたね〉
[現在地は、第5世界、宇宙文明。恒星間探査船〈アストレイア〉、乗員区画、第3居室。交換相手は、ハルト・ナナセさま、19歳、男性。この船の、パイロットです]
遥は、ベッドから、からだを起こした。
天井が、近かった。
いや、ちがう。天井が近いのではない。目の位置が、高いのだ。ベッドにすわっているだけなのに、いつもより、ずっと上から、部屋を見おろしている気がした。
立ちあがると、頭が、天井の照明に、ごつんとぶつかった。
「いった……」
低い声が、また、自分の口から出た。
それから、もうひとつ、気づいたことがあった。
下半身に、なじみのない、違和感があった。からだの一部が、自分の知らない形で、こわばっている。
遥は、おそるおそる、目をやって、すぐに、そらした。顔が、かっと熱くなった。
[ご安心ください。健康な男性のからだに、朝、よく起こる、自然な現象です。眠っているあいだのからだのしくみによるもので、気持ちとは、関係ありません]
ノヴァ1が、規約のページと行を読みあげるときと同じ、正確な声で言った。
〈……1。今は、説明しないで、そっとしておいてあげて〉
[……失礼しました]
遥は、だれにも見られていないのに、両手で顔をおおった。自分のからだなのに、知らない人のからだを、のぞいてしまったような気がした。
部屋のすみの、小さなトイレに入った。用をすませるころには、そのこわばりは、何ごともなかったように、しずかに、おさまっていた。
(……男の人って、毎朝、こうなの?)
だれにも聞けない質問を、遥は、心の中にしまった。
◇ ◇ ◇
洗面台の鏡に、青年が映っていた。
短く刈った黒い髪。日に焼けた、ほおの線。あごに、ざらりとした、ひげのそりあと。肩が、はばひろく、Tシャツの胸が、少しきつそうだった。
けれど、目は、遥の目だった。
まゆの形も、鼻すじも、口のはしの小さなほくろも。同じ顔の、男の人だった。
遥は、鏡の中の青年を、長いあいだ、見つめていた。
知らない人のようで、いちばんよく知っている人のようでもあった。
ふと、右手が、耳もとにのびた。人さし指の先で、耳たぶのふちを、上から下へ、そっと、なぞる。
(……これが、ハルトのくせ)
つまむのでも、引っぱるのでも、押すのでもない。なぞる。たしかめるように。
その手の大きさに、また、どきりとした。
[遥さま。ご報告があります]
ノヴァ1の声が、いつもより、かたかった。
[この旅行の終了時に、わたしの削除が、実行されます。審査をやりなおすには、この旅行で、最高の評価を、取る必要があります。……最短で、課題を攻略しましょう。プランは、すでに作成してあります]
〈1。……遥は、まだ、目がさめたばっかりだよ〉
[時間は、72時間しかありません]
ノヴァ1の声には、あせりがあった。
遥は、鏡の中の、男の自分を見た。
(……わかってる)
千鶴の手のぬくもりが、まだ、手のひらに残っている気がした。この大きな手の、どこにも、残っているはずがないのに。
◇ ◇ ◇
〈アストレイア〉の通路は、まるく、白かった。船体のこの部分は、大きな輪の形をしていて、ゆっくりと回転している。その回る力が、からだを床に押しつけ、地上と同じような重さを、つくりだしているのだ。通路の先は、ゆるやかに上へとカーブしていて、遠くの床が、まるで壁のように、立ちあがって見えた。空気は、何度もろ過されたような、かすかに金属のにおいがした。
窓の外に、星が流れていた。
遥は、思わず、立ちどまった。
黒い宇宙に、数えきれない星が、こまかい砂をまいたように、光っていた。そのあいだを、うすむらさき色の星雲が、ゆっくりと、ただよっている。音は、何もしない。船のエンジンの、かすかな、ブーンという振動だけが、足のうらから伝わってきた。
ハルカの世界の空でも、竜の背から見た雲の海でも、シェルターの地下でもない。
どこまでも、どこまでも、ひろがる、黒い空。
遥は、窓のガラスに、そっと手を当てた。
ひやりとした。骨のずいまでしみてくるような、冷たさだった。このガラス一枚の向こうには、何もない。空気も、音も、ぬくもりも。
星の光は、またたかなかった。地球の夜空の星のように、ゆれたりしない。針の先でついたような光が、ただ、じっと、こちらを見ている。
[窓の左上の、青い星の光は、12年前に、あの星を出た光です。わたしたちが今見ているのは、12年前の、あの星です]
「ハルト! 朝のブリーフィング、はじまってるぞ!」
うしろから、太い声がした。
ふり向くと、ずんぐりとした、背の低い男が、腕を組んで立っていた。肩も腕も、丸太のように太い。肌は、岩のような灰色だった。
[技術者のタンガさまです。重力の強い惑星の出身で、地球人の約3倍の筋力があります]
「なにぼーっとしてんだ。……まあ、おまえなら、大丈夫だろうけどな」
タンガは、遥の背中を、ばしんとたたいた。
遥は、前につんのめりそうになった。
けれど、からだは、ふみとどまった。足が、床を、しっかりととらえていた。重くて、強い、からだだった。
◇ ◇ ◇
ブリーフィングルームには、5人の乗員が、まるいテーブルをかこんでいた。
ひとりは、すきとおるような青い肌の、ほっそりとした女の人。耳のうしろに、うすい、ひれのようなものがある。話す人の顔を、じっと見つめるたびに、首すじの肌の色が、うすく変わっていた。
[言語学者のリーフさまです。水の惑星の出身。相手の気持ちを、肌の色の変化で感じとるそうです]
もうひとりは、銀色の髪の、背の高い男の人。目を閉じたまま、ゆっくりと話す。
[医師のヴェガさまです。寒い惑星の出身で、目ではなく、熱で、まわりを見ています]
そして、テーブルのいちばん奥に、背の高い、黒い肌の女の人が、すわっていた。短く刈った白髪まじりの髪。大きな目。笑うと、目じりに、深いしわができる。
[艦長の、アデ・オコンクォさまです]
「おはよう、ハルト。顔色が悪いね。ゆうべ、眠れなかったかい」
艦長の声は、大きくて、あたたかかった。
「……だいじょうぶです」
遥が答えると、タンガが、横から、口をはさんだ。
「ハルトは、いつも、だいじょうぶなんだよ。パイロットってのは、そういうもんさ。なあ?」
みんなが、笑った。
遥も、笑おうとした。けれど、うまく、笑えなかった。
だいじょうぶ。
この世界では、男のパイロットは、いつも、だいじょうぶでなければならないのだ。弱音をはいたり、こわいと言ったりする場所は、どこにも、用意されていないのだ。
ハルトのからだが、それを、よく知っていた。肩に、ずっと、見えない重りが、乗っていた。




