33話 聞くことで変わる〈残り1時間〉
手術の前に、千鶴が、目をさました。時計は、明け方の4時だった。遥は、ほとんど眠っていなかった。年寄りのからだは、どうせ、この時間には、目がさめてしまうのだ。
医療区画の、白いベッドの上。千鶴は、ゆっくりと、まぶたをあけた。かすんだ目が、遥をさがして、さまよった。
「……ハル」
「ここにいるよ」
遥は、千鶴の手を、両手で、つつみこんだ。
千鶴は、ほんの少しだけ、口のはしを、ゆるめた。
「聞いたよ。……広場の、話」
声は、かすれて、細かった。一言ごとに、胸が、苦しそうに上下した。
「マザーが、わからないって、言ったんだってね。……あんたが、聞いてやったから」
「千鶴さんの、まねをしただけだよ」
「ばか言うんじゃないよ」
千鶴は、くすりと笑った。笑ったせいで、少し、せきこんだ。
「あたしに、聞き方を、教えたのは、あんただって、言ったじゃないか」
◇ ◇ ◇
手術の準備ができるまで、少し、時間があった。
千鶴は、ぽつり、ぽつりと、話しはじめた。
「ハル。……あんたと、はじめて会った日のこと、覚えてるかい」
遥は、答えられなかった。ハルの記憶は、まだ、遥の中にはない。
けれど、遥は、だまって、うなずいた。千鶴の話を、聞きたかった。
「50年前。このシェルターに、来たばかりのころだよ。あたしは、家族を、みんな、大崩壊で、なくしてた。だれとも、口をきかなかった。毎晩、倉庫のすみで、ひざをかかえてた。……そこに、あんたが、来たんだ」
千鶴の目が、遠くを見ていた。
「あんたは、何も、聞かなかった。何があったのかとか、元気出せとか、何も言わなかった。ただ、となりに、すわってた。毎晩。白湯を、二つ、持ってきてね」
遥は、胸の奥が、熱くなるのを感じた。
ゆうべ、マザーのとなりに、だまってすわっていた自分を、思いだした。
「30日目くらいだったかね。あたしが、やっと、口をきいたのは。……そしたら、あんたは、あたしの話を、最後まで、ひとことも、さえぎらずに、聞いてくれた。夜が明けるまで」
千鶴は、遥の手を、弱い力で、にぎりかえした。
「あれから、50年さ。……いろんなことが、あったね。まわりに、いろいろ言われたこともあった。女どうしで、とか、年寄りどうしで、とか。でも、あたしは、あんたと生きて、ほんとうに、よかったよ」
遥の目から、涙が、こぼれた。
ハルの涙なのか、遥の涙なのか、わからなかった。たぶん、両方だった。
竜騎士のハルは、イリスへの想いを、日記の3行目に、何度も消しながら、書いていた。
このハルは、千鶴と、50年、生きた。まわりに何を言われても。
人を愛することに、決まった形なんて、ない。
遥は、今、それを、千鶴の手のぬくもりから、教わっていた。
◇ ◇ ◇
ピッ、ピッ、という機械の音が、急に、速くなった。
千鶴の顔から、すうっと、血の気が、引いていった。
[……遥さま]
ノヴァ1の声が、ふるえていた。
[千鶴さまの心拍が、不安定です。手術の開始まで、もちこたえられる確率は――]
(言わないで)
遥は、心の中で、さけんだ。
[……承知、しました]
医療区画の扉が開き、白い服の人たちが、かけこんできた。機械の音が、さらに速くなる。だれかが、何かをさけんでいる。
けれど、千鶴は、遥の手を、はなさなかった。
「……ハル」
千鶴の声は、もう、ほとんど、息だけだった。
「白湯……ちゃんと、ぬるく、して、飲むんだよ……あんた、すぐ、舌、やけどするんだから……」
「うん。うん」
遥は、何度も、うなずいた。涙で、千鶴の顔が、見えなかった。
「……あんたは」
千鶴の手に、最後の力が、こもった。
「あんたは、最後まで……ちゃんと、聞いて、くれたね……」
千鶴は、しずかに、目を、閉じた。
機械の音が、長い、一本の音に変わった。
ピ――――――――。
◇ ◇ ◇
どれくらい、そうしていたのか、わからない。
遥は、千鶴の手を、にぎったまま、動けなかった。
手は、まだ、あたたかかった。けれど、そのぬくもりが、少しずつ、少しずつ、遠ざかっていくのが、わかった。
だれかが、遥の肩に、手を置いた。リンだった。リンも、泣いていた。そのうしろに、カイがいた。何人もの若者たちが、医療区画の入り口に、だまって、立っていた。
天井のスピーカーから、マザーの声が、小さく、ひびいた。
『……七瀬ハルさん』
マザーの声も、ふるえていた。
『わたしは、千鶴さんの治療の優先度を、「低」と、判断しました。あの判断が、なければ……』
遥は、首を、ゆっくりと、横にふった。
「……あなたのせいじゃ、ない」
母が、言ってくれた言葉だった。お父さんが倒れたのは、だれのせいでもない、と。
「だれのせいでも、ない。……みんなで、決めたんだよ」
マザーは、しばらく、何も言わなかった。
『……はい』
◇ ◇ ◇
涙の中で、遥は、目をとじた。
まぶたの裏に、白い扉が、浮かんだ。
七つの鍵穴。真鍮と、うろこの銀と、羽根の銅と、黒い木。四つが、それぞれの色で、光っている。
そして、五つ目。
赤くさびた鉄のプレートの鍵穴が、ゆっくりと、光りはじめた。
白湯の湯気のような、しずかで、やわらかな、白い光だった。
――いつつめ。
扉の向こうの声が、言った。
その声は、少しだけ、泣いているように、聞こえた。
[帰還まで、残り、1時間です]
ノヴァ1の声が、とても小さく、ひびいた。
遥は、千鶴の手を、もう一度だけ、にぎった。
(千鶴さん。……わたし、ちゃんと、聞く人に、なるね)




