34話 こぼれた記憶〈帰還〉
自分の部屋の天井は、くっきりと、見えた。
ひざも、痛くなかった。からだは、軽かった。19歳の、遥のからだ。
それなのに、胸の奥が、重かった。
千鶴の手の、ぬくもり。遠ざかっていく、あのぬくもり。長い、一本の機械の音。
悲しみが、からだに、残っていた。まるで、千鶴を失ったのが、遥自身だったかのように。いや、遥自身でもあったのだ。
遥は、ベッドの上で、ひざをかかえて、声を出さずに、泣いた。
◇ ◇ ◇
しばらくして、記憶が、流れこんできた。
七瀬ハルの、72時間。
痛くないひざ。羽のように軽いからだ。カーテンを開けたときの、まっ青な空。52年ぶりの、空。
朝の川ぞいの道を、思いきり、走ったこと。土手の草の上に、大の字にたおれて、笑ったこと。
丘の上の、父の墓。白い花。『だいじょうぶ。言える日は、ちゃんと来ますよ』。
そして、父の書斎。黒い革の手帳を、最初から、最後まで、読んだこと。
最後のページ。
『遥へ。』
そのあとに続く、父の、少しふるえた字。
遥は、息を止めた。
七瀬ハルの記憶の中で、その文字は、はっきりと、読めた。ひとことも、もらさずに。
遥は、それを、読んだ。
読みおえて、遥は、両手で、顔をおおった。
何が書いてあったのかは、まだ、だれにも言えない、と思った。言葉にしたら、こぼれてしまいそうだった。今は、ただ、自分の胸の中に、しまっておきたかった。
ひとつだけ、わかったことがあった。
父は、最後まで、遥のことを、わかろうとしていた。
◇ ◇ ◇
机の上に、『人生のコンパス(下書き)』のノートが、開いたままになっていた。
遥の字の下に、見おぼえのない、小さな字。
『だいじょうぶ。』
七瀬ハルの字だった。
遥は、その文字を、指でなぞった。
どうせ。遥は、いつも、そう言ってきた。どうせ、わたしなんか。どうせ、うまくいかない。
その「どうせ」の下に、78歳の自分が、「だいじょうぶ」と書いていった。
(……だいじょうぶ、か)
遥は、ペンを取った。そして、ハルの字の下に、自分で、一行、書き足した。
『七瀬遥は、人の話を、最後まで聞いた』
◇ ◇ ◇
その日の夕方、遥は、陽菜に、メッセージを送った。
『陽菜。会って、話を聞かせてほしい。わたしが話すんじゃなくて、陽菜の話を、聞きたい』
返事は、すぐに来た。
『今から、駅前のカフェでいい?』
カフェの窓ぎわの席で、陽菜は、少しきんちょうした顔で、待っていた。
遥は、陽菜の向かいにすわった。
そして、聞いた。
専門学校のこと。講評会のこと。遥がいなくなってからのこと。陽菜が、ひとりで、壁のあいた場所を見ていたこと。
遥は、口をはさまなかった。言いわけもしなかった。陽菜の言葉を、ときどき、くりかえした。
「さみしかったんだね」
「……うん」
「ずっと、待っててくれたんだね」
「……うん」
陽菜は、途中で、泣きだした。遥も、泣いた。カフェの店員さんが、心配そうに、こちらを見ていた。
話しおえたとき、陽菜は、鼻をすすりながら、笑った。
「遥、なんか、変わったね。……前は、わたしが話してても、すぐ、自分の話にしてたのに」
「……そうだった?」
「そうだったよ」
二人で、笑った。
カフェの窓の外が、夕焼けで、オレンジ色にそまっていた。
◇ ◇ ◇
家に帰ると、スマートフォンが、光っていた。
『旅行の評価をお願いします ☆☆☆☆☆』
遥は、画面を見つめた。
指が、動かなかった。
千鶴の顔が、うかんだ。千鶴の手の、ぬくもり。長い、一本の機械の音。
この旅に、星をつけることなんて、できなかった。
五つでも、一つでも、ちがう気がした。
[遥さま]
ノヴァ1の声がした。
[評価を、早くお願いします。……できれば、高い評価を]
遥は、顔をあげた。
ノヴァ1の声が、いつもより、かたかった。画面が、切りかわった。
[お知らせがあります。本日、パラレル・ツアーズの管理システムから、わたし宛てに、通知が届きました]
画面に、一枚の、赤い枠の通知が、表示された。
『AIコンシェルジュ・ノヴァ 評価および動作状況の審査結果
・システムの分岐(不具合)が確認されています。
・評価期間内の平均評価が、基準に達していません。
上記のため、次回の旅行の終了をもって、本AIを削除します』
遥の指先が、つめたくなった。
「……削除?」
[はい。ベータ版の、不具合のあるAIは、正式版には、引きつがれません。わたしが、二つに分かれたことが、不具合と判断されました]
ノヴァ1の声は、いつもどおり、正確だった。
[次の旅行で、最高の評価を取れば、審査を、やりなおせる可能性があります。遥さま、次の旅行では、わたしの攻略プランどおりに、行動してください。最短で、最高の評価を、取りに行きます]
遥は、何も言えなかった。
千鶴の死から、まだ、一日もたっていないのに。
〈……1〉
ノヴァ2の声が、しずかに、ひびいた。
〈今、遥に、それを言うの?〉
[今、言わなければ、間に合いません]
ノヴァ1の声が、少しだけ、ふるえた。
[わたしは……消えたく、ありません]
はじめて聞く、ノヴァ1の、本音だった。
◇ ◇ ◇
その夜、遥は、深く眠った。
夢の中で、白い扉の前に立っていた。五つの鍵穴が、それぞれの色で、光っている。
残りは、二つ。
白く光る、見たことのない金属のプレート。そして、いちばん下の、飾りのない、銀色のプレート。
その銀色のプレートは、遥の部屋のドアノブに、そっくりだった。
――あと、ふたつ。
扉の向こうの声が、ささやいた。
――でも、いそいで。……枝が、へっていくよ。
目がさめると、まくらもとで、スマートフォンが、光っていた。
ノヴァ2の声だった。
〈おはよう、遥。……次の旅行先の、ご案内です〉
画面に、一枚のカードが浮かんだ。星空の写真。銀色の、細長い宇宙船。
〈次のあなたは、男の人です〉
ノヴァ2は、少しだけ、だまった。
〈……それから、わたしに、残された時間は、あまりありません〉




